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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
3章 【躍動する生命 ギヘナ】
79/202

◇遊牧の民(1)

 見渡す限りが、草の大地だった。


 イーヴァンの山間部も自然豊かな場所だったが、このギヘナ大草原には敵わない。枯れ木の山だった霊峰ヴェルンを越えた直後だから、尚更その光景は強烈だった。

 人が歩ける道など、勿論ない。せいぜい獣が歩いたと思われる獣道だけで、一面が草で覆われている。少し向こうには小高い丘陵地帯が見えるが、視界を遮るものがないから近く見えるのだ。歩いて行こうとなったら、相当の時間がかかるに違いない。

 草原を歩く動物たち――どれも大型動物だ。草食動物の群れ。それを後ろから狙う肉食動物。水場で憩う鳥たち。空から獲物を狙う猛禽。身を隠す場所のない平坦な大地で彼らが生きることは、どれだけ過酷なのだろう。生きるために狩り、食らう。生きるために、走ることに特化して進化していく。獲物が見つからなければ、飢えて死んでいく。最も原始的で、最も当然な弱肉強食の世界が、そこにあった。


「す、すごい……」


 イリーネは思わず感嘆の声を漏らす。頷きつつ、カイはちらりと視線を横へ向ける。そこには食いちぎられた草食動物の骸があった。おそらくここで襲われ、そのまま死んだのだ。


「さあ、ここからが大変だぞ。大型の獣がうようよいるギヘナを突っ切るんだからな」


 大変だと言いながら、ニキータはどこか楽しそうだ。彼は何度もギヘナ上空を通過したらしいし、危険は承知しているはずだ。ニキータについて行けばどうにかなるだろう。……おそらく。


 いざ歩き出そうとしたところで、急に頭上が暗くなった。日が陰ったのかと思ったのだが、今日は稀に見る快晴で雲一つない。

 空を見上げて、そこにいたのは【大鷹エルケ】であった。やはりというか、前にもこんな状況があった気がする。


「アーヴィン!」


 クレイザが呼びかけると、エルケはイリーネらの前にふわりと立ち、その背中から癖毛金髪が印象的なアーヴィンが飛び降りてきた。


「クレイザ様、ご無事で何よりです。そしてお前ら、遅いぞ!」


 クレイザとその他大勢への対応の落差といったら。カイが溜息交じりに問いかける。


「遅いって、もしかして待ってたの?」

「そうだ! 霊峰は妙な力に満ちていて降りられなかったから、休む場所に困ったんだぞ! よくもまああんな場所を徒歩で進めたな、お前たちは」

「いやあ、それが酷い目に遭ったんだよ」

「だろうな!」


 エルケは風魔術を操る化身族で、アーヴィンも混血種(まざりもの)だ。彼らもまた、霊峰ヴェルンの魔力に当てられてしまったのだろう。

 そんな状況でも、アーヴィンたちが先回りしてイリーネたちを待っていてくれたのは――。


「ファルシェから何か?」


 クレイザの問いにアーヴィンは頷いた。そして視線を、イリーネに向ける。


「イリーネさん。王太子カーシェルと接触できたよ」

「本当か!?」


 反応したのはアスールだ。イリーネはぽかんとしてしまっている。


「正確には獣軍将(じゅうぐんしょう)の方と連絡が取れたらしいんだけどな」

「そうか、カヅキ殿が……!」


 聞き覚えのない『獣軍将』という言葉に首を捻ると、カイが説明した。


「リーゼロッテ神国の軍の中に、化身族だけで組まれた部隊があるんだけどね。それを率いるのが『獣軍将』。神国の化身族の最高位だ」

「現在の獣軍将は【迅風(じんぷう)のカヅキ】さん。賞金ランキング第三位で、カーシェルさんのパートナーです」


 クレイザもそう補足してくれる。賞金ランキング第三位といえば、ニキータのひとつ上ではないか。それほどの化身族が、カーシェルの傍にいたとは。

 そういえば以前、カイがそんなことを言っていた気がする。忠義深いことで有名な化身族だと。


「カヅキは強いぜ。二十年前の戦争で一度戦ったが、並大抵の相手じゃない。最後まで戦い続けていたら俺も生きていられたか微妙だからな」


 ニキータがここまで評する相手だ。信頼はできるのだろう。というよりも、イリーネも絶対に面識のあるヒトのはずだ。なにせ、兄と契約しているのだから。


「その獣軍将から、王太子の無事が伝えられた。いまは神国の首都カティアの城内の一室で軟禁状態にあって、弱ってはいるが命に別条はないとのことだ。獣軍将のほうも監視下にはあるが、ある程度は自由に動けるらしい」

