◆遊牧の民(3)
急に足を止めて後ろを振り返ったアスールに、最初に気付いたのは横を歩いていたチェリンだった。チェリンも同じように立ち止まって問いかける。
「どうかした?」
「いや……何か視線を感じた気がしてな」
視線と言われて、カイはニキータと目を見交わす。特に何も感じていなかったが、だからといって「アスールの気のせいだ」で済ませることはできない。そこまでうぬぼれてはいないし、アスールは一流の戦士だ。
「まだ感じるか?」
ニキータが言いながら、担いでいた獣を地面に下ろした。引きずられるようにカイも続き、不安げなイリーネを守って前に出る。自然、戦えないイリーネやクレイザを中心にして、その他の者で輪を作った。
「はい。――近いな」
アスールが集中するように目を閉じる。ひどく真面目な横顔だ。その後ろで、キョウが武器を構えていた。あれは――弓矢か。知識だけはあるが、随分と古い武器だ。馬の鞍に括り付けていた矢筒から矢を引き抜き、弓を構えて周囲を警戒する姿は立派なものだ。
ぴりぴりした緊張感。カイも同じように気配を探るが、どうしたことかまったく分からない。それでも警戒は解かずに、いつでも化身できるように構える。
だが、どこを見てもあたりは一面草原だ。怪しい気配どころか、姿さえ見えない。気配は隠せても、姿を隠すなど、どのような相手、どのような技術――?
噂をすればなんとやら。まさか相手は化身族か。
「――下だ!」
アスールが叫ぶ。真偽を問うまでもなく、カイはイリーネを抱えてその場を飛び退いた。ニキータもクレイザの腕を思い切り引っ張り、キョウは俊敏に馬を移動させている。――戦いの心得はあるようだ。
今までいた地面が、突如盛り上がった。地表を突き破って、何か巨大な物体が飛び出してきたのだ。飛んでくる土を払いのけて、その物体を見る。イリーネが息をのむ気配がした。
そこにいたのは、豪奢なたてがみをもつ雄ライオンだったのだ。トライブ・【ライオン】。だが、サイズがおかしい。どんなに強い野生のライオンでも、ここまで大きくはならないだろうというほどだ。
もはやたてがみのせいでどこが顔だか分からないが――目の部分を見て、カイは眉をしかめた。右目の上から、ざっくりと斬撃傷が入っていたのだ。化身族同士の争いで傷がつくこともあるが、あれは爪や牙の傷ではない。刃物だ。その傷のせいで、より人相が悪くなっている。……化身して獣の姿をしている相手に、人相とは適切ではないか。
にしても、この登場の仕方。まさか地中を移動しての登場とは。
「おいおい、モグラじゃねぇんだからよ」
ニキータが呆れたように呟く。とはいえ、それが彼の魔術だ。地属性――カイもあまりお目にかかったことのない属性の魔術だった。地中を自在に移動できる能力か、場所によっては便利だろう。特に、真っ平らで逃げる場所のないこのギヘナ大草原では。
ライオンのひとつの目は、アスールを凝視している。アスールも静かに見つめ返していた。――なんだろう。アスール以外は眼中にないといった様子だ。アスールだけに向けられた強烈な殺意。だからアスールがいち早く敵の接近に気付いたのだ。
とにかく、この妙な膠着状態はどうにかしなければならない。カイは口を開いた。
「あのさ、ライオンさん。とりあえず一回化身解いてよ。じゃないと話もできないし」
我ながら穏便に済まそうとしたものだ。あまり自分より大型なライオン相手に戦いたくないというのも本音だ。
言葉は理解できるらしい、相手はカイをぎろっと見てきた。だが、無視される。説得に入ろうとしたところで、ライオンは大きく吠えた。空気がびりびりと震えるくらいの大音量だ。カイの鋭敏な耳はいかれる寸前である。
これが――噂には聞いていた、ヒトであることを捨て、獣として生きることを選んだ化身族。
「イリーネ、クレイザと一緒に端に避けてて」
「は、はいっ」
カイの指示を受けて、イリーネがそっとその場を離れる。
戦いになることは避けられないだろう。そう思っての判断だ。既に後ろではニキータとチェリンが化身している。アスールが剣を抜いたのを見て、カイは眉をしかめた。
「アスール、無茶だ。この大きさを相手に、剣じゃ……」
「そうは言っても、この者は私に用があるみたいだぞ」
ライオンから目を離さずに、アスールは答えた。
「……もしかして、こいつのこと知ってる?」
