ある囚われ人の独白
格子の嵌められた窓から、日の光が差し込んでいる。もう日が昇ってだいぶ経つのに、今になってそのことに気が付いた。夏も終わりに近づき、少しずつ空気は秋めいてきている。だが、今の自分にはそれを感じることができない。それがもどかしい。一見衛生的なこの空間は、俺にとっては極めて不衛生だった。
椅子から立ち上がり、格子窓の傍に立つ。この部屋は地上五階――見下ろす地上には、数名の兵士が警備に当たっている。そのうちの一人が不意に振り返り、目が合ってしまった。よほど目が良かったのだろう、俺に気付いて慌てて身構えている。それを見た俺は小さく笑って、視線を逸らす。
ご苦労なことだ。あんな場所で何をするわけでもなく、ただ囚人が逃げないように見張るだけの仕事を、毎日毎日。
それから視線を、すぐ下の地上ではなく遠方へと向けた。この国は豊かな森林の多い国だ――この建物の周辺も、一面緑で覆われている。その森林の向こうに、城下町が小さく見える。幼いころは、妹たちの手を引いてお忍びで遊びに行ったものだ。今では、こんなにも遠い。
その時、扉がノックされた。返事をすると、食事の盆を持った細身の男が入ってきた。二十代後半の容姿だが、彼が見かけほど若くないことを俺は知っている。彼は俺を見て一瞬驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「今日は立ち歩いて大丈夫なのか」
「ああ、おかげさまで」
彼は食事を机の上に置く。いつもと同じ、パンとスープとサラダという質素な食事。すっかり食が細くなった今では、このくらいでちょうどいい。
先程まで座っていた椅子に腰を下ろす。――その瞬間、右足に激痛が奔った。ゆっくり座るつもりが、倒れ込むようになってしまう。それを慌てて男が支えてくれる。衝撃で机が揺れて、スープが一滴皿から飛び散った。
「……大丈夫ではないようだが?」
「はは、気が抜けたかな……すまない、カヅキ」
息を吐き出して座り直す。両足の腱を切断されて、二か月近く――立って歩くことはできるが、このような場所ではまともな訓練もできるはずがない。おかげで治りが遅くて困ったものだ。
もっとも――足に異常がなくとも、いまの俺には現状を打破することができないのだが。
「カーシェルが謝ることではない。むしろ、俺のほうが謝すべきだ」
「なぜ?」
「お前は俺の契約主だ。命に代えても守る……それが俺の信念。だというのに今の俺は、お前を助けるどころか化身すらできない。とんだお荷物だろう」
「何を言い出すかと思えば」
思わず顔がほころんでしまった。当のカヅキは大真面目なのだが、どうにもこの男は不器用で、融通が利かない。それゆえに責任を感じすぎる。それはこの男の美徳だが、この状況ではただの卑屈だ。
「お前がいなければ、俺はとうの昔に死んでいた。それに今の状況で頼りになるのはお前だけなのだ。だからそう謝ってくれるな」
「しかし」
「真に罰せられるべきはメイナードと……奴の蛮行を阻止できなかった、俺自身だ」
異母弟であるメイナードとの間に軋轢が生じ始めたのは、およそ三年前。俺の母であるリーゼロッテ神国の王妃エレノアが没したころだった。母は遠縁ながら王家の血を引く、リーゼロッテでも一、二を争う有力貴族家の出身だ。神姫という役職は、本来王族の娘が務めるもの。しかし当時王家は女児に恵まれず、そうしたとき神姫になる娘として名があがるほど、母は王家に最も近いヒトだった。
そんな母と、その背後の貴族の存在は、第二妃シャルロッテとその子メイナードを牽制するのに十分すぎるほどだった。だからこそ母が死ぬまで、彼らは何も手出しをできなかった。この義理の弟と、表面上は俺もうまくやっていたのだ。
しかし母が死んだ途端、メイナードは隠していた牙を剥いた。父である国王が母の鎮魂のため教会に籠り、異母妹イリーネが神姫となり城を空け、俺が政務に忙殺されていた隙を突いて――せっせと俺兵団を作り上げ、謀反の準備をしていたらしい。
その結果がこれだ。フローレンツでの首脳会議に出発しようとしていた矢先、俺は呆気なくメイナードに捕らわれ、逃亡しないようにと両足の腱を断たれた。言い訳をするようだが、俺の体調は万全でなかった。疲れているのだろうと思っていたが、食事に毒を盛られていたと気付いたのはその時だ。俺が気付かないよう、長い時間をかけて微量の毒を食事に混ぜていたのだろう。死に至るほどの劇薬ではないが、体の動きを鈍らせるには十分すぎた。でなければ、俺が剣も抜けぬうちに捕えられるはずがない。
それ以来、俺は城から少し離れた場所に建つ塔の一室に軟禁されている。武器も取り上げられ、毒と怪我のせいで満足に動けない身体では、脱出は不可能と諦めるしかない。交流を許されたのは、食事を届けに来てくれるカヅキとの会話だけだった。
【迅風のカヅキ】――賞金ランキング第三位、だった者だ。かつてリーゼロッテ神国のハンターによって狩られ、そのまま神国軍の中で化身族の部隊を率いている。だからもう賞金はかけられていないが、他国はカヅキを欲しがっているだろう。カヅキを破ったハンターなどいるならお目にかかりたいものだが、本人は「真っ向勝負での敗北だった」と語るだけで詳しくは俺も知らない。
