◇霊峰ヴェルン(2)
「リーゼロッテ神国第一王女、イリーネ・R・スフォルステン。それが君のことだ」
神姫ということを告げられるのは分かっていたものの、こちらはまるで予想外だった。唖然としつつ、言葉の意味を理解しようと努める。そうしている間にも、アスールはさらに話をつづけた。
「神姫とは、代々リーゼロッテ王家の女性が務めてきた役職だ。イリーネの先代は、亡き王妃陛下が務められていた」
「王妃陛下……?」
「イリーネの義母にあたる方だよ」
カイはすっかり沈黙している。チェリンもまた、神妙な面持ちだ。
「国王にはふたりの妃がおられる。第一妃は今言った、亡き王妃エレノア様。第二妃はシャルロッテ様。王妃陛下の子は王太子カーシェル、そして第二妃の子はメイナード王子と、イリーネだ」
「カーシェルって……」
聞き覚えのある名前だ。そう、確か昨日、カイが言っていた。「何があっても味方でいてくれる、イリーネの兄」だと。異母兄だったのか。
それでは実の兄のメイナードはどうなのだろう。
いや、それより先に、イリーネが混血種ということは、実母シャルロッテは化身族――?
それを問うと、アスールは静かに首を振った。
「第二妃は紛れもなく人間だ。――が、イリーネに混血の証が出たということは、第二妃の家系のどこかで化身族と交わったということ。隔世遺伝のようなものだよ」
そうか――そういえば以前カイがそのようなことを説明してくれた。カイは最初から知っていたのだから、イリーネの両親が化身族でないことも勿論把握していたのだろう。
と、そこでチェリンが口を挟んだ。
「その第二妃って、嫌な奴なの?」
「藪から棒かつ率直だな」
アスールが苦笑する。そう言われてみれば、アスールは王妃には敬称をつけて、第二妃には敬称をつけていない。
「……第二妃は、自分の子であるイリーネに混血の証が出たことを恐れていた。メイナードもそうだ。単純に混血種を嫌うということもあったろうが、世間から見れば第二妃は不義の子を産んだと思われる。そのため、第二妃とメイナードは君と関わろうとはしなかった」
「俺、あのおばさん嫌いだ」
カイがぽつりと本音を漏らす。その口調は、本気で嫌っていたというのがびしびし伝わってくるものだった。
「代わりに君に優しかったのは王妃陛下とカーシェルだ。あのふたりと君は、実の親子以上に仲良しだったな。だからこそ、あれほど快活でお転婆な女の子が出来上がったのだろう」
「も、もう、アスール……」
イリーネは一気に頬を紅潮させる。
けれど、そうか。異端でありながら、自分は孤独ではなかったのだ。実の血縁に疎まれようと、それに代わって余りあるほどの愛情をもらっていた。そのあとは、アスールとカイがいた。アスールの言う通り、だからイリーネは元気に成長できたはずだ。
ひとしきり笑って和やかな空気になったところで、アスールはちらとカイに視線を送った。
「そこの犬っころはいつの間にか姿を消すし、あの時はイリーネが泣いて大騒ぎだったんだぞ」
「うるさいなぁ。そっちこそ毎日カーシェルに剣でぼこぼこにされてて半泣きだったくせに」
「うわあ、意外すぎる……」
チェリンが白い目でアスールを見やる。そこでイリーネはふとカイに尋ねた。
「一年は一緒にいたんですよね? どうしていなくなってしまったんですか?」
「あー……うん。殺されそうになって逃げたの」
「え!?」
「あの時、城の中で俺の存在を知っていたのはイリーネとアスール、カーシェルとそのお母さん、あと数人の侍女や衛兵だけだった。離宮の裏庭で、隠れて俺は生活していたんだよ」
まるでそれは、拾ってきた仔犬を隠れて飼うような状況だったらしい。侍女や衛兵はカーシェルの信頼置ける者たちだったから、心配はなかったそうだ。