「カーシェルは無事か……良かった」


 アスールは盛大に息を吐き出した。安堵の表情だ。いつも飄々としてはいたが、安否の知れない友のことをずっと気にかけていたのだろう。信頼できるカヅキの口から確認できたことも大きい。

 しかし、とニキータが不可解な様子で腕を組む。


「カヅキは一昔前の戦士みたいな気質だ。契約主を主君と仰ぎ、主君のために戦い死ぬことも辞さない……ある程度でも自由に動けるなら、とっくに脱出を試みているはずなんだがな」

「契約具を奪われているんじゃないの?」


 チェリンが口を挟む。契約具を誰かが破壊すると、化身族は苦しみ、最悪の場合死んでしまうという。それを避けるため、本能的に化身族は契約具を持つ者に従うのだと、イリーネはカイから聞かされた。そう考えれば、迂闊な行動を取れないカヅキの心理も理解できる。

 だが、ニキータはそれを否定した。


「言っただろ、あいつは死ぬことを恐れたりはしない。むしろ、枷になるくらいなら腹を裂くって考えの持ち主だ。あいつが行動に出られない理由はそれじゃない」

「……カーシェルを人質にされている?」


 カイの呟きに、ニキータは頷く。


「それが妥当だろうな」


 主君を人質に取られ、自身も監視下にあるカヅキは、行動を起こせない。カーシェルを助けて逃げることも、敵を倒すこともできない。ただ見ているだけなのは、もどかしいだろう。

 カーシェルとカヅキは、神国の二大トップだ。そのふたりが押さえられているとなれば、いよいよ神国はメイナードの意のままに動いてしまう。早いところ対策を練り、カーシェルたちを救出しなければならない。


 だが――いまはとにかく、カーシェルが無事だということを確認できただけで、良しとしよう。


「僕が預かった報告はこれだけだ。これでイーヴァンに戻るけど、ファルシェ陛下に伝えることはあるか?」


 アーヴィンの問いに、アスールが口を開いた。


「物資や資金の援助、情報の提供、感謝すると伝えておいてくれ」

「わかった。ではクレイザ様、道中お気をつけて」

「ありがとう。君もね」


 つくづくクレイザにのみ礼を尽くして、アーヴィンはエルケの背に乗って飛び去って行った。小さくなっていくエルケの姿を見送って、カイがアスールに目を向ける。


「良かったの? 霊峰ヴェルンの妙な力の正体とか、知らせてあげなくて」

「彼に伝言を頼むには、説明が複雑すぎるだろう。それにあのご老人のこともある。今しばらく、あのご老人の静かな研究場所のままでもいいだろうと思ってな」

「なんか勘違いしているようだけど、あの山はおじいさんのものでもあんたのものでもないわよ」


 チェリンが冷静に指摘するが、アスールは笑って流してしまう。


 はたとイリーネはカイを振り返る。すっかり気付かなかったが、カイの様子が普通(・・)だったのだ。どこか猫背気味だった背も心なしかしゃっきりし、声も聞き取れる程度には大きく、顔色も良い。神属性の魔力に酔っている様子はない。


「カイ、体調はもう平気なんですか?」

「ああ、うん。洞窟を抜けたらきれいさっぱり。魔力も戻ってきたみたいだ」


 ほら、とカイは大きく腕を伸ばした。イリーネも笑って頷く。カイはいつだって気だるげだが、それでも本当に体調が悪いときは段違いに気だるげだ。それを見ているとこちらまで不安になって仕方がないから、彼が元気になったのは本当に嬉しい。