カヅキとは古い付き合いだ。俺が子供のころには既に将校の地位にあり、親交があった。契約を結んだのは二十歳のころ。化身族を嫌う国民たちの誤解を解きたいという思いと、「貴人は護衛の一人でも持っているものだ」というカヅキの提案があったからだ。それ以来、カヅキは親友であり腹心である。俺を主君と呼び、忠実に傍にいてくれる彼は、人間の廷臣たちよりよほど信頼できた。
俺の腹心を、メイナードが放っておくわけがない。メイナードは俺の命を盾に、カヅキの契約具を奪った。それからというもの、なぜかカヅキは化身ができなくなった。契約具が傍にないからと言って、化身が完全にできなくなることなどないはずなのに――メイナードは何か妙な策を使ったのかもしれない。
もちろん生身でもカヅキは強い。だが俺の命を盾にされて、彼は身動きが取れないのだ。メイナードを討つことも、助けを呼びに行くことも、俺を連れて逃げることも。彼に許されたことは、俺に食事を運ぶというひとつのみ。それ以外は、カヅキも厳重な監視下にあるという。
俺に出逢ったばかりに、不自由な思いをさせている――それを思うと申し訳ないが、自分たちは主従だ。そのように気を遣われることを、カヅキは好まない。だからいま俺にできることは、早く足の傷だけでも治して、共に脱出できるようにすることだけだ。
スプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。――毒を盛られていると気付いてしばらく、身体が食事を拒否した時期があった。また毒が入っているのではないかと恐れたのだ。しかし食べなければやっていけないし、見かねたカヅキが毒味をしてくれるようになってから、なんとか食事を摂ることができるようになっていた。
「……カヅキ、イリーネの所在は分かったか?」
俺の問いに、カヅキは顔をあげる。その視線は、非常に鋭い。
いま一番の懸念は、イリーネの行方が分からないことだ。イリーネは神姫として、俺と共にフローレンツの首脳会議へ行くことになっていた。俺が捕えられた後、あの子がどうなったかが全く分からない。まさかメイナードが女、しかも実の妹であるイリーネを害するほどの卑劣漢だとは思いたくないが――。
「相変わらず、目ぼしい情報はない。城内にいるのかいないのか、それすら不明のままだ。何せ俺も、この塔の外に出ることが滅多にできないからな」
カヅキはリーゼロッテ神国軍の中にある、化身族だけの部隊を統率する将、獣軍将だ。そんな大物を幽閉していたら、化身族たちの不満が爆発する。それを恐れたメイナードは、カヅキだけは公の場に出ることを許可しているらしい。賢明な判断だ。
すると、カヅキは無言で、何か折りたたまれた小さな紙を俺に差し出してきた。ちらりとカヅキを見た俺は、スプーンを置いて紙を受け取る。静かに広げてみると、中にカヅキの字が書かれていた。
『イーヴァン国王の密使が接触してきた』
一行目の文章を見て、はっと息をのむ。横でカヅキが音もなく微笑んだのが見えた。
『イリーネ姫は現在、サレイユへ移動中。
同行者はサレイユ第一王子、及び【氷撃】。
イーヴァン国王が後見に立っているらしい。心配無用』
ファルシェ。アスール。そしてミルク――【氷撃のカイ・フィリード】。
何があったかは知らないが、イリーネは確かに生きている。生きて、俺が信頼できる者たちの手を借りながら、おそらく安全であろうサレイユを目指している。リーゼロッテから離れようとしている。
ずっと気にしていた心配事の一つが、大いに解消された。
ファルシェは若いが、立派な為政者だ。かつては臆病だったアスールも今では立派な剣士になっている。何より【氷撃】は、イリーネを絶対に傷つけない。幼いころに過ごした一年を見ていれば、あの白銀の豹には絶対の信頼が芽生えたのだ。今は――ヒトの姿で言葉を交わせるのだろうか。是非、会ってみたい。そして、あの頃の礼を伝えたい。――そう思ってずっと探してはいたが、まさかイリーネが先に再会してしまうとは。
十五年前に一度だけ繋がった縁が、時を経てもなお繋がっていたということか。
カヅキがわざわざ紙に書いて知らせてくれたのは、いつどこに監視がいるか分からないからだ。今も扉の前に立っていて、こちらの会話を聞いているかもしれない。迂闊なことを口に出せないのは分かっているが、それでもどうしようもないほどに嬉しかった。イリーネの無事が分かったのもそうだし、アスールらが助力してくれていることも、カヅキが危険を冒してファルシェの密使と接触してくれたことも。
「そうか。無事だと良いのだが……」
とりあえず、口に出しては白々しくそう言っておく。
反化身族の気風が強いこの国では、イリーネは混血種と蔑まれてしまう。けれど、そんなリーゼロッテにも理解者は確かにいる。この首都カティアにも、地方領主たちの中にも。もしもリーゼロッテに戻るのならば、イリーネやアスールはそこを頼りにするはずだ。
もしそうなれば――俺が彼女たちと再会できるのも、そう遠い未来ではないかもしれない。
勿論このときの俺は、イリーネがすっかり記憶を失っていることを知らなかった。加えて、まさかクレイザ殿と【黒翼王】殿までがイリーネに同行し、彼女たちが霊峰ヴェルンやギヘナ大草原を突っ切ろうとしていたことなど、知る由もないのだった。




