◇霊峰ヴェルン(10)
結局その日は、一晩ツィオの小屋で明かした。休んで行けと言うツィオに押し切られた形だ。とはいえ不気味な土地を歩き回ってきたイリーネらにとって、暗鬼に怯えることなく夜を過ごせるのは嬉しいことだった。屋内であるから、風や砂っぽさを気にする必要もない。その夜は久々に良く眠ることができたのだ。
翌朝になって、ついにギヘナへ向けて出発することになった。小屋の裏手にある洞窟の前まで見送りに来てくれたツィオに、イリーネは頭を下げる。
「ツィオさん、本当にお世話になりました」
「なんのなんの。わしのほうこそ、色々手伝ってもらって助かったよ」
その言葉を聞いたニキータが、これ見よがしにぐるぐる肩を回す。昨日大量の薪をひとりで割ったのはニキータだ。腕が痛くなって当然だろう。しかし実際に筋肉痛で悩んでいたのは、薪を運搬していたクレイザのほうである。
「この洞窟を抜ければすぐギヘナ大草原じゃ。くれぐれも気を付けるんじゃよ」
「はい、ありがとうございます」
「また遊びにきてくれ。わし、寂しいからの」
イリーネは笑顔を浮かべたが、正直もう霊峰には入りたくない気分である。化身族の面々はその気持ちを露骨に表情に出しているので、ヒヤヒヤものだ。
名残惜しくもあったが、ツィオとはお別れだ。日光がまったく入らない洞窟の中へ、火を灯したランプを持つチェリンを先頭に進んでいく。
道幅は広くはない。小柄なヒトならふたりくらいは並んで歩けるだろうというくらいだ。緩やかな下り坂で、どこからか水の音が聞こえる気がした。
「暗いわね。足元気を付けてね、イリーネ」
「ありがとう、チェリン」
チェリンやカイのような、獣に化身する者たちは夜目が利く。だからこそチェリンが先頭であるわけで、彼女は火がなくとも闇の奥が見えるのだろう。すぐ後ろを歩いているイリーネだが、あまりの暗さで洞窟の壁に手をつきながらしか歩けない。壁に触れた途端の冷たさといったら、一瞬息が止まるほどだ。
「自然にできた洞窟ではなさそうだ。誰かがヴェルンとギヘナを繋ぐために掘ったのだろうな」
その見立てはアスールだ。そのあと、ニキータの深いため息が聞こえてくる。
「しかしまあ、結局あのじいさんは何だったんだろうな」
自称歴史学者――だが、それを鵜呑みにするには情報が足りなかった。研究をしているわりに、あの小屋の中に資料の類はまったくといっていいほどなかったのだ。そもそもイリーネには、ツィオが人間なのか化身族なのかさえ見分けられない。
「誰でもいいんじゃないの。あのヒトは俺たちに、食事と寝床を提供してくれた。こっちも代価としてあのヒトの雑用をした。ひとつの取引だよ」
意外にもツィオを庇うようなことを言ったのはカイだ。ニキータの笑いが聞こえる。
「一番疑り深いお前が、そんな風に言うなんてな。だがまあ、そうか――本当に俺たちにとって重要な奴だったら、必ずどこかで再会することになるだろう。今は気にするだけ時間の無駄か」
自分たちに優しくしてくれた、物知りなおじいさん。今はそれだけでいい。各国に隠れ家を持っていると言っていたし、もしかしたらまたどこかで会うこともあるかもしれない。その時には、もっと落ち着いて話をしたいものである。
「それにしても、随分と長い洞窟ですね。先が全く見えません」
イリーネの指摘に、後ろのカイが頷いた気配がした。
「でも、風は前から来ている。必ずどこかに通じているはずだよ。……あのおじいさんが嘘教えてなかったらね」
「この期に及んで引き返せないだろうよ。とにかく行けるところまで行ってみようや」
ニキータの言う通りだ。いまはこの道を進むしかない。行き止まりに突き当たったら、その時はその時だ。
★☆
「……ねえ見て、なんだか明るいわよ」
先頭のチェリンが、突然そんな声を上げた。
