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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
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◆霊峰ヴェルン(9)

 気が付くと、カイはベッドの上で横になっていた。


 ベッドに横になった記憶も、眠った記憶も欠落している。確か水と薪が不足してきているという話をしていたところまでは覚えているが、その先が一向に思い出せない。おそらく、気を失ったのだろう。

 ツィオの小屋の中だ。だが室内はがらんとしていて、誰ひとりいない。昼食の片付けもすっかり終わっていることから、だいぶ時間が経ったのだろう。イリーネたちの荷物は室内に置いてあるから、そう遠くには行っていないはずだ。

 耳を澄ませると、近くで規則正しく軽い音が聞こえる。これは――木が割れる音。薪割りをしているのだろうか?


 毛布を跳ね除けて、立ち上がろうとベッドから足を下ろす。足に力を入れた途端、頭がくらんだ。浮かしかけた身体が、再びベッドの上に沈む。


 なんとまあ情けない。強力な魔術はいつだってカイの助けになっていた。それがこんなところで足を引っ張ることになろうとは、正直思いもしなかった。知っていれば対策ができたかというと――できたとはとても断言できないが。

 ひどい二日酔いのような症状が、暗鬼と戦ってからずっと続いている。いつもは制御できている聴覚も狂って、他人の声が小さく聞こえたり、かと思えば真横で話されているかのような大音量に聞こえるのだ。気持ちが悪くて仕方がない。


 平衡感覚を失っている頭を戻そうと、しばらく座ったままじっと目を閉じる。と、戸口が開いた音がした。顔を上げると、ツィオが戻ってきていた。


「目が覚めたか」

「……俺、どのくらい寝てた?」

「なぁに、ほんの二十分程度じゃよ」


 ツィオはそう言って、カイの真正面にある椅子に腰を下ろした。


「みんなはどこに?」

「水汲みと薪割りを手伝ってもらっているのじゃ」


 イリーネとチェリンとアスールは泉へ水汲みに。ニキータとクレイザは小屋の裏手で薪割りをしているとのことだ。先程から聞こえている薪割りの音はそれだったのか。

 それにしても、いくら近いとはいえイリーネらを水汲みに行かせたり、同じく体調が優れないはずのニキータに薪割りをさせたり、不用心ではないか。いつ暗鬼が襲ってくるか分からないというのに。


「安心せい。どういうわけか暗鬼はこの小屋の近くには来れんのじゃ。おぬしも、少しは楽になっているのじゃろ?」

「……それは、まあ」

「暗鬼を追い払う力でもあるのかもしれんのぅ」


 ツィオの口ぶりからして、この小屋は彼が自ら建てたものというわけではないようだ。遥か昔からここにあった小屋を、ツィオが見つけて勝手に使っているということか。


「おぬし、なぜこの山が古の女神教教徒の修行の場だったか分かるか?」


 唐突に問いかけられて、カイは怪訝に眉をしかめた。その表情を否と取ったか、ツィオが説明する。


「魔力持つ者にとって、霊峰ヴェルンの環境は地獄そのものじゃ。そのような環境下で修行をすることで、己を高めることができると考えられたのじゃよ。この環境に順応したとき、それが悟りということじゃ」

「……そっか。昔は、人間だろうが化身族だろうが、多くのヒトが魔術を使えたんだもんね」

「うむ。頂上に祭壇があってな、そこで人々は祈りを捧げていたようじゃ。今は魔術を使える者も少なくなり、すっかり廃れてしまったがの」


 人間族の何倍も体力があるはずの自分でもこんなに苦しいのに、古代の人々はこの地獄に耐えたのだ。何かを信じる心というのは、ヒトの限界を超えさせてしまうものなのかもしれない。


「おぬしももうしばらくここで過ごせば、この環境に身体が慣れてくるじゃろう。そうすれば、いかな過酷な状況でも魔術を行使できるようになるやもしれん。どうじゃ、わしのもとで修行せんか?」

「俺はそんな力はいらないよ。ただ、みんなを守ることができればそれでいい」


 過ぎたる力は、災いしか呼ばない。そこそこでいいのだ。カイは昔から、化身族としてはおかしいくらいに力への執着が薄かった。だから別に、これ以上の技を身につけたいと思ったことはない。今のままでも十分に自分とイリーネらを守ることはできる。もし自分が倒れても、アスールやチェリンがいてくれる。心配することは何もないと思うのだ。


