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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
72/202

◇霊峰ヴェルン(5)

 そこから三日かけて、イリーネたちは第二の山、ガデルを攻略した。ガデル山は、王都オストに到着する前イリーネらが立ち寄った温泉街タニスに、『温泉』という恩恵をもたらしたラッタ山に連なる。そう思えば、ガデル山はテルメニー山よりもよほど登りやすい山だった。人の入った形跡もちらほら見受けられ、それだけで安堵できるというものだった。


 ガデル山を越えてから、さらに一日半。ようやく一行は、イーヴァンの最西端の集落トンガに到着した。


「おー、こりゃまたいい具合に寂れてるな」


 高台からトンガを眺めおろして、ニキータが苦く笑った。ガデル山と霊峰ヴェルンに挟まれた窪地に形成されたトンガは、『街』と呼ぶのもはばかるような小規模な集落だった。イーヴァンの街はどこも一定以上の生活水準を持っていたのだが、トンガのそれはフローレンツと等しいかそれ以下だ。

 人口はどんどん減り、僅かな若者たちは出稼ぎに都会へ行ってしまう。トンガに残っているのは殆どが中年以上の人間たち。トンガはイーヴァン国内の限界集落のひとつだった。


 あのファルシェが、この貧しい現状を放っておくのだろうか――イリーネはそれが疑問だった。しかしどうしようもないこともあるのだろう。王都からトンガは遠すぎるし、道を整えようにも山が邪魔して難しい。船を通せるような運河もない。山にトンネルを掘るのもイーヴァンの民としてはできない。いかにファルシェが豊富な財力を持っていても、できないこともあるはずだ。



 住宅の形や集落の形状は、どことなくニムに似ているようだ。地形に沿って建てられた住宅はすべて木造で、随分と年季が入っている。トンガでは自給自足が基本らしく、昼間の暑い時間から多くの住民が農作業に精を出していた。

 王都オストで十分に補給した食料もだいぶ減っている。トンガで補給してから霊峰ヴェルンに挑みたいのだが、この様子でそれは叶うのか。


「どうすんの? なんだか俺たち、じろじろ見られているけど」


 カイがのんびりと告げる。畑仕事をしている人々が、しきりに目線をこちらに送ってくるのだ。イリーネなどは少々居心地が悪いのだが、カイはそうでもないらしい。


「トンガにヒトが来るなど、そうないのだろう。しかし食料の補給はせねばなるまい。霊峰ヴェルンだけならともかく、その先のギヘナはもたないぞ」


 アスールもまた、人々の視線に晒される苦はないようだ。逆にトンガの様子に目をやりながら言う。彼の言う通り、霊峰ヴェルンのあとに待ち受けるのはギヘナ大草原だ。街もなく人もいない場所を延々と進むことになる。一行の誰にとっても未知の土地であるし、不測の事態が起こって予定が狂うことはあり得るだろう。

 だがニキータは余裕の表情だった。見かねてイリーネが問う。


「何か考えがあるんですか?」

「おう、まあ見てなって」


 何やら自信満々のニキータの前に、ひとりの老婆が現れた。畑仕事の真っ最中だったのか、タオルで汗を拭いながらやってくる。他の住民と違って、彼女はイリーネらに好意的だ。


「あらまぁ、こんなところにお客さんなんて、珍しいねぇ」

「ちょっと仕事でな」


 仕事、という言葉に残りの面々は顔を見合わせる。またニキータは、ファルシェと何やら企んでいたらしい。

 すると老婆は、何か思い出したように手を打った。


「ああ、もしかして辺境調査隊のヒトかい?」

「そうだ。ほら、身分証」


 ニキータが差し出したカードには、確かに「辺境調査隊」の文字とファルシェの署名があった。それを見た老婆はあっさりと頷く。


「ラトの街から物資が届いているよ。こっちへおいで」


 そう言って老婆は踵を返し、ゆっくりと道を歩いていく。続いたニキータを追って、イリーネらも歩きはじめた。


「俺たち、いつの間にか辺境調査隊になってたんだね」


 呆れた様子でカイが呟く。訳が分からなさそうなイリーネとチェリンに向けてアスールが説明した。


「イーヴァンの未開の地に派遣される調査員のことだ。地形を調べて地図を作ったり、生息している動物や植物を調べたりする。王都を出るとき、ファルシェがそれらしいことを言っていただろう?」

「そういえば……でも、調査隊って軍の人とかかなって思っていたんですけど」

「他国では軍人が派遣されることが多いな。だがイーヴァンの調査隊はもっぱら志願制で、ハンターで構成されることが殆どだ。ハンターはイーヴァンの僻地まで平気で行くことがあるし、軍人よりよほど地理に精通しているからな」


 つまりイリーネたちが「辺境調査隊だ」と名乗ってもなんらおかしくないということだ。というより、むしろ立派な辺境調査隊である。まだ誰も見たことのない秘境へ向かおうとしているのだから。


