◇遊牧の民(4)
最後のカイが谷底から戻ってきて、ようやく人心地つく。アスールの傷は、出血量に比べて浅いものだった。キョウが見ていない間に軽くイリーネが治癒して包帯を巻いておいた。この分ならあとは自然治癒に任せて大丈夫だろう。
「カイ、アスール。さっきの化身族のヒトは……」
問いかけると、アスールが微笑んだ。
「形勢不利と見て去っていったよ。地中を移動できるというのは便利なものだな」
「そうですか、良かった……」
ほっとしたのも束の間で、アスールはすぐに表情を改めた。神妙な表情で、一同を見回す。
「先程の相手は、私に因縁のある相手だったようだ。巻き込んでしまってすまない」
「因縁って、どんな?」
チェリンの素朴な問いに、アスールは一瞬言葉に詰まった。それから観念したように説明する。
「……以前、私とダグラスの間で派閥が割れているという話をしたと思う。軍部寄りの私と違って、ダグラス派はもっぱら文人だ。彼らは自らの戦力を持たず、ハンターを雇って私を抹消しにかかっていた」
「抹消……!?」
「今はだいぶ収まった。昔は結構、酷かったものだ」
さらっと語るアスールが信じられない。だって、昔は頻繁に命を狙われていたということだろう。それを淡々と――。
「おそらく先程の化身族も、私の暗殺に差し向けられた刺客のひとりだろう。あの眼の傷、見覚えがある。というか、私がつけたものだ」
「トライブ・【ライオン】はプライドの高い種族だからな。顔に一生もんの傷をつけられて、絶望してギヘナに移り住んだってところだろう。ところがそこにかつての怨敵が現れた。だからじっとしていられなかった、って感じかね」
ニキータの推測にアスールも頷く。
「サレイユ本国には、私に恨みを持つ者がたくさんいる。そんなところへ、本当にみなを連れて行っていいものなのか……」
その顔は、本当に悩んでいた。アスールにとってサレイユは、心休まる故郷ではなくて、戦場なのだ。そこへ戻るというだけで勇気が要るのに、同行者がいればどうしても身軽にはなれない。顔も割れているだろうし、騒ぎになる可能性は高そうだ。
「アスールひとりで悩むことじゃないでしょ。なんのために俺らがいるの」
「……カイ」
アスールは苦笑を浮かべる。カイの頭を、軽くニキータが小突いた。
「尤もな意見だが、お前が言うとどうしてこう格好つかないのかね」
「うるさいなぁ」
と、そこでキョウが軽く咳ばらいをした。そういえばキョウがいるのをすっかり忘れ、アスールの事情などを話し込んでしまっていた。
「……事情はよく分からないが、とにかくケル族のキャンプへ急ごう。話すにも、アスール殿の手当てをきちんとするにも、こんな場所では落ちつかないからな」
「俺たちと出会ったばかりに、踏んだり蹴ったりじゃないか。キャンプなんて連れて行かなくてもいいんだぜ?」
ニキータの言葉に、キョウは首を振って否定した。
「貴方がたがいなければ私は死んでいたはずだ。恩には報いねば気が済まない。礼はさせてくれ」
「ほう。気丈なお嬢さんだ」
――思わずそのまま流しかけて、慌ててイリーネは耳を疑った。いまニキータは、誰に向かって何と言ったのか。
キョウを見る。目を丸くして、彼――彼女は硬直していたのだ。
「……きょ、キョウさんって、女の子だったんですか!?」
皆の驚きを代表してイリーネが問いかけると、キョウははっと我に返って振り返った。それから僅かに赤面して頷く。
「そ、そうだ……私は女だよ」
「てっきり、男の子だと……」
一人称がアスールと同じ『私』だったことが引っかかっていたが、堅苦しい言葉遣いに男物の服、仕草を見ても青年そのものだった。女だと聞かされても、実感が湧かない。強いて言えば、男性にしては少し声が高いくらいだ。
「いつから気付いていたんだ?」
ニキータにキョウが問いかける。ニキータは肩をすくめる。
「最初から。俺たちは人間と違って、見た目以外にも判断材料があるからな」
「カイとチェリンも、分かってたんですか?」
その質問に、両者は妙な表情を浮かべた。そしてカイとチェリンがそれぞれ一言。
「男の子にしては可愛い顔だなと」
「さっぱり」
「……おいおい、お前ら獣族のくせしてどうしたよ」
