◇黒翼王と吟遊詩人(12)
――夢を見た。
夢を見ながら、それが夢だと分かったのはイリーネには稀なことだった。いわゆる明晰夢というやつだ。視線を真下に下ろして、自分の服装を見てみる。裾の長い、青のドレス――見覚えがある。イリーネの記憶の最初にある、オスヴィンで目覚めたときに着ていた服だ。そのあとで、ヘベティカのヘラーに譲り渡したドレス。踝まで広がった裾のせいで、随分歩きにくかったのを覚えている。
立っているのは芝生の上。視線を上げて、イリーネは目を見張った。少し離れた場所にある大きな木に、ひとりの小さな女の子がよじ登っているのだ。五歳か、六歳か。とにかく、まだ年端もいかない少女だった。赤の混じった明るい茶髪をひとつに結って、白いワンピースであることなど気にもせず、するすると木に登っていくのは見事なものだった。
その木の下には、少女の様子をはらはらしながら見上げている少年がいた。空のような透き通る青い髪は、イリーネもよく知っている。アスールに似ている――。
後ろ姿しか見えなかった少年が少し動いたことで、その横顔がイリーネの目に入った。その顔を見て、イリーネは思わず声をあげかけた。似ているのではない、幼くはあるが彼はアスールに違いなかった。綺麗な青の目も、整った目鼻立ちも――こちらは十歳くらいだろうか? 現在からは考え付かないような不安そうな顔ではあるが、間違いない。
少年アスールの視線を追って、イリーネは再び目を木の上へ向ける。少女の更に頭上にある枝に、一枚の白いハンカチが引っかかっていたのだ。少女はそれを取ろうと木に登ったのだろう。
『イリーネ!』
「……え?」
アスールの声変わり前の高い声。彼が呼んだのは、明らかにイリーネの名だった。けれどもアスールが呼びかけているのは木登りをしている少女。イリーネの声は聞こえないどころか、姿さえ認知できていないらしい。
呼びかけられて、少女が木の上で振り返る。枝で擦ったのか、頬に一筋血が滲んでいた。それでもにっこり微笑むその姿――。
「あれが……昔の私……?」
ならばこれは、自分の記憶なのか。けれども、何もピンと来ない。他人事のように、この情景を眺めているだけだ。
『イリーネ、危ないから下りて……! ハンカチはあとで取ってもらえばいいから!』
『だーめ! アスールのおかあさまのハンカチでしょ? 私がとってあげる!』
『だからって、なんでイリーネが木に登るの……!? ああもう、誰か通らないかなあ』
お転婆なイリーネと自信なさげなアスール。見事に現在の性格と真逆だ。……いや、記憶を失う直前まではイリーネもお転婆娘だったのかもしれない。長時間歩いても足は痛くならなくなってきたし、高いところから飛び降りるのも崖をよじ登るのも、そんなに苦ではなかった。この幼少期が原因だとしたら、納得がいくというものだ。
それにしても、このアスールの豹変ぶりはなんだろう。自信に満ち満ちたアスールが、幼いころはこんなにも心細そうな顔をしている。少々、微笑ましい。
そんなことを考えている間に、幼いイリーネは枝に引っかかったハンカチのもとへ到着していた。太い枝に掴まったまま小さな手を伸ばし、二度ほど空ぶった末にハンカチをしっかり掴んだ。いっそう不安げな地上のアスールに向けて、イリーネは大きくハンカチを持つ手を振った。
『取れた!』
『あ……ありがとう。とにかく、気を付けて下りてね……!』
『わかった!』
本当に分かったのだろうかと思うほど明るく頷いて、少女イリーネは降下を始めた。高さはゆうに三メートル近くある。普通の女の子なら怖がる高さだ。それでもイリーネは、登った時と同じように軽々と下りていく。
その時、強い風が吹いた。あっと思った瞬間、少女の軽い身体はよろめいた。木の幹にかけていた足が外れる。