「ずっと隠せるわけがないでしょ。一年経ったころに俺の存在がばれて、それで逃げた。咄嗟だったし、夜だったから、挨拶できなかったんだけどね」
多分、カイにはもっといろいろな考えがあったのだろう。おそらく騒ぎが大きくなってイリーネらの知るところとなれば、イリーネはカイを庇う。そうなって責を負うのは、侵入者のカイを隠していたイリーネとカーシェルだ。カイはその責を負わせないため、今その時初めて忍び込んだという風を装って逃げたのだろう。
アスールが溜息をつく。
「結果お前は、リーゼロッテの王城に忍び込んだ犯罪者として手配されることになった。【氷撃のカイ・フィリード】の名と九八〇〇万ギルもの賞金は、それゆえだな」
「……! そうだったんですか」
「まあね」
ニキータの百五十年近い武功とカイの王城侵入は、ほぼ同等の罪だったのか。そんなはずはないのに――。
「っていうかぶっちゃけ、アスールは一目で俺が化身族だって気付いていたよね?」
「犬ではない、とは思っていたがな。化身族だということに気付いたのはだいぶあとだ。ま、カーシェルの目はごまかせなかっただろうがな」
「そんなの分かってるよ。最初からカーシェルは俺を化身族として扱ってたもんね」
随分と抜け目ないヒトなのだろう。夢で見た、あの緑の髪の男の子――あれがカーシェル。自分の異母兄。言われてみれば、幼かったのに随分と威厳や貫禄があった気がする。王太子だというなら納得だ。
そこでふと疑問に思う。――ならばなぜ、リーゼロッテの姫である自分はフローレンツにいたのか。首脳会議に出席するためだというのは、アスールから聞いている。だがそれなら、王都ペルシエにいないとおかしいではないか。オスヴィンは、王都から遠く離れた北の果てだ。
「あの、私はどうしてオスヴィンにいたんでしょう? ……どうして記憶がなくなってしまったんだろう」
その言葉に、アスールとカイが微妙な顔をする。アスールが軽く腕を組んだ。
「……ここしばらくリーゼロッテの動向は不可解だった」
「不可解?」
「悪く言うようですまない。神国国王――イリーネの父君は、ここ数年めっきり政務を行わなくなっている。敬虔な女神教信徒である陛下は、使命を放棄し教会に籠りきりだ。そのことを嘆くカーシェルからの便りを、私は以前受け取った」
国王が政治をしない。それはリーゼロッテという国にどのような影響を及ぼすのだろう。
「次に王太子カーシェル。彼は父王に代わり、神国をまとめあげていた。実質の統治者だ。陛下がそのような状況でいながら神国が国として成り立っていたのは、すべてカーシェルの働きなのだよ」
「優秀なヒトなんですね」
「ああ、傑物だ。……だが、このカーシェルとも数か月前から連絡が取れない。姿を見せたのも、もうずいぶん前だ」
カイはちらりと窓の外に視線を送る。若干雲が出てきて、空は薄暗い。雨が降りそうだ。
「そもそものきっかけは、王妃陛下の死ではないかと私は思っていてな。王妃陛下はリーゼロッテでも名門の家系の出身。その後ろ盾に、王妃陛下ご自身やカーシェル、イリーネは守られていた。しかし王妃陛下が亡くなって、国王陛下は哀しみ塞ぎ込まれてしまわれた。そして、かねてから宮廷で地位を高めようと目論んでいた第二妃と第二王子メイナードは、行動を起こした」
嫌な予感が、イリーネの脳裏をかすめた。もしかして、カーシェルはもうこの世にいない――? 第二妃とメイナードによって、もう排除されてしまったのではないか。そういう嫌な予感だった。
「それはない。大丈夫だよ」
断言したのはカイだ。
「カーシェルはそう簡単に死なないよ」
「……って、なんか根拠薄くないですか?」