拍子抜けしたようにニキータが肩を落とす。化身族か人間かはすぐに見抜けるが、男女の別はカイたちも難しいようだ。カイは化身族としてはまだまだ若いし、チェリンなどもっと年少だ。ニキータに比べれば、ヒトを見る目はそこまでではなかったらしい。見た目の他に何を判断材料にしたのか分からないが、キョウが女だと分かったニキータのほうが不思議という結論で話が終わってしまったのだった。
★☆
テール丘陵の麓、なだらかな斜面に、ケル族のキャンプは形成されていた。
草原のあちこちで、ヤギやヒツジの放牧が行われている。のんびりと草を食んでいたのだ。柵も何もないのによく管理できていると感心するが、犬を連れているのでまとめて面倒見てくれているそうだ。もうすぐ夕方になるから、放牧も終えるという。
そこから少し離れた場所に、いくつかの住居が建てられている。円形の白いテントのようで、名をゲルと言うらしい。きちんと扉もあるし、ドーム状の屋根にはぴったり布が張られている。こう見えて骨組みは頑丈で、なかなか快適なのだそうだ。この移動式住居に住み、家畜たちと共に草原中を移動する生活が、遊牧民族の文化なのだ。
「キョウ、帰ったのか。……そちらは?」
ひとつのゲルの前に立っていた青年がそう声をかけてくる。キョウは微笑み、イリーネたちを振り返る。
「私の客人だ。――みんな、紹介する。こちらはケル族の族長センリだ。私の兄でもある」
それから、センリのほうを向く。
「兄者、こちらは旅の御方、イリーネ殿たちだ。草原で獣に襲われた私を助けてくれた、命の恩人なんだ」
「そうだったのか。妹が世話になったようで、ありがとうございます」
センリは深々と頭を下げてくれる。兄妹そろって礼儀正しいヒトたちだ。思わずイリーネも頭を下げてしまう。キョウを助けたのはイリーネではないのだが、化身族の面々はこういう話は面倒臭いのかうしろで黙ってしまっているのだ。
「この方たちにここで休んで行ってもらってもいいだろうか?」
「勿論。空いているゲルがあるから、是非そこで休んでください」
とんとんと話が進んでいき、センリの指示ですぐさまゲルが建てられた。ご丁寧に、男性用と女性用ふたつもだ。折りたたみ式の骨組みを広げ、屋根と壁になる布を被せる。床にも敷物を敷き、クッションや毛布を運び込む。
総出でのゲルの組み立てだが、それには数十分ほどかかると言われ、イリーネたちは族長センリのゲルにお邪魔することになった。キョウはといえば、キャンプに戻って早々どこかに行ってしまった。
ゲルの中は広々としていて、炎天下でありながら涼しいほどであった。イリーネたちが普段使っているテントより、よほど快適だ。座っても寝ても、腰や尻が痛くならなさそうだった。
センリ自ら、お茶を持って来てくれる。至れり尽くせりで逆に恐縮だ。
「キョウと母たちが、いま食事の用意をしています。ただの茶で申し訳ありませんが、夕食になるまでどうぞ」
「あ、ありがとうございます、何から何まで……」
「気にしないでください。キョウから全部聞きました。……本当に、ありがとう。部族の者を救っていただいたご恩は、一晩の宿と食事程度ではとてもお返しできません」
センリはお茶を全員に配り、いささか狭いゲルの中で正座した。そして床に拳をつき、深々と頭を下げる。イリーネが慌てて頭をあげるよう促そうとしたのだが、逆にセンリがそれを制する。
「かつてこのギヘナには、十を越える部族が共存していました。しかし今や生き延びているのは、我らケル族のみ。その我らも、もはや六家族にまで減ってしまいました。そしてつい先日、先代の族長である私とキョウの父親を亡くしたばかり……この上、妹の命まで失っては……」
センリの口から語られる切羽詰った現状に、イリーネも口をつぐむ。センリはおそらく二十代半ばほど、族長を名乗るには若いから何か事情があるとは思っていたが――父親を亡くしたばかりだったとは。
イリーネが思うよりも、このギヘナは多死社会なのだ。先程のように化身族に襲われ、時に食糧難に遭い、時に子供に恵まれず、多くのヒトが死んでいく。それが当たり前の世界なのだろう。
「……キョウは、どうして男装をしているの?」
不意にカイが尋ねる。場の空気を和ませるための質問のようだ。センリは苦笑する。
「本人に言わせれば、あれは別に男装ではないそうです」
「そうなの?」
「女らしさを捨てているわけではなく、女らしくする必要がないと考えているんですよ。だから動きやすさ重視の格好をし、簡潔に男言葉を使うんです」
