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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
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◇霊峰ヴェルン(1)

 薄く目を開くと、目に入ったのは天井だ。昨日は夜で、しかも半分朦朧としていたから気付かなかったが、白くて綺麗な天井だった。起き上がってふと横を見ると、隣のベッドでカイが寝ていた。イリーネに背中を向けて、壁の方を向いている。


 と、その瞬間にくるんとカイが寝返りを打ってこちらを向いた。驚いて声をあげかけてしまい、慌てて抑える。


「おはよ」

「お、おはようございます……」


 声も掠れていないし、紫の優しい目に眠気はない。ベッドに横になっていただけのようだ。


「寝てないんですか?」

「ちょっと、色々考えてたもんで――」


 カイの言葉が中途半端なところで途切れた。おやと思って首をかしげると、カイはイリーネをじっと見つめたままのそのそとベッドを下りた。そのままイリーネの前に回り込み、ずいっと顔を近づけてきた。少し動けばお互いの鼻がぶつかってしまいそうなほどの近距離に、思わずイリーネは頬を紅潮させた。顔を背けようと思ったのだが、寸前でがっちりカイの両手がイリーネの頬を抑えつけた。


「カ、カイ……!?」


 カイはさらに顔を近づけてきて――コツン、とふたりの額がぶつかった。


「……え?」

「やっぱり、ちょっと熱っぽい?」

「え、熱……?」


 唖然としている間に、カイはイリーネの額から自分の額を離して立ち上がった。


「最近の疲れが出たのかな。薬とか水とかもらってくるよ」

「だ、大丈夫です! そんなに気分悪くないですし、微熱程度ですよ」


 大事にしたくなくて咄嗟にまくしたてる。何しろ本当に自分が熱っぽい気はしないし、頭痛は少しするがそれは魔力がまだ足りていないせいだろう。とにかく、イリーネはそれなりに元気なのだ。

 けれどもカイは首を振る。


「いい機会だから、しっかり休んで万全の体調にしておいて。俺たちのほうもまだ、今後のこととか決めきれていないしね」

「今後のこと?」

「そ。ちょっとごたついててね。とにかく、すぐ戻るから待ってて」


 カイはそう言い残して部屋を出て、本当にほんの数分で戻ってきた。桶いっぱいの水とタオル、そして薬だ。

 本当に大したことないのにと言いながらも、あれよあれよという間に起きたばかりのベッドに横になって、おでこに濡れたタオルをあてがわれた。見事な病人スタイルだ。


「この薬、食後服用とか言われたんだよなぁ。イリーネ、食欲は?」

「えっと、普通に……」

「よし。なんかもらってくる」


 いやに張り切っている――としか言いようのないカイは、軽い足取りでまた部屋を出て行った。もはや抵抗を諦めたイリーネは、大人しく布団を被ってじっとしていることにする。イリーネを心配してカイが世話を焼いてくれているのは、イリーネにもよく分かっていたからだ。

 が、数分して部屋の扉を開けたのはカイではなかった。


「やあ、イリーネ姫。具合はいかがかな?」

「あ、アスール」


 片手に食事を乗せた盆を持ったアスールが、爽やかな笑みと共に登場したのだ。


「食堂でカイから話を聞いてな。食事を運ぶ役目をあいつから奪ってきたわけだ」


 ちなみにカイは食事中、と付け加えながらアスールは盆を持ったままベッド脇の椅子に腰を下ろす。お盆の上に乗っていたのは麦粥だった。イーヴァンらしく豆も一緒に煮込まれている。食欲に何の問題もないイリーネは、それを見ただけで急激に空腹を感じてしまう。


「食べられそうか? 城の料理人が粥を作ってくれたのだ」

「平気です。カイが言うほど、熱もそんなにないから……」


 自分で身体を起こしたイリーネに、アスールは微笑んだ。


「悪化させないように今日一日くらいは安静にしていると良い。……火傷しないようにな」


 盆を膝の上に置いて、匙で器から粥を掬う。少々行儀は悪かったが、テーブルへ移動するにもアスールが許してくれそうにないので仕方ない。できたての粥は確かに火傷しそうなほど熱かったが、粥にしては味も上品で美味しい。さすが、一国の城の料理人は違う。


 三分の一くらいまで粥を減らしたところで、イリーネは顔をあげてアスールを見る。アスールはカイが先程持ってきた薬の服用方法をしげしげと眺めていた。カイに薬を飲ませるよう、念を押されていたのかもしれない。