『きゃあっ!?』
『イリーネっ!』
真っ逆さまに地上へ落下する少女の下へ、アスールが駆けだす。イリーネも夢だということを忘れ、慌てて走り出した。
予想したのは、少女が地面に叩きつけられる様――しかし、現実は違った。
横合いから、ふわりと何かが跳躍したのだ。日にあたると銀にも見える毛を持つ大きな獣だ。軽々と自分の背中で少女を受け止め、静かに地面に着地する。ふわふわな毛に埋もれかけていたイリーネは身体を起こし、獣に頬をすり寄せた。
『ありがと、ミルク!』
獣もまた、少女に頬をすり寄せる。見ていたアスールが大きな安堵のため息とともに、腰が抜けたように地面にしゃがみこむ。獣の背中から下りたイリーネは、とことことアスールの前に駆け寄ってハンカチを差し出した。アスールが苦笑いしながらも礼を言ってハンカチを受け取っている姿を見ながら――イリーネは信じられない思いで呆然としていた。
ミルク? 何を馬鹿なことを。どう見ても、そこにいるのは豹のカイではないか。いつだって傍にいてくれる、やる気なさげなカイだ。ある程度成長してからはぴたりと見た目の成長が止まる化身族だから、このときのカイもイリーネが知るカイのそのものだった。
カイはイリーネが登っていた木の下の木陰に座り、そのまま伏せてしまう。そうやっていると確かに犬に見えなくはないのだが――多少無理があるだろう。けれども幼いイリーネもアスールも、何も気にしていないようだ。
カイがフィリードを出たのは、三十年前――イリーネの年齢から逆算すれば、十五年近く前にイリーネはカイと出会っていたことになる。それだけではない、アスールともだ。サレイユの王子であるアスールと、カイと、なぜイリーネは親しかったのだろう。
『――イリーネ、アスール!』
すると、向こうから別の少年が駆けてきた。誰だろう? アスールより年上に見えるが、少し背が高いからそう見えるだけで実は同い年くらいか。深い緑の落ち着いた色の髪も、同じ色の瞳も見たことがない。健康的に日に焼けた肌に、少年の身には少々大きい剣を佩いている。現在のアスールを、そのまま少年にしたような出で立ちだ。
少年は慌てたように走ってきた。おそらく、少女が落下したのをどこかで見ていたのだろう。
『大丈夫か!? 落ちたのが見えたから、驚いたんだぞ』
『平気! ミルクが受け止めてくれたから!』
少年は木陰で休むカイに視線を送り、笑った。
『いつも昼の間は頑として動かないくせにな。ありがとう、ミルク』
カイは目を閉じたまま動かない。今も昔も、愛想がないのは同じのようだ。
『あまり無茶をするなよ。寿命が縮む』
『はあい』
『イリーネを叱らないでやってあげて。僕が止められなかったから……』
しょんぼりと俯くアスールの頭を、少年はぽんと叩いた。そしてにっと笑う。
『今度、俺と木登りの練習だな』
『えっ!?』
『ふふ、冗談だよ。ふたりとも怪我がなくて良かった』
少年はイリーネの小さな手を握った。
『さ、ずっと外にいて疲れたんじゃないか? 母上が美味い菓子を下さったんだ、食べに行こう』
『うん!』
『ミルク、お前も来い。新鮮な果物もあるんだよ』
それを聞いたカイがのっそり立ち上がり、ぽてぽてと少年たちの後をついて行った。先程の身軽さはなんだったのだと思うほどだったが、その尻尾がゆらゆら揺れているのは、カイが喜んでいる証拠だ。
少年たちとカイの姿が、遠く霞む――。
★☆
「あ、起きた?」
すぐ傍で声がかけられて、イリーネはぱっと目を開けた。首を動かすと、ベッドの隣に置いた椅子にカイが腰かけてこちらを見ていた。束の間イリーネを見つめたカイは、ほっとしたように息を吐いた。
「顔色も良くなったし、もう大丈夫そうだね」
「ここは……?」
「王城の中のお部屋。王さまが貸してくれたんだよ」