「心当たりは、あるにはある」
その瞬間、ライオンがアスールに飛び掛かった。鋭い牙はアスールを容易く引き裂くだろうが、勿論アスールは黙って立っていたりしない。剣で牙を受け止め、払いのける。……これだけ大型の獣の攻撃を打ち払えるのだから、やはり只者ではないのだろう。
アスールはライオンの攻撃を受け、躱しながら、イリーネらから離れていく。片側に湖、片側に深い谷という位置は誰にとっても不利だ。少しでも広い場所へと誘導している。
ひゅっ、と空を切る音がした。キョウが矢を放ったのだ。反対側からニキータも“黒羽の矢”を放つ。どれも命中していれば傷になったものを、ライオンの創りだした壁がそれを寸前で防いでしまった。
“岩壁”――地属性らしい魔術だ。カイの創りだす“凍てつきし盾”よりも強度があるだろう。あれを破壊するのは骨が折れそうだ。
カイも化身して“氷結”を発動させる。カイの周辺の空気が冷たさを孕む。湖が傍にあるから、水気は十分すぎるほどにある。氷属性の魔術を使うには絶好のコンディションだ。
路上の礫を操作する。凍結物はどれもカイの意のままに動く。地表の小石を凍らせれば、もうそれはカイの眷属だ。
――だというのに、礫はカイの意志に反応しなかった。驚いたが、考えてみれば当然だ。あのライオンは、大地の力を操っている――そういう場合、早い者勝ちだ。先にあのライオンがこの一帯の地表を自らの眷属とした。カイの支配は、受け付けないということだ。余程の実力差があれば乗っ取ることができるが、それをするには時間も力も惜しい。
内心で舌打ちする。だが、カイの打つ手はまだある。
カイの魔術は、何かを凍らせる術。凍らせる対象物さえあれば、カイはいくらでも戦えた。そう、戦場が何もない無重力空間などでなければ。
湖の水を氷結させる。鋭く、長く。
宙に現れた氷槍を投じる。“岩壁”に突き立った氷槍は楔となり、一撃で壁を破壊した。以前カイが父ゼタから食らった術――“凍てつきし槍”だ。
壁が崩れた隙を突いて、チェリンが飛び掛かる。上空からニキータも急降下し、鋭い鉤爪でライオンの目を潰しにかかる。
だがどれも、紙一重で失敗に終わる。“岩壁”が再構築されたのだ。その速さからして、相当な魔術の使い手だ。
これほどの猛者が、ギヘナにいたとは。
彼が創る土の壁は、身を守るための障壁というより、アスールの逃げ道を塞ぐものであるらしい。そしてカイやニキータという、『外野』の干渉を遮断する。
アスールとの一騎討ちをしたいのか。
正直、カイが手を出す隙がなかった。ライオンの猛攻撃を、アスールは躱し、時に打ち払う。アスールが相手をしているうちにカイが仕留めるのがいつもの手はずだったはずなのに、まるで割り込めないのだ。
アスールもそれを悟ったようだ。カイの援護がないと見て――彼は反撃に出た。
受け止めたライオンの爪を押し返す。それだけで、ライオンの巨体がよろめいた。その瞬間、アスールの剣が炸裂した。
ごっそりと左側のたてがみを斬りおとされ、少々不恰好になっている。それを見てアスールは、剣についた毛を振り払いながら微笑む。
「皮膚まで斬ったつもりだったが、随分と毛深いのだな」
怒ったように咆哮したライオンが、左手を振り下ろす。アスールは跳躍し、避けざまに剣を一振りする。
ライオンの左手から鮮血が噴き出した。
「おい、あの放浪王子、あんなに強かったのか?」
いよいよ手出しできなくなったニキータが、化身を解いてカイに問いかける。カイとニキータ、チェリンの三人でかかっても傷を与えられない相手を、アスールは軽い調子で翻弄しているのだ。化身族の牙や爪が、人間の剣に負けるなど、そんなことはないはずなのに。
「アスールは……多分、本気になったらすごく強いんだと思うよ」
カイも化身を解いてそう告げる。アスールとライオンの一騎討ちに巻き込まれそうになったイリーネとクレイザとキョウを移動させ、水場へと近づく彼らとは逆の崖の方へ押しやる。
何度か思ったことがある。これほど苛烈な戦いをする男は、誰なのかと。アスールが教えを乞うていたのはカーシェルだった。幼くして既に剣の達人と呼ばれていたカーシェルも、しかしこんな戦い方はしなかった。
アスールの剣技は、カーシェルの技術を基盤として、アスールが自分で高めたものだ。誰かと戦うことを想定して。
誰と?