「アスール」

「なんだ?」

「どうしてあんなに、カイは嬉しそうに私の看病してくれようとしていたんでしょうね」


 思ったことをそのまま口に出すと、アスールは吹き出すように笑った。


「ふふ、さてな……昔イリーネ姫が熱を出して寝込んだとき、あいつは丸まって姫の暖房具代わりにしかならなかった。いまはそれ以外にできることがあると、意気込んでいるのではないかな」


 はっきりとしたその答えに、驚いてアスールを見つめる。アスールもまた、笑みを浮かべたままこちらを見ていた。

 ――そうか。この話をするために、アスールはカイから食事の配達を奪ったのだ。でなければ、カイが大人しくひとりで食事なんて摂るはずが――。


「アスールと私は、幼馴染……なんですよね?」

「……ああ」

「小さいころから、ずっと一緒……?」


 その問いに、アスールは肯定とも否定とも取れぬ複雑な表情をした。


「ずっと、ではないな――私は十歳のころ、一年間だけリーゼロッテに留学していた。その時住まわせてもらっていたのが君の屋敷だった。君に出逢ったのは、その時だ」


 では、夢に見たあの時――あれが、アスールと過ごした一年の中のいつかなのだ。幼いころの一年は、濃密だ。毎日一緒にいれば、打ち解けるのに時間はかからないだろう。


「けれど、サレイユとリーゼロッテは遠い。帰国後は、月に一度程度の手紙のやりとりをするだけだった。国際的な会合の場で会うことはあったが……ここ数年は、実際に会う機会すらなかったな」

「……」

「だから……首脳会議で、数年ぶりにやっと会えると思っていたのだがな。まさかこんなことになるとは……」


 それはやはり、神姫としてイリーネは首脳会議に参加するはずだったということだろう。なのにイリーネは記憶を失って、なぜかフローレンツの王都ペルシエから遠く離れたオスヴィンにいた。再会したカイのことも、アスールのことも忘れて――。


「ということはつまり、ペルシエで会ったのも……偶然じゃなかったってことですね?」

「いや、偶然は偶然だ。会議の合間に君のことを探していて、ばったり街中で出くわした。君は……私のことを覚えていないようだったから、あの時は何も言わなかったんだ。今にしてみれば、カイが共にいると分かっていれば、こんな回りくどいことはしなかったものをな」


 まったくあいつは間が悪い、と毒を吐くアスールから目を逸らしたイリーネは、しゅんとして肩を落とした。


「――ごめんなさい」

「……? どうしたのだ、急に?」

「カイもアスールも……ずっとずっと、私のこと守ってくれていたのに。何も気づかなくて……アスールが幼馴染だって知っても、やっぱり何も思い出せない……! ふたりに、申し訳なくて……っ」