なんでまたそんなところに寝かされているのだろうと疑問に思ったが、思い返してみればカイの無事な姿を見て気が抜けたのだった。その前から頭が軽くて、ふらふらしていた覚えがある。
「治癒術の使い過ぎだよ。それでなくとも治癒術は魔力消費が激しいんだから、ほどほどにね」
言いながらカイは傍の水差しからコップに水を注ぎ、イリーネに差し出した。起き上がったときにまた若干貧血のようにめまいがしたが、すぐに治まる。受け取って水を飲んでいると、再びカイは椅子に座った。
「魔力は休んでいれば自然と元に戻るから……今日はもう少し寝ていなよ」
「はい……あの」
「なに?」
カイが首を傾げて、イリーネの次の言葉を待っている。切りだしたはいいがなんと説明していいのか分からないイリーネはしばし口ごもり、それからありのままを最初から説明することにした。
「夢を見たんです。どこかの広いお庭で、木に登っている小さい女の子と、下で見ている男の子がいて……」
そこまで話したときはうんうんと聞いているだけのカイだったが、白いハンカチのくだりが出たところで顔色を変え、落下した少女を白い獣が受け止めたところで明らかな動揺を見せた。それで確信する。ああ――やはりあれは。
「あれは、私の記憶……?」
沈黙していたカイは腕を組み、ぽつりと呟いた。
「……あー……そんなこともあったねえ」
「やっぱり、そうなんですね」
「思い出したの、イリーネ?」
問いかけられて、首を振る。その部分を夢で見ただけで、それが自分の記憶だとはまるで思えないのだ。他人事のように、そんな記録があったことを夢で見た。だから他のことは分からない。
「私……そんな昔から、カイともアスールとも知り合いだったんですね」
「俺は十五年前に、一年だけ君の傍にいた。君とアスールは……幼馴染だよ」
「幼馴染……」
何も、ピンと来ない。それがふたりに申し訳なくて、泣きたくなる。
頑なにこれまで何も説明しなかったカイが、ぽつりぽつりと過去を語ってくれる。それが嬉しいのだか悲しいのだか、自分でも分からないのだ。
「君は本当にお転婆で……木を見れば登りたがったし、家の塀を越えて脱走なんて日常茶飯事だった。追いかけるのに苦労したよ。隠れている君を見つけると追いかけっこが始まって、それでいてあっさり捕まえると拗ねちゃうから……」
「も、もういいです! なんか、恥ずかしい」
あの夢の通りならばそうなのだろうが――自分がそんなお転婆だったなど、あまり信じたくない事実だ。妙に子煩悩だったカイもおかしい。
「でも、ならどうして犬の振りを……?」
「最初は正体打ち明けようと思っていたんだけど、君が俺を白い犬だって断言したから……俺は無断で君の家に忍び込んだ――というより、迷い込んじゃってね。さっさと逃げるつもりだったんだけど、犬として置いてくれるならタダで食事と寝床にありつけるし、いいかなあって」
「い、いいかなあって……」
「アスールにはばれちゃってたみたいだけどね。なよなよしていたくせに、妙に勘が鋭くて。それでも、君が勘違いしたままだったから言い出せなかったんだろう。やっぱり気弱だったんだよ」
散々にこきおろすカイに、イリーネは堪え切れずに笑ってしまう。どこでどうしたら、あの変態紳士が出来上がったのだろう。まったく予想がつかない。
「……カイ、もうひとつ聞いていいですか?」
「ん?」
引っかかっているのは、ファルシェとアーヴィンが漏らした、あの言葉。
「神姫って、なんなんですか?」
「……!」
カイがぎくりと硬直する。ちらりとイリーネを見やる。
「その言葉、どこで?」
「ファルシェ様とアーヴィンが、さっき外で」
「……余計なことを……」
悪態をつくカイを、イリーネは黙って見つめている。そのうちカイも腹を決めたのか、ひとつ息を吐き出して口を開いた。