緩やかな下り坂を歩いて、十五分ほどは経った。行けども行けども暗闇で、曲がり角もないので、ちっとも前進している気がしない。ツィオは「洞窟を抜ければすぐ」と言っていたが、洞窟自体の長さはかなりのものだったらしい。そんな中で今のチェリンの発言だ。待ち望んだ出口ではないか――そう期待したのは言うまでもない。
だが実際は違う。通路の先が、ぼんやりと仄かに青白いのだ。あれは日の光ではない。
細い通路が終わり、少し開けた空間に出た。そこにあった光景を見て、イリーネは思わず感動の声を上げた。
小さな泉だ。透明度が恐ろしいくらいに高い水で満たされた、洞窟内の泉。それだけならなんらおかしくない光景だ。驚いたのは、暗闇の中でぼんやりと泉が青く光っていること――何がどういう原理なのかは、イリーネは分からない。ただそれは、とても美しかった。神秘的だったのだ。
「きれい……!」
思わず呟いたイリーネの横で、チェリンが掲げていたランプを下ろす。ランプの明かりが必要ないほど、この泉の傍は明るかったのだ。
「これもまた、魔力的な何かなの?」
「いや、違う。というか、俺は何も感じねぇ」
「あんたのそれは、魔力が少ないからじゃないの?」
「おっと、そう言われると自信なくすぜ」
大袈裟に肩を落としたニキータの傍をすり抜けて泉の傍まで歩み寄ったカイは、しゃがんで水面を覗き込む。泉の底に、何か植物が生えていた。それを無造作に摘み、イリーネに見せてくれる。白い小さな花だ。
「正体は、これ」
「この花が……?」
「セレネの花っていうんだよ。綺麗な水の中で育つ植物で、暗い場所だとこうして発光する」
「不思議な植物なんですね」
「ついでに、めちゃくちゃレア物だから高く売れる」
幻想ぶち壊しの現実を付け加えられて、イリーネは苦笑する。「さすが山暮らしのフィリードの戦士は詳しいねえ」とニキータが感心なのか呆れなのか分からない感想を漏らした。
「丁度いい、少し休憩しよう。この先、休めるような広い場所があるか分からんしな」
ニキータのその言葉に全員頷いた。まだ疲れてはいないが、真に疲れたとき休めるとも限らないのだ。何せこの先は、無法地帯のギヘナ大草原。ある意味、霊峰ヴェルンより恐ろしい場所かもしれない。
イリーネは泉の傍に座って、青白く光る水面を見つめている。隣に座ったアスールが微笑んだ。
「今まで生命の気配さえなかったこの山の中で、このような光景が見られるとは。今までに見た中で一番美しいかもしれない」
「アスールも初めて見たんですか?」
「セレネの花の存在自体は知っていたが、見たのは初めてだ。カイが言った通り、この花は希少価値が高くてな。絶滅したという噂もあったほどだ」
聞いていたカイが振り返る。
「サレイユにだって綺麗な景色はいっぱいあったでしょ。『水と夜光の国』って言われるくらいなんだから」
「分かっていないな。サレイユにある景色は殆どが人工物なのだ。開拓が進んで、自然のままの景色はあまりない。だからこそ自然の神秘は素晴らしいのだよ」
大陸最大の湖を持ち、観光業で栄える水の国サレイユ。観光客向けの娯楽施設が国内に多数あり、夜になっても楽しめる不夜の都だという。その夜景は国内外を問わず大人気だそうだが、それを創りだすために多くの森林を開拓し、建物を建ててきた。これまで良くも悪くも人の手が入っていないフローレンツ、イーヴァンと旅してきたイリーネには、少し窮屈にも感じるかもしれない。
「ところで、お前と第二王子の間の派閥争いはどうなった? 最近サレイユに行ってねぇから分からないんだが」
ニキータが突如としてそう問いかけた。アスールは困ったように眉をしかめ、首を振った。
「今も続いています。表立ってはいないですが、宮廷内では熾烈ですよ」
「当人同士の争いじゃなくて、臣下どもの争いなんだろ?」
「ええ。私とダグラスも、母親同士も非常に仲が良いんですけどね……」
ダグラス。それがアスールの兄――立場上の弟である第二王子の名前か。ニキータが腕を組む。
「武闘派で軍人たちとの結束は強いが、黙って国を空けがちな第一王子。武芸はからきしだが頭が良くて、国内外に顔の広い第二王子。年齢は同じ、見目の良さもほぼ同等。これで正式に立太子されてないとくりゃ、国も割れるよな」