 不意に零れ落ちそうになった涙を、寸前アスールが指で弾き飛ばした。顔を上げると、アスールがゆっくり首を振る。


「すまない、君を追い詰めるようなことを言ったな。……泣かないでくれ」

「アスール……」

「君が謝ることなんてひとつもないのだ。君が覚えていなくても、君は私の大切な幼馴染だ。本当に……君とペルシエで再会できた時の安堵の気持ちは、言葉にはできないよ」


 アスールのその笑みが、懐かしい――。

 やっぱり、アスールとは会ったことがあるのだ。自分はその笑顔を覚えている。


「――やっと会えたな、イリーネ。しばらく見ないうちに、随分と綺麗になった」


 泣かないでと言われたのに、優しい言葉になぜだか涙が止まらない。アスールは困ったように微笑む。


「泣き顔を見るのは得意ではないのだ……それに、そろそろ」


 アスールが言いかけた時、後ろで部屋の扉が開け放たれた。驚いて振り返ると、そこに悶々とした表情のカイが立っているではないか。


「ちょっと……何泣かせているわけ?」

「ほうら、言わんこっちゃない」


 お手上げとばかりにアスールは両手を挙げた。イリーネは慌てて涙を拭って、カイに首を振って見せる。


「ち、違うんです! アスールは何も悪くないの……!」

「いや、イリーネを泣かせるのはみんな俺の敵だから」

「カイ……!」

「冗談だよ、そんな不安そうな顔しないでってば」


 カイは苦笑して室内に入った。するとそのあとからチェリンが顔を出す。彼女はイリーネと目が合うと、笑ってひらひらと手を振ってきた。


「おはよ、イリーネ。体調どう?」

「平気です。あの、心配かけちゃってごめんなさい」

「気にするんじゃないわよ。しっかり寝てなさい」


 イリーネは頷き、残っていた粥を綺麗に平らげた。それからカイに粉末状の薬を渡され、苦さに顔をしかめつつも水で飲み下す。そこで落ち着いたところで、カイが口を開いた。


「あのね、先に言っておきたいことがあるんだけど」

「はい?」

「これから俺たちの旅に、クレイザとニキータが加わるって言ったら嫌?」


 唐突なその質問に、イリーネはぽかんとした。今や旅の吟遊詩人クレイザと、【黒翼王ニキータ】が旅に加わる。嫌なわけがない。


「むしろ嬉しいです!」

「……君ならそう言うと思ってた。そういうことだから観念しなね、アスール」


 視線を向けられたアスールは軽く肩をすくめた。


「観念も何も、こういうことに私情は持ち込まぬ。これから先のことを考えれば、協力者として彼らは何者にも代えがたい存在だろう」


 これから先――何やら不吉なその言葉に、イリーネは表情を引き締める。もしかしなくとも、昨日の襲撃騒ぎはただのテロなどではなかったのだろう。カイやアスールは、それを見越して対策を練ってくれている。従うのが一番だ。


「それでね。次どこに行こうかって話になったんだけど……イリーネ、ギヘナ大草原って覚えてる?」

「大陸の中央部にある、どこの国家にも属さない草原地帯ですよね。野生の獣や、強い化身族がいっぱいいる……」

「そう。で、あのおっさんがそこを突っ切ってサレイユに行こうとか言い出した」


『あのおっさん』とは、間違いなくニキータだろう。大草原を突っ切ってサレイユへ――確かにイーヴァンからサレイユへは、その道をたどるのが最短距離だろう。北回りで行けばフローレンツを通過しなければならず、南回りで行けばリーゼロッテと砂漠のケクラコクマ王国を通過しなければならない。反面、大草原を真っ直ぐ突っ切ればすぐサレイユだ。


 黙っているイリーネを見かねて、カイが頭を掻いた。


「あー……怖かったら別の道を取るけど」

「え? 私、怖くないです」

「前にも言ったけど、相当危険だよ。いつ襲われるか分からないし、俺もアスールも地理なんてさっぱり。街もない。本当に平気?」

「カイもアスールもチェリンも、これからはクレイザさんとニキータさんもいるんでしょう? だから大丈夫です」


 カイもアスールも知らない土地に行く。不安がないわけではないが、みんなが一緒にいてくれるのに何を怖がるのだろう。みんな――それが最善と思える道を取っているのだ。

 ここまで来て、どうして南のリーゼロッテには行かず、あえて危険を冒して大草原を突っ切ろうという考えに至ったのか。カイは悟らせないようにしてくれているが、生憎ばればれだ。理由は、いまのリーゼロッテが危険だからに他ならない。


 それが分かる程度には、イリーネも世界情勢というやつを理解してきた。だから――そろそろ、逃げることをやめなければ。自分のことをカイとアスールに任せきりなのは、もう嫌だ。

 記憶がなくても別に良いと思うのはいまも変わらない。けれどそれでは駄目なのだ。ちゃんと、自分に向き合わないと。


「カイ。神姫っていうのは、私のことなんですか?」


 唐突なその言葉に、カイは嫌な予感がしたのかもしれない。苦い顔になって、それでも頷く。


「……ここ数年は。そもそも、神姫って数年で交代するからね」

「リーゼロッテの神姫である私が、リーゼロッテには帰れない。それは、何かが起きているから?」

「イリーネ、その話は」


 遮りかけたカイを、イリーネはさらに遮った。今聞かなければ、どこで聞けばいい。旅の仲間がみんな揃っているこの状況で、聞きたい。アスールとカイが知っていて、頑なに隠そうとしていることを。


「お願いします、カイ、アスール。私、自分のことを知りたいです。もう……何も知らないままで待っているの、辛いから」


 最初は、自分が混血種(まざりもの)であるということ。カイは知っていて黙っていた。次に神姫であること。カイやアスールと幼いころから知り合いだったこと。

 あとで知って後悔するのは辛いし、ふとした瞬間に思い出してしまうのも嫌だ。誰よりも信頼している、カイとアスールの口から全部聞いておきたい。そうすれば――いざという時、心の構えができるから。


 渋るカイをよそに、先に折れたのはアスールだった。


「これから先はいつ何が起きてもおかしくない。そんな状況なのに、仲間内で情報の共有ができていないのは致命的だ。……私から話そう。この犬っころより、私のほうが最近までイリーネたち(・・)と親交があったからな」


 イリーネは生唾を呑み込み、神妙に頷いた。

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