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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
3章 【躍動する生命 ギヘナ】
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◇遊牧の民(2)

 ニキータが言っていた大きな湖の畔に到着したのは、ギヘナ大草原に足を踏み入れてから丸々三日後のことだった。

 その間ずっと視界に入っていた丘陵地帯は、ようやく目の前にまで迫っていた。このなだらかな地形を越えたら、ギヘナ攻略は折り返し地点だ。


 ここに来るまで、イリーネらはたいした危機に陥ることもなく、平穏無事に旅をしていた。カイやチェリン、ニキータの正体を察した野生の獣が襲ってくることはあったが、どれもあっさり追い返してしまったのだ。

 案外、このまま何事もなくサレイユへ到着できるのではないか――イリーネはついそう思ってしまうが、ギヘナで真に恐れるべきは野生の獣ではないという。


「ここまで化身族に遭遇しなかったのは幸運だな」


 名も知らぬ湖の外周に沿って歩きながら、アスールが呟く。丘陵地帯へ入るには湖を渡らねばならないが、水中を横断することはできない。勿論橋など架かっていないし、船もない。昨晩は湖の東側で夜を明かし、今日は湖を南回りに迂回しながら丘陵を目指しているのだ。

 とはいえ巨大な湖だ。歩けども歩けども終わりが見えない。知らぬ者なら、これを海と思い込むのではないだろうか。そう思わないでもないが、アスールに言わせればサレイユの湖ラーリアより規模は小さいとのことだ。


 アスールの先程の言葉に、カイもニキータもうんうんと頷いている。つまり彼らが最も懸念していた脅威は、ギヘナに住む化身族の存在なのだ。

 以前カイが言っていた。人間との関わりを嫌う化身族は、自らギヘナへ足を踏み入れるのだと。弱肉強食の世界で生きていく者たちだから、当然彼らはみな魔術を扱える賞金首。野生の獣と違って彼らには知恵がある。魔術も使える。無名の強者が、ギヘナにはごろごろいるのだろうと。


「来ないなら、それはそれでいいさ。にしてもつくづくでかい湖だな。こりゃ、湖の向こう側に行くだけで今日は終わっちまうかもしれないな」


 ニキータの声を聞きながら、イリーネは左手側を見やる。先程からずっと、そこには谷があったのだ。湖からの水が滝のように流れ込み、長い年月をかけて削られたものだろう。一度下を見てみたが、目が眩むほどの高さだった。落ちたらひとたまりもない。恐ろしくなって、それ以来イリーネはその谷に近づいていない。

 谷の向こう側には、また別の丘陵がある。あれを越えた先には、何があるのだろう。



 昼が近くなってきた。水は先程の湖から補給できたが、食料はそうもいかない。食べる量を制限して、なんとかこれならサレイユまで持つだろうというところだ。身体の大きいニキータなどは、少ない食事に少々切なさそうだ。

 そろそろ昼食にしようかと、休憩できそうな場所を探し始めた矢先、クレイザが別のものを発見した。


「あれ、ヒトじゃない?」

「こんなところにか?」


 ニキータが目をすぼめて、クレイザの見た方向を見る。イリーネも同じようにしてみるが、何か小さな影が見えるだけだ。あれをヒトだと見分けられるとは、クレイザも目が良い。


「……そうだな、ヒトだな。ありゃ遊牧民だ」

「遊牧民って、ギヘナに住んでいるっていう……?」


 イリーネの問いに、ニキータが頷く。


「ギヘナ中を移動しながら牧畜をする騎馬の民だ。よく見てみろ、馬に乗ってるぞ」


 言われて、もう一度目を凝らす。ヒトにしては妙なシルエットだと思ったら、馬に乗っていたのか。馬に乗って駆けながら――。


「こ、こっちに来ていませんか?」

「来てるね。しかも獣に追われて」


 そう、その馬に乗ったヒトはこちらへ向かって来ていた。背後には多数の四つ足の獣――イリーネにはなんの種族か分からない。とにかく、そんな大群が真正面から近づいていたのだ。

 そのヒトはイリーネらに気付いたようだ。全力で駆けつつも、驚いたような表情が地上のイリーネにも分かる。ぱっと見た感じ、まだ若い少年だ。


「助ける?」


 カイがのんびりとニキータに問う。そうしている間にも若者はイリーネらの横手を駆け抜けて行った。それを追って、獣たちが接近してくる。助ける助けないの前に、このままでは巻き添えだ。


「そうだなあ、ここで会ったのも何かの縁だろ」

「そっか」


 言いながらカイは、前面に巨大な氷の盾を出現させた。急ブレーキをかけることすらできず、獣たちは相次いで盾に激突した。


「……っ!」


 予想外に強い衝撃だったのか、カイの表情が若干歪む。諦めずに獣たちは盾を突き破ろうと、何度も体当たりをしているのだ。いくらカイが化身せずとも魔術を放てるほどの強者であっても、長い時間はもたない。甘く見たのだろう。