「霊峰ヴェルンに挑む辺境調査隊は、必ずトンガで休息を取ります。その時、ラトの街から補給物資が届けられるんです。事前にファルシェが指示を出してくれていますから」


 クレイザも説明を加える。ラトはラッタ山の西側にある街で、トンガから一番近い大型の集落である。幸いにしてトンガとラトの間は平地が続くので、馬を使えば半日程度の距離なのだ。

 志願してきたハンターたちに国が物資を提供する――それほどまでに、霊峰ヴェルンの攻略は望まれていて、同じだけ危険ということだ。


 ファルシェが出発の時に言っていた、『国内での安全を保障する』とは、こういうことなのだ。


「気前がいいわねぇ」

「国王を味方につけるとはこういうことだよ」


 アスールがチェリンに微笑んで見せる。なんとも心強いものだ。


 老婆が案内してくれた倉庫の中に、数日分の食料が保管してあった。チェリンとアスールがそれを確認している間に、老婆は心配そうにイリーネに声をかけてきた。


「あんたたち、あの魔の山に登るつもりかい?」

「あ、はい」

「今まで何組も調査隊として派遣されてきたけど、ヴェルンに入ったきり戻ってきたヒトたちはいないんだ。あたしたちは、無事に山を越えてギヘナも越えたんだろって信じたいんだけど、どうにもねえ……」


 話を聞きつけて、カイが倉庫の外まで出てくる。彼の目線は倉庫の向こう側――黒々とした山へと向けられていた。

 なにやら不気味な山――あれが霊峰ヴェルンか。


「見たところそんな大規模な山じゃないみたいだね。……にしても、夏だっていうのになんであんなに山が黒いの?」


 カイが指摘して、イリーネは不気味な違和感の正体に気付いた。そう、あの山は真っ黒なのだ。それまでの山は青々と緑が茂って、自然豊かだったのに。

 老婆は気味悪そうに身を竦めた。


「あの山はね、年中木が枯れているのよ」

「え……!?」

「と言って、腐って倒れるわけでもない。時間が止まったみたいに、ずっと昔から枯れたままなの」


 腕を組んで、カイはじっとヴェルンを見つめている。


「山に立ち入ったことは?」

「ないわよ。気味が悪いし、昔から入っちゃいけないと伝えられてきたから」

「ふうん……まあ、あの様子じゃ食料も木材も手に入らなさそうだしね。動物が生きていられそうな場所とも思えないし」

「でもどうして、そんな山がずっとあるんでしょうか……?」


 イリーネの疑問に、カイは腕組みを解いて振り返る。


「地脈を操っているのか、水を制御しているのか……魔術は自然法則の中で、環境に干渉できる。何かしらの魔力が働いていると考えれば、不可能な状況じゃないよ」

「魔術? 誰が?」

「誰がっていうより、自然にそうなったのかもね。世界には魔力が偏る場所があるらしいから」


 魔力が渦巻き、年中魔術が発動している場所――あまり快適な場所ではなさそうだ。以前アスールの仕事に同行して向かった大地母神の神殿でも、古代の魔術は驚異的だった。何が起きてもおかしくはない。


 物資の確認を終えたチェリンとアスールが戻ってくる。老婆が全員を見回して言った。


「あんたたち、山に入るのは明日にして今日はゆっくり休んでいきなさい。うちにおいで」


 その申し出は有難かった。今ならどんな硬いベッドだろうがぐっすり眠れそうだ。クレイザが『お世話になります』と丁寧に頭を下げて、老婆の家へと向かった。





★☆





 翌日は朝から快晴だった。夏も終わりかけているのか、少し風は冷たい。だがまだまだ残暑はイーヴァンの地に居座るようで、日差しは強いままだ。


 温かい朝食までご馳走になって、イリーネたちは老婆と別れた。なんだか申し訳なかったのだけれど、トンガは土壌にも水にも恵まれた場所だそうで、食料の自給率は高いらしい。税も、金銭ではなく穀物を王都に納めているほどだ。トンガで獲れた米や豆、野菜を、老婆が昔ながらの味付けで料理してくれる。チェリンも唸るほどの絶品だった。


 トンガの集落を抜けて、西へ。集落の境となりそうな門も濠もないので分からないが、おそらく『トンガ』というのはあの家々と田畑の周辺のみを指す。そこから一歩でも離れてしまえば、また人気のない荒れ地に逆戻りだ。

 目の前に聳える霊峰ヴェルン。トンガからの距離はほんの数分で、通常ならば『裏山』と呼んでいいほど身近なもののはずだった。しかし枯れた黒い山に近づく者はいない。近づけば近づくほど、不気味さは増すばかりだ。


 ヒトの手が入った形跡は、ある。トンガからヴェルンまで、道が整えられていた。アスールが言うには、古代に女神教の信者が参道とした道であろうということだった。ヴェルンを山籠もりの場とするには、確かに精神力が必要そうだ。