「世界にはおぬしの知らない強者がいるぞ。おぬしは今の時代には珍しく、強い魔力の持ち主じゃ。それだけこの山で体調が悪くなるんだからの。しかし本当に、今の実力に満足して大丈夫じゃろうか?」


 意外なことに、ツィオはそんな忠告をしてきた。分かっている、賞金ランキング第五位と言われても、無名の強者はごろごろいるのだと。けれど、そんな相手と戦う可能性がどれだけあるという? それに正直な話、カイの身体の成長は完全に止まっている。衰えることはあっても、これ以上新たな技を身につけることはこの先難しいのだ。そのくらいの身の程は、カイも弁えている。


「まるで見てきたように言うんだね、おじいさん」

「ほっほっほ、おぬしも見かけほど若くはないようじゃが、わしはおぬしより長く生きておる。色んな人々と出会ってきたのじゃよ」

「ふうん……?」


 カイはツィオを改めて見やる。年齢は――見かけ七十代くらいか。五十年を生きているカイより年上なのは間違いないが、今の言い方は何か引っかかる。


「……あんたは、何者?」

「さっき言うたじゃろ、しがない歴史学者じゃ」

「本当に?」

「本当じゃよ。他になんだと思うんじゃ?」

「あんたからは何の匂いもしない。人間特有の匂いも、化身族の匂いも……魔力も一切感じられないのに、やたら詳しいし」


 ツィオは不思議だった。敏感なカイは、相手が化身族なのか人間族なのか、魔力を持っているか持っていないのか、なんとなく分かるのだ。だがツィオが一体何者なのか、カイには全く分からない。特殊な環境下で感覚が鈍っているだけかもしれないが、それにしても――。


 カイの目線をにっこりと笑って、老翁は受け流す。


「おぬし……もしや『匂いふぇち(・・・)』というやつか?」

「……違う!」


 良いように流されたが、立ち入って聞くのも面倒になってカイは溜息をついた。


 まあ、誰でもいいか――とりあえず敵ではないし、助けてくれたのは事実だから。





★☆





 ツィオが指摘した通り、確かにこの小屋の周辺では体調が良い。やはりなんらかの術が施されているのだろうか。

 しかし、古代の女神教教徒たちはよくもまあこのような山で修行を積んだものだ。ただでさえいるだけで体調が悪くなるのに、暗鬼まで襲ってくるのである。多くの者が命を落としただろうに、そこまでして修行なるものを行うヒトの気が知れない。もう二度と霊峰ヴェルンには近づきたくない。


 ――そうするほどに、彼らにとってはエラディーナが絶対だったのだろう。長く続いた種族間の対立を終わらせ、平和の世を築いた女王。戦争によって疲弊することもなく、誰も死なない。それがどれだけ素晴らしいことだったか。

 けれども、エラディーナはその時代を築くために『戦争』をした。どんな綺麗事を述べようと、結局は武力に頼るしかない。やるせないものだ。



 小屋の外に出て、裏手に回ってみる。そこにはニキータとクレイザがいた。ニキータはまるで機械的にテンポよく薪を鉈で割り、クレイザがそれを運搬するという見事な流れ作業ができていた。道理で先程から途切れることなく薪割りの音が聞こえていたわけだ。


「あ、カイさん。もう大丈夫なんですか?」


 クレイザが額の汗を拭ってそう尋ねる。この真夏に、大量の薪を持ってあっちに行ったりこっちに行ったりしていれば、暑くなって当然だ。


「休ませてもらったから、平気」

「ったく、お前は本当に休みすぎだ。ギヘナに出たらしっかり働いてもらうからな」


 ニキータが鉈を持ったまま右腕をぐるぐる回す。目の前を刃が通過したので、慌てて飛びのいた。


「俺はニキータと違って繊細だからね」


 いつぞやのお返しで、カイはそう突きつける。へっ、とニキータが鼻で笑い、薪割りを再開する。


 そんなニキータの後ろは、土が盛り上がっていた。そこに石の小さな墓標が置かれている。全部で八つ――ツィオが発見しただけでも、四組八人のハンターか。

 腕っぷしを買ってハンターを調査に派遣したのが裏目に出たのだろう。人間だけの軍を派遣していれば、少なくとも神属性の魔力に苦しむことはなかった。暗鬼という正体不明の敵が出た時点で引き返し、その存在をファルシェにもたらすことができただろうに。