 やれやれと息を吐きつつ、隣でニキータが化身した。漆黒の鴉が飛翔し、獣たちの頭上へと回る。

 そこから地上へ向けて、ニキータは“黒羽の矢(ヴォルト・アロー)”を撃ちこんだ。巨大な雷撃が降り注ぎ、不幸な一頭が直撃を浴びて倒れる。光と音に驚いた他の獣たちは、次々とその場を離れて行った。


 数多くの術を会得しているカイとは違い、ニキータが扱える魔術は”黒羽の矢(ヴォルト・アロー)”だけなのだという。別の術を習得するキャパシティがなかったと本人は言っているが、ニキータの放つ雷撃の矢は必中必殺。ひとつの術を限界まで極めた、それがニキータの奥義なのだ。


 化身を解いてニキータが下りてくる。地上に残ったのは獣の死体と、雷撃によって焦げ、穿たれた地面だけだ。ニキータの術で飛散した土や小石を防いでいた氷の壁を消して、カイも疲れたように肩を叩いた。


 ほっと息を吐いたイリーネが振り返る。そこには先程の若者が、気まずそうに馬をこちらへ近づけてきていたのだ。若者はイリーネと目が合って、さっと馬から下りた。そして深々と頭を下げる。


「かたじけない。助勢、感謝する」


 少し高めの声だ。やはりまだ若いのだろう。裾が膝下まである長衣を帯で締め、頭は青い布で包んでいる。見慣れない服装だ。これが民族衣装というものだろうか。褐色の肌にすっきりとした目鼻立ちをして、精悍な出で立ちだ。


「気にするな。それより、お前はギヘナの遊牧民族だな?」


 ニキータの問いに、若者は頷く。


「私はケル族の者だ。貴方がたは他の部族の方……ではなさそうだな。外の方か?」

「草原の外って意味なら、まあそうだな。旅の途中なんだよ」

「……まさかギヘナを通過しようと考える旅人がいたとは」


 呆れたような若者は、そこで我に返ったように自己紹介してくれた。名はキョウといい、ケル族とはギヘナに住む遊牧民族のうちのひとつだという。このあたりを馬で駆けるのが日課で、今日に限って先程の獣に鉢合わせてしまったらしい。それでずっと追われていたところを、イリーネたちに出逢ったということだ。

 イリーネたちのほうも名乗ってから、簡単に「サレイユへ向かっている」ということを説明した。若者はなるほど、と頷く。


「サレイユへか。それなら、ギヘナを突っ切れば早いと考えるのも無理はない」

「キョウさんはサレイユに行ったことがあるんですか?」


 イリーネが問うと、キョウは微笑んだ。


「ああ、何度か。遊牧の民とはいっても、自分たちだけで生活することは不可能だからね。時々街へ出向いて、収入を得ている」

「ははあ、なかなかシビアなんだねぇ」


 とことん他人事のカイがそう感嘆の声をあげる。ギヘナに暮らす民族というから、他とは関わりのない人々なのかと思っていたが、そうでもないらしい。ギヘナ中を移動しながら、国境近くの街へ出向いて酪農品を売り、衣服や食料を買う。そういう生活をしているそうだ。だからイリーネたちを見ても、驚きこそすれ警戒はしなかったのだろう。


「……この近くに、ケル族のキャンプがあるんだ。良ければ、寄って行かないか?」


 突如、キョウがそんな提案をした。


「丁度サレイユ方面だし、食事と一晩の寝床くらいは提供できるぞ。少しでも安心して休める場所は、ギヘナでは貴重だろう?」

「そりゃ有難いが、いいのか? たったいま出会ったばかりの俺たちを信用して」

「私は貴方がたに命を救われた。相応の礼はしたい」

「……なら、お言葉に甘えようか」


 なあ、と同意を求められて、全員が頷いた。キョウはぱっと嬉しそうに顔を輝かせた。そうしてみると、やはりまだまだ若そうだ。


「分かった、案内しよう。……ところで、迷惑ついでと言ってはなんなのだが」


 ニキータが怪訝な顔をする。キョウは目線を、ニキータらの背後――そこに倒れている獣へと向けた。


「あの獣をキャンプへ持ち帰る手伝いをお願いできないか? あれで数日分の食料が確保できるんだ」

「……ちゃっかりしてんなぁ」


 もしかしてそっちが本音だったのでは――と、柄にもなくイリーネも深読みするのだった。





 獣の前足と後ろ足をロープでくくり、それをニキータとカイが前後になって担ぐ。時折アスールとクレイザが交代し、馬の手綱を引きながら歩くキョウを先頭にして歩く。馬車で使われる馬より、キョウの馬は大きく力強かった。それでいて目は優しい。賢くて大人しい馬なのだろう。