(そうか。アスールの剣技は……化身族と戦うための技なんだ)
化身族の体組織を熟知し、どんな種族が相手のときはどこを斬るべきか、それを研究し尽くした剣技。勿論剣士としても達人級だが、アスールの真価が発揮されるのは対化身族のときだ。
だからこの男は、化身族相手にあれだけ立ち回れた。フィリードの猛者を相手に、準備運動であるかのような気軽さで集落の中へ侵入できたのだ。
加えて、この男が学んだという『暗殺術』――。
それを知っていれば、その暗殺術を自分に向けられた時に対処が分かるという理由で会得した技。
(もしかしてアスールは、ずっと化身族に命を狙われていたのか?)
どう、と地響きがする。その音で現実に立ち返ったカイは、顔を上げた。ついにライオンが地面に横倒しになったのだ。その傍には、傷一つない様子のアスールがいる。
「まだやるかね?」
おまけにこんなことを微笑んで尋ねる余裕だ。……絶対、この男と戦いたくない。戦いたくない相手ナンバーワンだ。
決着はついているように見えるが、まだライオンにも意識がある。現に立ち上がろうとしているから、やる気はあるのだろう。さすがにタフだ。なぜこんなにもアスールに執着しているのかは分からないが――。
その時、地面が揺れた。地震などでは勿論ない。このライオンが、何か仕掛けようとしている。
ライオンの視線が、一瞬イリーネらの方へ向けられた。――その向こうは、谷底への崖だ。アスールがはっとして叫ぶ。
「イリーネ、クレイザ、キョウ殿! 逃げろ!」
「えッ……!?」
咄嗟に、クレイザがイリーネを押しのけるのが見えた。
クレイザとキョウが立っていた崖が一気に崩れた。
「クレイザさん! キョウさんッ!」
イリーネが叫ぶ。思わず飛び降りようとしているのを、チェリンが慌てて留めている。
馬に乗っていたキョウは、なすすべなく谷底へ落ちた。クレイザもまた、崖の縁を掴みそこなって落下する。
アスールが駆け寄り、それを追って飛び降りた。……さすがのカイでも躊躇う高さだというのに。何せ底が見えないのだ。それでもアスールは飛び降りる。肝が据わった男だ。
だがこのままでは、クレイザもキョウもアスールも転落死だ。追いかけようとするニキータを制し、カイも化身して崖下へ飛び降りる。
落下しながら、アスールはクレイザの腕を掴んでいる。そのクレイザは、キョウの腕を掴んでいた。そのままアスールは剣を崖に突き立て、少しでも勢いを殺そうとしている。だが、落下のスピードはなかなか殺せない。何せアスールは、剣一本で自分を含め三人分の支えになろうとしているのだ。初めてアスールの表情に焦りが浮かんだ。
カイはアスールらを追い越して谷底へ着地した。……足が痺れるが、この程度だ。つくづく便利な身体をしている。
上を見上げると、アスールらが落ちてきている。カイはタイミングを見計らって、“凍てつきし息吹”を発動させた。一瞬ではあるが、強烈な冷風がアスールたちの身体を浮かせる。そしてそのまま、三人は地面に倒れ込んだ。痛かっただろうが、それでも百メートル以上上から叩きつけられるよりはマシだったはずだ。
「アスールさん! 大丈夫ですか……!?」
クレイザが身体を起こしたアスールに駆け寄る。アスールの右腕からは血が流れていたのだ。おそらく落下のどこかで怪我をしたのだろう。剣のほうも曲がってしまっている。
「私は大丈夫だ……クレイザもキョウ殿も、怪我はないですね」
頷いた二人を見て、アスールも安心したように息を吐く。そしてカイのほうを振り返って口を開いたとき――アスールの表情に緊張が奔った。