イリーネが拍子抜けしてしまうほどあっさりした理由だ。カイは小さく笑う。
「化身族の勘を甘く見ちゃいけません」
「お前は勘を信じるタイプではなかろう」
アスールにばっさり切り捨てられ、さすがにカイも押し黙る。それから頭を掻き、やっと説明した。
「カーシェルはある化身族と契約していたんだ。そいつは忠義深いことで有名だった。で、俺はその化身族が未契約に戻ったって話も死んだって話も聞いたことがない。ついでに、メイナードは化身族を駒のように使い捨てて殺すような男だ。そんな奴が、邪魔なお兄さんの化身族を放っておくとは思えない」
「つまり、そいつはまだカーシェルとの契約下にあって抵抗を続けているか――カーシェルともども、どこかで拘束されている可能性が高いってことね」
チェリンの推測通りの可能性は高かった。とはいえ安否が知れない以上、イリーネたちは生存を信じるしかないのだ。顔も性格も声も分からない、でもカイとアスールが絶対的に信じる相手、カーシェル。彼に会わなければいけない。それはイリーネの胸中に自然と芽生えた感情だ。
「カーシェルの所在を確かめに行きたいところだが、何の策もなくリーゼロッテ国内に入るのは危険だとファルシェに諭された。昨日のこともメイナードの差し金かもしれぬ。……そういうわけで、リーゼロッテ国内を探るのはファルシェに任せ、我々はサレイユへ行こうということになったのだ」
成程、それでそこへつながるのか。唐突に登場した「ギヘナ大草原通過」の言葉に抱いていた疑問が、ようやく氷解する。
「サレイユでなら、私も多少の融通が利く。リーゼロッテも手を出しにくかろう。サレイユ王家の庇護も受けられる。今はともかく、安全な拠点を見つけるべきだ」
「……事情は分かりました。サレイユへ行きましょう」
でも、とイリーネは付け加える。
「カーシェル……様の所在が分かったら、すぐ会いに行きたいです」
「――ああ。勿論、勿論だとも」
本当は、今すぐにでも行きたい。アスールの声からはそんな思いが滲み出ていた。重い空気を払拭するように明るい声を出したのはチェリンだ。
「にしても、本当にイリーネがお姫様だったとわね。さすがに驚いたわ」
「そう、みたいですね。私もいまいちピンと来ないです」
リーゼロッテの姫、教会の神姫、ふたりの兄の権力闘争――どれも他人事のようにしか聞こえない。いつか思い出して、それと向き合う日が来るのだろうか。
「あたしには権力なんて縁のない話だし、王族のごたごたなんて分かるはずもないけど……あんたが色々難しい立場にいるってことは分かった。これからもついて行かせてもらうからね、イリーネ。だからあんまり抱え込むんじゃないわよ」
ぶっきらぼうな、でも優しいチェリンの言葉。イリーネは微笑んで頷いた。
記憶の中の幼い自分に、カーシェルとその母がいてくれたように。いまの自分にはチェリンもアスールも、カイもいる。現状をどうにかしようと、ファルシェやクレイザも手を貸してくれている。何を恐れる必要があるだろう。
その時、何の前触れもなく部屋の扉が開いた。驚いてイリーネは扉を振り返ったが、それより早く動いた者がいる。扉の傍にいたカイが、少し開きかけた扉をすかさず閉めたのだ。しかし外から開けにかかっている相手も動じず、カイと扉を挟んで力比べをしている。
「おいおいカイ坊、あやうく俺の鼻が潰れるところだったじゃねぇか」
「ノックもせずに入ってくるんだから、文句言えないはずだけど?」
カイを坊や扱いするのはニキータしかいない。カイが諦めて扉を開けてやると、悠々とニキータが室内に入ってくる。そのあとに顔を出したのはクレイザである。
「よう、話はまとまったかい。そういうわけで俺らも同行させてもらうぜ」