「良かった良かった。そんじゃまあ、この先の戦闘は全部お前に任せるわ」


 いつもならば、ニキータのこのような言葉には「やなこった」と答えるはずのカイだが、このときはよほど機嫌が良かったと見える。


「いいよ、少しくらい引き受けてあげる」

「……え、まじ?」


 思わずニキータが目を丸くして聞き返してしまうほどの衝撃だったのだ。





★☆





 霊峰ヴェルンを抜けた場所から、北西方向へ――直線距離にして十日余り。それがニキータが推測した、ギヘナ横断の日数である。


 歩き出して数時間ほど経ったが、今のところ大型獣に襲われてはいない。見るのは草食獣の群れや小型の動物たちばかりで、ギヘナ大草原の光景はのどかですらあった。勿論そんな甘い場所ではないのだろうが、間近に野生動物を見ることができてイリーネは少し嬉しい。


「分かってはいたけど、行けども行けども景色が変わらないなぁ」


 カイは早くも飽きてきたようだ。確かに周りは草だらけ。遠く見える丘陵も、近付いている気がしない。


 草原は静かだった。聞こえるのは草を踏む音と、耳元を通り過ぎる虫の羽音だけ。一度会話をやめてしまえば、驚くほどの静寂がそこに広がっている。こんなにも豊かな生命力で満ちているのに、妙にぽつんとした雰囲気に陥るのだ。


「もう少し行くと、でかい湖があってな。その湖の先に、いま見えているあの丘陵がある。丘陵を越えたら、それでやっと半分ってとこだな」

「見えるほどの距離にあるのに、まだそんなにかかるの?」


 ニキータの解説を受けて、さらにカイはげんなりした。この平らな大地では、陰すらできない。夏の直射日光を真上から浴びるのは、雪豹のカイには地獄だろう。イリーネたちも十分堪えている。


 その時、僅かに地面が震えた。驚いて立ち止まると、地鳴りまで聞こえてくる。地震かと思ったが、チェリンが横手を指差した。


「見て、あそこ」


 土煙があがっている。その正体はシマウマの群れだ。凄まじい勢いで草原を駆ける音が、イリーネたちにまで届いていたのだ。

 それを追う、四頭の獣。シマウマたちより体高は低く、毛は茶色一色だ。どことなく背格好が豹の姿のカイに似ているようにも思う。


「ライオンだな」


 アスールがあっさりと説明する。


「ライオンはあのように、雌が複数で連携を取りながら狩りを行うのだ。まさかこんな間近でそれを目にするとはな」


 そのうち雌ライオンたちは、逃げるシマウマの群れから脱落しかけていた一頭を捕獲した。遠目だが、おそらく子どものシマウマだ。その惨い光景に、イリーネは目を伏せてしまう。


 これが草原の現実で、常識だ。ごくごく当然な弱肉強食と食物連鎖。ライオンたちも生きるため必死で狩りをしているのだ。可哀相などとは言えない。草原の住人でないイリーネたちに、干渉することなどできないのだ。


「しかしライオンは夜行性のはずだ。昼間に狩りをするとは珍しい……」


 アスールの言葉が途中で途切れた。何かと思って顔を上げると、ライオンがこちらを見ているではないか。警戒しているだけならそっとその場を離れることもできたが、なんとライオンたちはゆっくり距離を詰めてくる。


「……まさか人間を襲うとは。そういう事例があるのは知っていたが、つくづく珍しい」

「いや、よく考えてみろよ。こっちには豹と兎がいるんだぜ? 獣の匂いがぷんぷんしているじゃねぇか」


 そういえば、とイリーネは我に返った。ライオンが豹を獲物にするとは思いにくいが、兎はどうだろう。チェリンも真っ青になって飛びのいている。

 チェリンはそのまま、カイの背中を叩いて前へ押し出した。


「ほ、ほら! あんたの出番よ!」

「あー、はいはい」


 カイは化身するでもなく、迫りくるライオンを見つめている。こちらへ来るのは二頭。右と左から、包囲するように近づいてきていた。ライオンとしても、まだ警戒レベルのようだ。一気には近づいてこない。

 カイはすっと右手をあげた。その手の動きに合わせ、地上の小石が浮かび上がる。いつもなら多数の礫を使うはずが、今回カイが操作しているのは小石ふたつだけだった。


 “凍てつきし礫(フローズン・ショット)”が炸裂する。冷気をまとった二つの小石が、それぞれのライオンの――額にぶつけられた。例えるならばそれは、強烈なデコピンのようなものだった。


 それだけでライオンたちは逃げ帰っていった。格の違いを見たのか、不可解な技に恐れをなしたのか。とにかく簡単にカイはライオンを退け、一仕事終えたような表情で息を吐いたのだった。

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