センリは感慨深げに茶をすする。キョウは十六歳くらいだろうし、センリは兄というか父のように見えるからおかしなものだ。
「俺としてはキョウには女の子として生きてほしいし、いつか恋愛もしてほしいと思っているんですけどね。今の状況じゃあキョウの女子要素なんて料理が上手いことくらいで……って」
そこまで語ったセンリは急に我に返った。真っ赤に赤面して俯いてしまう。
「す、すみません。ぺらぺら話してしまいまして……」
イリーネの推測に過ぎないが――多分、キョウがそうであったようにセンリも嬉しいのだ。かつては大勢いたはずの仲間たちはいなくなり、もはや身内しか生き残っていない。そんなところへ、何も知らない外の人間が来てくれた。話すことは尽きない。
この広大なギヘナ大草原の中で、彼らの暮らしは閉鎖的だった――そういうことのような気がする。
そのうちゲルも完成し、日もいい具合に落ちてきた。キョウとその母親が豪華な食事を用意してくれて、部族の者全員を巻き込んでちょっとした宴会だ。彼らにとっては貴重な食材や酒を、惜しみなく提供してくれたのである。とはいえ肉の大半は、先程ニキータが仕留めて持って帰ってきたものなのだが。断るわけにもいかず、カイも渋い顔をしつつ肉を食べているようだ。
男たちは男同士で輪を作って酒と食事を楽しんでいたので、イリーネとチェリンも、キョウやその母親たちと女だけの輪を作っていた。キョウたちは草原の外の世界を多少は知っているといっても、生涯の大半をギヘナで過ごすのだ。知らないことの方が圧倒的に多く、イリーネたちを質問攻めにする。イーヴァンの山間部はどのような場所なのか、フローレンツの王都はどのような場所なのか。どんなヒトたちと出会ってきたのか、これからどこへ行くのか。イリーネとチェリンとて語れることは少ないが、ふたりの話をキョウは楽しそうに聞いてくれた。そんなに興味津々だと、話す方も楽しくなってくる。それに今更ながら、キョウが年下の女の子だというのを実感するのだ。
「フローレンツにイーヴァン、ギヘナ、そしてこれからサレイユ。イリーネ殿たちは大陸の半分以上を旅してきたのだな。羨ましい」
「草原から出たいとか思ったことはないの?」
チェリンが問うと、キョウは微笑む。
「ある。けどやはり私は、草原を離れられないんだ。なんというか、少し怖い」
「怖い?」
「外に行くのが……新しい環境が、怖いと思う。勿論、ギヘナより大きな街のほうが断然安全だろう。それでも草原は、私にとって住み慣れた土地だから」
「……まあ分かるわね、その気持ちは」
空になった皿を重ねて端に押しやりつつ、チェリンは呟く。雑貨の多くは街で購入したものらしく、食器全般にはフローレンツの行商組合の紋が刻まれていた。それを見て思い出すのは、短い時間ともに旅をした商人のライルのことだ。
あれから、彼はどうしているだろう――。
「あたしは故郷が大嫌いだったけど、今は少し懐かしいと思うもの。なんだかんだいっても、生まれ育った場所だからね。全く違う暮らしをしている街へ出ることは、確かにちょっと怖かったわ」
「それでもチェリン殿は旅に出たんだな」
「それがあたしの夢だったから。故郷を出たことに後悔はしていないわ。今は充実しているし、楽しい。それに色んな場所を見たからこそ、故郷も悪くなかったなって思えるようになったんだし」
人間を避け、排他的だったフィリードの集落を嫌いだと断言していたチェリンが、今になって『懐かしい』と言っている。共に旅をし始めて、そんな言葉は初めて聞いた。それがなんだか嬉しい。チェリンの心境の変化も、今の生活を充実していると言ってくれたことも。
故郷とは、やはり大切なものなのだ。カイだってフィリードを『ろくな場所ではない』と言っていたが、なんだかんだ思い出話をたくさんしてくれた。アスールも、サレイユは苦々しい思い出に満ちているようだが、それでも『良い場所だ』と教えてくれる。
自分にとっての、リーゼロッテ神国。その都である、神都カティア。いつか記憶が戻ったら、自分もその街を懐かしいと思えるのだろうか。
「良いわよ、旅」
ぽつりとチェリンが呟く。満足そうな笑みが浮かんでいた。それにつられて、イリーネとキョウも微笑む。
「そうか。……そうだと思う、私も」