その言からは、ばっちりふたりが先程までの話を立ち聞きしていたということがうかがえる。悪びれた様子のないのはさすがというべきなのか。
「迷惑はかけないようにしますから、どうぞよろしくお願いしますね」
「い、いえ! こちらこそ」
イリーネが首を振ると、クレイザは微笑んだ。どうしてそんな優しい笑みを向けるのか――そう思っていると、ややあってクレイザは口を開いた。
「――二十年前、貴方はまだ生まれてすらいなかったんです。ヘルカイヤのことを背負う必要はありません。僕は誰も恨んでいませんし、貴方には以前から良くしていただいていた。感謝こそすれ、僕が貴方を憎むことは決してありませんよ」
「クレイザさん……」
ぽつりと名を呼ぶと、その雰囲気をぶち壊すようにニキータが声を上げた。
「こいつ頭は良いが、運動音痴で体力もなくてな。面倒かけるが、まあ大目に見てやってくれや。生まれながらの虚弱体質なんだよ」
「ニキータに比べれば誰だって虚弱だと思うけどなぁ」
ぼやいたクレイザの声に、暗く落ち込みかけていた雰囲気が再び明るいものとなった。やれやれと息を吐いたカイがニキータを振り返る。
「で、ギヘナにはどう行くの?」
「なあに、半日もあれば着けるぜ」
「俺は徒歩の場合の話をしてんの、あんたみたいな翼は持っていないんですけどね」
「わーってるよ。この王都からギヘナは真西だ。途中に山を三つ越える必要がある。ま、十五日くらいは考えておいた方がいいだろうな」
山を三つも越えるのか。山岳国家イーヴァンだから仕方がないとはいえ、やっと平地に来たというのに少々切ない。しかもアスールが追い打ちをかけるようなことを言うではないか。
「イーヴァンとギヘナの境にある山は曲者だぞ。『霊峰ヴェルン』と呼ばれる魔の山だ」
「魔の山? あんた本気で言ってるの?」
チェリンが胡散臭そうにアスールを見る。アスールは肩をすくめた。
「そうは言っても、そう呼ばれているのだからな。何やら妙な力に満ちていてこちらを惑わせるという噂だ。古代には女神教の教徒が修行のため山籠もりする場所でもあったらしい。だが今ではそんな風習はないし、麓の住民も決して足を踏み入れないそうだ」
「俺はいつも上空を通過するだけだから、どこがどう妙かはさっぱりだね」
「なにちょっと自慢げなわけ?」
なぜか胸を張ったニキータにすかさずカイがツッコミを入れる。分かっているのか分かっていないのか、クレイザは相変わらず朗らかだ。
「霊峰ヴェルンはまだずっと先の話じゃないですか。とりあえずその手前にある、テルメニー山とガテル山を越えることを考えましょうよ」
「……正論だな」
アスールが苦笑する。テルメニー山は、このオスト盆地を形成する西の山脈。ガテル山はさらにその西にある山だ。イーヴァン西部は山が多く開発が遅れているため、人里も少ないそうだ。また当分の野宿を覚悟しなければいけない。
「よっしゃ。そうと決まったらちゃちゃっと準備済ませようぜ。お嬢ちゃんの体調が良くなり次第出発だ」
ニキータはやる気満々だ。出鼻をくじいてしまって申し訳なくて、イリーネはベッドの上で縮こまる。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「イリーネは気にしなくていいのよ。体調第一なんだから、しっかり休みなさい」
「チェリン……はい」
「ほら男ども、さっさと部屋を出る! いつまで女子の部屋にいるつもり!? そんで物資調達、行ってこーい!」
チェリンの一喝で、慌てて男性陣は部屋を飛び出していった。朝から騒々しいことだ。ニキータとクレイザが旅に加わっても、チェリンが主導権を握るのは間違いなさそうだった。