 その墓標のさらに奥の崖に、ぽっかりと穴が開いている。あれがツィオの言っていた洞窟か。あれを通り抜ければ、もうそこはギヘナ大草原。やっとこの山から脱出できる。ニキータの要望通り、ギヘナでいくらでも働いてやろうじゃないか。


 背後から数人の話し声がかすかに聞こえてきた。振り返ると、水の入った桶をそれぞれ両手に抱えて、イリーネとチェリン、アスールが戻ってきたところだった。あの様子を見ると、暗鬼に襲われたということはなさそうだ。


「寝ていなくていいんですか?」


 イリーネが足早に歩み寄ってくる。さすがに水いっぱいの桶を抱えて走ることはできないらしい。大丈夫だと首を振って、カイは桶に視線を落とす。


「重かったでしょ、持とうか?」

「大丈夫です! 私、まだまだ持てますよ」


 さすがにそんな余裕はないと思うのだが、イリーネはにっこり笑ってそう言った。普通のお姫様ならこうはいかないだろう。


 水を室内に持っていくイリーネの後姿を見送って、カイは頭を掻く。そんなカイの肩を、アスールがぽんと叩く。


「心配されたくないのは分かるが、病人は大人しく病人をやっていたほうがいいぞ」

「別に病人じゃない」

「ほら、またそうやって強がる」


 心配されたくない? 強がる? そんな風に考えているつもりは、ない。ただ、『大丈夫』だから『大丈夫』と言っているだけ――のはずなのに。傍から見ると、強がっているように見えるのか。

 ――けれど、そうかもしれない。心配されることには慣れていないのだ。今までずっとひとりで生きていた。心配された時、なんと反応して良いのかが分からない。だからつい、口癖のように『大丈夫』と答えてしまう。


 アスールはイリーネとチェリンの後を追って、水を室内に持って行った。おぼろげに室内から、ツィオを含めた話し声が聞こえる。目の前では黙々とニキータが薪割り作業を続行し、クレイザも薪を拾い集めては倉庫へと運んでいく。

 今自分たちがどこにいるのか――魔の山と呼ばれる霊峰ヴェルンの中の、よく分からない歴史学者の住む小屋だということを、すっかり忘れてしまうほどの日常の一コマ。何者にも怯えることのない、平穏な時間。


 旅をするのは楽しい。まだ見ぬ土地や人々と出会うのは、カイにとって新鮮だった。だが、それでも、こんな風にどこか一所に定住する道もある。小さな家でもいい、一つ屋根の下にみんなが暮らしていて――昼間は働いたり買い物に出かけたりしても、夜には全員が顔をそろえる。その日あったことをみんなで話す。そんななんでもない幸せも、あるのかもしれない。望めば、今すぐにだって手に入るはずだ。


 けれどそうは出来ないのだ。実現するには障害が多すぎる。リーゼロッテの――イリーネやカーシェルの問題が済まない限り、どこかに定住ということはできない。そもそも、イリーネもアスールも王族だ。庶民と同じように、という訳にはいかない。賞金首として顔の知れているカイが、いつまでも共にいることも――。


「おいカイ坊。辛気臭ぇ顔しているようだが、薪割り代わるか。無心になれるぜ」


 気を遣ったのかそうじゃないのか、ニキータがそう提案して鉈を差し出してくる。カイは肩をすくめて鉈を押し戻した。


「疲れるからやだ」

「おお、おお、いつからお前はそんな冷たい子になっちまったんだ」

「だから、あんたに育てられた覚えはこれっぽっちもないんだけどね」


 そのやり取りを聞いていたクレイザが、薪を拾いながらくすくすと微笑む。


「本当に仲良いですね、ニキータとカイさんは」


 甚だ不本意なクレイザの感想に、ふたりが憮然としたのは言うまでもないことであった。

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