「本当に、枯れてる……」


 平らだった道が徐々に傾斜をつけはじめる。同時に辺りには枯れ木が目立ってきた。ついに霊峰ヴェルンに入ったのだ。

 イリーネはそっと、傍の木の枝に手を伸ばす。元はどのような木だったのか、きっと青々と葉が茂っていたはずだ。だが枯れて久しい木々は黒く変色し、葉の一片もない枝も地面へ向けて力なく垂れている。枯葉は朽ちもせず、地面に敷き詰められていた。完全に色を失った世界だ。それはどことなく、フローレンツの最果てオスヴィンを彷彿とさせる。ここもあそこも、どちらも生命の気配を感じない。


「木々が枯れているのは異常だけど、でもそれだけじゃないの。どうして調査隊は一度も戻ってこられなかったのかしらね」


 先を行くチェリンが言うと、アスールも顎をつまんだ。歩くたびに枯葉がぱりぱりと音を出す。湿気はあまりなさそうだ。


「確かにそうだな。不気味ではあるが歩けないことはない。調査に派遣されたハンターたちはみな腕利きだったと聞く。それこそ、賞金首クラスの……食料が尽きたか、遭難でもしたか?」


 見渡す限り同じ景色でしかない。遭難という線はあり得る。何日も山中を彷徨えば、当然食料も尽きる。野生の獣がいるという雰囲気もないし、他には考えられない。

 もしくは、山は無事に越えて、その先のギヘナ大草原で消息を絶ったのか――?


「……調査隊は、ギヘナ大草原の調査も兼ねていたんですよね。どうしてどこの国もギヘナを調査するんですか? 資材が取れる、とか?」


 素朴な疑問を投げかけると、アスールが振り返って答えた。アスールは荷物の他に長剣まで持っている。重そうだが、見かけに反してアスールは堪えていないらしい。


「領土拡大という意味も強いだろうが、他にも事情はあるのだ」

「というと?」

「世界の国々は、大陸中央のギヘナを中心にして、その周りに展開している。ギヘナがあるばかりに、直線距離で突っ切れば速いものをわざわざ迂回することになるだろう?」


 ちょうどイリーネたちがそうではないか。イーヴァンからサレイユに行くには、ギヘナを突っ切るのが最短距離だ。だが未開の土地であるギヘナがあるせいで、人々はそこを迂回する。フローレンツを通り、大陸を北回りに旅してサレイユに行くのだ。これはどこの国でもそうだ。大陸の対角線上に位置する国同士は、ギヘナを迂回して行かなければならないため非常に遠い。


「だがギヘナを攻略して地図を作り、道を作ってしまえばどうか? 簡単に行き来ができるようになる」

「じゃあ通行のためなんですね」

「いや、それも違う」

「え?」


 珍しく回りくどいアスールの言葉に、イリーネは首を傾げる。アスールはほろ苦い笑みを浮かべた。


「――ギヘナは戦場になり得るのだ」

「戦場……!」

「ギヘナがあって行軍が難しかった場所へ一息に行くことができる。手出しができなかった国へ、容易にちょっかいが出せるようになるのだ。リーゼロッテやケクラコクマ王国などがギヘナへ調査隊を出すのは、そういう理由だ」

「それじゃ、フローレンツやイーヴァンを狙って……?」

「そう。ファルシェがギヘナを攻略せんとするのは、リーゼロッテやケクラコクマの先手を打ち、進撃を食い止めるためだ。もしギヘナだけでなく、霊峰ヴェルンまで他国に攻略されたらたまったものではないからな」


 イーヴァンがリーゼロッテを警戒するには、南の国境だけを注意していればよかった。だがもしギヘナがリーゼロッテの手に落ちれば、西からも攻められることになる。それを避けるためだったのだ。


 一見平和に見える大陸の国々だが――水面下で、熾烈な牽制が続いているのだ。ケクラコクマ王国の名はあまり聞いてこなかったが、そこはリーゼロッテと昔から対立関係にあるという。国境も接していることから、頻繁に小競り合いが起きているようだ。


「勿論、ギヘナには先住民族や野生の獣、強い化身族などがごろごろいる。踏破することさえ難しいだろうがな」

「そんな場所に、あたしたちはいま行こうとしているんでしょうが」

「おっと、そうだったな。まあこの調子なら大丈夫だろう。体力温存も兼ねて、ゆっくり登っていけば――」


 アスールの言葉が途中で途切れた。後ろで物音がしたのだ。枯葉の絨毯の上に、何かが落ちた音である。――そう言えば、いつも前を歩くはずのカイとニキータが前にいないではないか。

 振り返る。斜面の途中で、ニキータとカイが足を止めていた。地面に膝をついたカイの腕を、ニキータが掴んで引き上げているのだ。


「カイ……!?」


 イリーネは驚いて傍まで駆け寄る。顔を上げたカイの顔色はすこぶる悪い。血の気が失せたように真っ白だった。元々色白ではあるが、病的な青白さである。

 熱中症か。咄嗟にそう思いかけたが、そんなはずもない。暑い暑いと連呼してはいたが、倒れるほどではなかったのだ。もしかしてずっと無理をしていたのか?


「――甘いぜ、若人。ここは魔の山としてずっと恐れられてきた……相応の障害があるに、決まってんじゃねぇか」


 ニキータがふっと口角を持ち上げる。不吉な笑みだった。

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