崖上からライオンが飛び降りてきたのだ。そして物言わずに、アスールへ飛び掛かる。
アスールはすぐさま曲がった剣を引っ掴み、膝立ちの状態でライオンの爪を受け止めた。安定しない態勢と怪我をした右腕では、もう先程までのキレは失われている。
「くッ……!」
それでもアスールはライオンを押し返した。両者ともにもう体力が限界に近い。これ以上戦いが長引けば――。
刃鳴りの音が連続して響く。アスールの剣が折れるのも時間の問題だ。一瞬でも隙ができれば、アスールが負ける可能性がある。
カイは背中ががら空きのライオンに当て身を食らわせた。よろめいたその瞬間、上空からニキータの雷撃の矢が撃ちこまれてくる。寸前で避けられたが、それでも充分な時間稼ぎになった。
“氷結”を発動する。凍らせる対象は――ライオンそのもの。
ピキピキと音をたてて、ライオンが足元から凍りついていく。ほんの数秒で良い、この大獅子の動きを止めれば――。
アスールの剣が深々とライオンに突き立った。その位置、心臓。容赦なく剣を引き抜くと同時に、鮮血が噴き出た。
ライオンが倒れる。今度こそ、もうぴくりとも動かなかった。
「終わったか。やれやれ……」
アスールが息を吐き、血濡れた剣を鞘に納める。化身を解いたカイは軽く目を伏せる。
「アスール……殺したの」
「……すまぬ。イリーネには秘密ということで頼む」
「いや……」
分かっている、どちらかが死ぬまでこの戦いに決着はなかった。分かってはいるのに、アスールが躊躇いなく相手を殺したことに驚きが隠せないのだ。……カイのほうがよほど、甘かったようだ。
よくよく辺りを見回してみる。すぐ傍には川があった。これがサレイユまで続くイリヤ川だろう。もう少し落下地点がずれていたら、川に真っ逆さまに落ちていたところだった。
と、その川の傍にキョウが蹲っていた。倒れた馬の首元を、ずっと撫でているのだ。
馬は立ち上がろうと必死だが、肢を折ったのか、何度も試みては失敗している。キョウは深く深く息を吐き出し、小さな声で呟いた。
「……アレス、ありがとう。ごめんね」
足が使えなくなった馬は、死んでしまう。苦しむ前に、楽にしてやるのが乗り手の務め――。
懐から短剣を引き抜いたキョウは、それを馬の首に突き立てた。動かなくなった相棒に束の間の黙祷を捧げ、キョウは立ち上がってこちらを振り返った。その眼は若干赤くなっている気もしたが、涙はなかった。
あまりに切なすぎる別れを目の前にして、カイも柄になく傷心してしまう。
「ごめん。俺がもっとうまく受け止めていたら――」
「謝らないでくれ、カイ殿。ありがとう。二度も助けられてしまったな」
キョウの笑みは、本当にカイたちへの感謝に満ちていた。そう言ってくれると、こちらの罪悪感も少しはほぐれるというものだ。
そこへ、ニキータが下りてきた。化身を解いたニキータは、その場の惨状を見て肩をすくめた。
「手酷くやられたもんだな。大丈夫か?」
「私なら大丈夫だ。それよりも【黒翼王】殿、すまないが谷の上へあげていただけないか?」
アスールの頼みに、ニキータは苦笑する。
「ここに置いて行けるかよ。勿論そのつもりだが、生憎俺の背中は広くない。ひとりずつが限界だ」
「それなら、キョウが最初に行って。次はクレイザ」
カイに促され、おずおずとキョウは化身したニキータの背中に乗った。上昇していく鴉を見送り、カイはクレイザと共に、アスールの傷の手当を始めた。傷はあとでイリーネに癒してもらえるとしても、とりあえずの止血は必要だ。この高さでは、ニキータが往復するのにも時間がかかるだろうから。