つまりサレイユ内部で起こっているのは、武官と文官の争いということだ。アスールとダグラス、どちらが国王になるかによって、臣下の格付けも変わってくる。だからそれだけ必死なのだ。
サレイユは軍事的にそこまで強くはない。むしろ弱小と言っても良いだろう。それでもなんとかサレイユが大陸中で上位に立ち、発展できたのは、リーゼロッテ神国という大国の威を借りたからだ。そのためにサレイユでは、元々軍部の力が弱い。
しかしアスールが国王になればどうだろう。本人もかなりの手練れで、軍人たちと仲が良いという彼が国王になったら――軍人たちが政治に介入できる日も来る。もしかしたら、アスールを懐柔して国の権力を握ろうと画策している野心家もいるかもしれない。
「軍人が政治介入することは良いことではない。軍国主義となったせいで崩壊した国家が、歴史上にいくつも存在するのだ。戦いなど、しないほうがいいに決まっている」
呟くように言葉を紡いだアスールをじっと見つめていたカイが、ゆっくり口を開く。
「……それが、あんたが国を離れて放浪王子を装う理由?」
「サレイユは昔からリーゼロッテ、ケクラコクマというふたつの大国の脅威に挟まれてきた。ただでさえ不安定な立場を、過ぎた力を持ったせいでさらに揺らがせたくないのだ。私はダグラスほど政治手腕に長けていないからな」
間接的だったが、アスールの答えはカイの問いを肯定していた。ちゃらんぽらんな振りをして、臣下や民からの信頼を失わせる。すべてはダグラスに王位を譲り、国を安定させるために――それはある意味、クレイザと同じような覚悟だったかもしれない。
だが――本当に覚悟をしなければならなかったのは、アスールとダグラスの父、つまり現サレイユ王なのではないだろうか。二人の息子のどちらかを王太子に指名しておけば、こんな派閥争いは起きなかったであろうに。
それまでの重苦しい空気を払拭するように、アスールはあっけらかんと陽気な笑みを浮かべた。
「さ、休憩は充分だろう。早いところこの洞窟を抜けてしまおうではないか」
アスールが本当の気持ちや理由を語らないのは、今に始まったことではない。はぐらかすときは、本当にはぐらかし通すのだ。これ以上追及しても無駄だろう。
短い休憩を終えて、一行は再び洞窟内を進み始めた。先程までと同じ、暗く細い通路を延々と歩く。分岐路もない一本道だから迷うことはなさそうだが、ツィオにどれくらいでギヘナに出るのかを聞いておけばよかったとイリーネは今更後悔している。
壁にずっと手をついて歩いていると、何かの絵や文字が彫られている感触がある。アスールの言う通り、ここは人工的に造られた洞窟なのだ。大昔――まだヴェルン山が霊峰と呼ばれていなかったころには、盛んに往来があったのかもしれない。
途中にまた開けた場所があったので少し休憩し、歩く。軽く一時間も歩けばいい加減この暗闇にも慣れてきて、同時に変わらぬ景色に疲れてくる。しかし変化はあった。すぐ傍を歩くカイの顔色が、少し良くなっているように見えたのだ。霊峰ヴェルンに足を踏み入れてからというもの、血の気の失せた顔色をしていただけに、それは嬉しい変化だった。
「カイ、調子よくなってきました?」
「うん、だいぶ。魔力も薄くなってきたし、出口は近いよ」
「言われてみりゃ、俺も身体が軽くなった気がする」
後ろの方からニキータの声がする。彼は鳥類だから、暗闇で目は全く利かないらしい。洞窟に入ってからずっと後ろにいた。
それまで緩い下り坂だった道が、いつの間にか平坦になっている。目の前に壁が現れ、通路は右に折れていた。その角を曲がって――チェリンは掲げていたランプを下ろした。
前方から光が差し込んでいる。さっきの泉のような、青白い光ではない。暖かな日の光――その向こうに、草の大地が僅かに見える。
ギヘナ大草原が、そこに広がっていた。