「この湖はトラス湖。前方に見えるのがテール丘陵だ。そして左側にある深い谷が、ギナの谷という。この谷は東西に長く、ギヘナの地を南北に分けているんだ」


 キョウはすらすらと、地形の説明をしてくれる。彼にとっては生まれた場所、庭のようなものなのだろう。


「ギナの谷底には川が流れていて、それの名をイリヤ川という。地下から湧き出る水が川となったんだ」

「イリヤ川というと、ラーリア湖にそそぐ川の名か?」


 アスールが反応すると、キョウは頷く。


「そうだ。ここからサレイユのラーリア湖まで、一直線に流れている」

「ふむ……イリヤ川がギヘナから流れてきているのは知っていたが、まさかこんなところからなぁ」


 大陸最大の湖ラーリアと、それによるサレイユの豊かな水は、すべてギヘナからもたらされているものなのだ。今は遥か下の谷底にあるイリヤ川も、そのうち地上と合流する。その流れを追えば、サレイユに到着できそうだ。


 そのためにはまず前方のテール丘陵を越える必要があるが、ケル族のキャンプはその手前にあるという。どのみち、キャンプは見つけて立ち寄っていたかもしれない。


「……そういえば、その。聞きそびれていたのだが、そちらのおふたりは化身族……なんだよな」


 キョウの視線はニキータとカイに向けられていた。手が塞がっているニキータは、目線だけでチェリンを見た。


「ああ、そこのチェリンもな」


 当のチェリンは小さく頷くだけだ。……最近思うのだが、チェリンは人見知りなのではないだろうか。異常に口数が少ない。

 何か言いたげなキョウを見て、カイがぽつりと尋ねる。


「化身族が珍しい?」

「! ……あ、ああ。化身族も、本当に人間の姿になって喋るのだなと思って……」


 そこまで言って、キョウは慌てたように語調を速めた。


「ご、誤解しないでくれ。化身族を差別しているとか、そういうことじゃなくて……」

「分かってるよ。差別するヒトは大体、『化身族』なんて呼び方は使わないからね」


 そういう者は、化身族を「ケモノ」と呼ぶのだ。イリーネも何度かそれを聞いたことがある。


「ギヘナに住む化身族は、ヒトであることを捨てるって聞いたことがある。君が言いたいのは、そういうことでしょ?」

「……私は、化身族が化身を解いてヒトの姿を取るところを、見たことがなかったんだ」


 キョウの言葉に、イリーネは目を丸くする。化身族は通常ヒトの姿を取り、街で何の違和感もなく生活をしている。戦いのときにだけ、獣の姿を取る。それがイリーネがこれまで見てきた人々だ。キョウの見てきた世界とは真反対だった。


「野生の獣と化身族の区別はつくんだ。化身族は、外のハンター以外はあまり襲わないし……そうでなくとも、魔術を使ったり戦略的だったり、分かりやすい。だけど、時々無差別に襲う化身族もいる。そうなれば私たちは、死を覚悟して戦うしかない」

「でも、君の部族は生き延びてきた」

「……運が良かったんだ。昔はもっと多くの部族がギヘナに住んでいたけれど、今ではすっかり姿を見ない。どこかで生きていると信じているが、やはり……」


 部族は数家族単位で構成されているのだという。血の繋がりはないが、それでも『家族』なのだ。そんな家族があっという間に殺され、いつしか全員が死んでしまう。街中でも殺人を含む犯罪は多いが、それでもここまで死が身近なことは日常生活においてまずないだろう。


「それで僕たちに会ったとき、嬉しそうだったんですね。ケル族の仲間以外のヒトに会えたから」


 クレイザが微笑むと、キョウも照れたようにうなずく。イリーネらが他の部族の生き残りだと答えるのがベストだったのだろうが、キョウにとってはそうでなくとも嬉しかったらしい。彼の『世界』は部族の仲間たちだ。イリーネらはその『外』に住む者。見知らぬ誰かに会うのは、新鮮なのだろう。


「ああ。私にとって化身族は恐ろしい存在だが、外では違うんだな。ハンターたちを見てそう思う。あんな風に化身族を従えて、共存できているのだから」

「――そいつは違うな」

「え?」


 ニキータがキョウの言葉を遮った。キョウが驚いたように振り返る。ニキータはふっと口角を持ち上げた。


「人間は化身族を従えることなんざできねぇよ。化身族も、人間に隷属しているわけじゃない。もし、化身族を従えているって考えのハンターがいたら……そいつらは三流以下だぜ」

「では……利害関係の一致?」

「お前さん、頭が良いが堅いな。要は『信頼』だよ、『信頼』。お互いに命預けるんだからな」

「うわ、くっさ。鳥肌もんだよ、それ」


 カイが心底気持ち悪そうに眉をしかめた。まるで目の前に悪臭を放つものがあるかのような嫌がり方だ。そこまではいかなくとも、ニキータが口にするには意外すぎる言葉だ。

 いや――もしかしたら、茶化してはいるが本心なのか。それはそれで驚くが。


 そんなカイとニキータの様子に皆が笑う。


 同じように笑っていたアスールが、ふと後ろを振り返ったのはその時だった。

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