「……女神教教会の階級のことだよ。教皇とか司祭とか、そういう役職名と一緒」
女神エラディーナを祀る、世界共通の宗教。女神教の本部はリーゼロッテ神国の神都、カティアにあるという。そもそもリーゼロッテ神国とは、女神教教会が国政に強い権限を持つ宗教国家だ。国民の殆どが女神教の信徒で、国の重鎮や貴族になるには聖職者であることが第一という現状である。
そういうわけで、女神教教会のトップである教皇は国王に次ぐ権威を持つ。国王は教皇の助言を受けながら政を行う。その体制が、この数百年ずっと続いてきたのだ。
「神姫は女神エラディーナそのヒトとして教会の象徴となり、崇拝される。教皇のように国政に口を出す権限はないけれど、国民にとって……いや、世界中のヒトにとって神姫は教皇より有難い存在だ」
それが、自分なのか。
問いかければよかったのだが、どういうわけかイリーネは質問を発することができなかった。ただ沈黙して、カイの言葉の意味をもう一度理解しようと試みる。
神国の女神教教会本部。それは二十年前、ヘルカイヤ公国の化身族迫害を弾圧するというでっちあげた名目のもと、公国を攻め滅ぼした元凶。
家族も国も失って、それでも優しいクレイザとニキータ。悔しさをにじませるアーヴィン。彼らの顔が、脳裏をよぎった。
そうか――きっとアスールも、こんな気持ちなんだ。申し訳なくて、手放しに彼らと仲良くすることなどできなくて。後ろめたい気持ちは、とてつもなく重い。
するとカイが軽くイリーネの頭を撫でた。顔を上げると、カイは微笑む。
「……君が思い悩むことはないよ。君が悪いことなんて、何一つない」
「で、でも」
「俺は、君が昔の俺やアスールのことを少しでも思い出してくれたのが本当に嬉しいんだ」
頭に乗っているカイの手を、イリーネは両手で握った。そのまま目の前まで下ろしてくると、手を握られたカイは瞬きを繰り返す。
「もしかして、オスヴィンで出会った時から分かってました?」
「……うん、まあ。九割がた」
「イリーネって名前も、元々私の名前だったんですよね」
「うん」
「それじゃあ……私との約束、って?」
カイが旅の途中、何度も言っていた『約束』。約束があるから死ねない、約束だから一緒にいる。過去に自分は、カイと何を約束したのだろう。
尋ねると、カイはきまり悪そうに目を逸らした。そのまま一言。
「旅」
「え?」
「一緒に世界中旅してみたいねって。大人になったら連れて行ってねって、そう言ったんだよ。窮屈な生活が嫌だから、って」
ああ、だから――だからカイは、当てもなく色んな国や街をめぐっているのだ。十五年も前の、イリーネの願いをかなえるために。
「……誤解のないように言っておくけど!」
珍しく強い語調で、カイは言った。
「きっかけは君のお願いを聞いたからだけど、俺は好んでここにいるから。『わざわざ私のために』とか思わないように」
「……は、はい!」
なんでもお見通しなのか。イリーネはくすりと笑う。カイは肩を竦め、イリーネの手から空のコップを取り上げた。
「もう休みなよ。良い子は寝る時間」
カイはイリーネの言葉を待たず、イリーネをベッドに横たわらせる。多分、照れているのだろう――案外、表情が出やすいヒトだ。
大人しくベッドに横になると、急に眠気が襲ってきた。おそらくずっと眠気や疲れはあったのだろうが、カイと話していて気にならなかったのだ。目を閉じて黙っていれば、すぐにでも眠れそうである。
「……カイ」
「今度はなんだい」
「夢に、もうひとりいたの……緑の髪の男の子。あれは、だれ……?」
ぼんやりと、カイの声が遠くなる。
「カーシェル。……アスールが言った、『何があってもイリーネの味方でいてくれる』四人目……君のお兄さんだよ」




