◇黒翼王と吟遊詩人(10)
どのようにして、怪我人に気付かれず治癒術を使うか。イリーネは色々と考えていたのだが、結果的にそれは杞憂に終わった。周辺にいる重傷者の大半は気絶しているか、そうでなければ痛みで悶絶していたので、誰もイリーネに注目しなかったのだ。
大丈夫ですよと声をかけながら、ものの数秒で大きな傷を消す。怪我人にとっては何が起こっているかなど重要ではなく、ただ痛みが和らいだことに感謝するだけだ。そうして休みなく治療にあたったおかげで、それ以上の死者は出ずに済んだのだ。
しかしながら、同じく手当てにあたっていたファルシェとクレイザ、アーヴィンには丸見えだ。特にアーヴィンはイリーネが混血種であることを知らない。それでもアーヴィンがイリーネに声をかけることはなかった。ただ黙々と、やるべきことをしていただけだ。
大方の治療も落ち着いたところで、イリーネは疲れ果てて道端に座り込んだ。少し頭が軽い気がする。全力疾走をしたあとのようで、酸欠に似た気分だ。そこにファルシェが歩み寄ってくる。
「イリーネ。助かった、ありがとう」
「あ、いえ。たいしたこともできずに……」
「謙遜するな、貴方のおかげで何人の命が繋がれたか。本当に感謝する」
ファルシェが深々とイリーネに頭を下げた。王さまに頭を下げられるなんて経験は勿論初めてだったので慌てたのだが、「少し休憩していてくれ」と微笑んで告げて、ファルシェは踵を返してしまった。少し離れた場所にいるクレイザに、ファルシェは呼びかける。
「クレイザ! 被害状況の確認をしたい、手伝ってくれ」
「人使いの荒い王様だね」
困ったように微笑みながら、クレイザはしっかり手伝うようだ。死傷者、倒壊した家屋など、具体的な数字があがればおのずと被害の大きさも見えてくる。負傷者はイリーネの目に見えているだけではないのだ。
もうここから自分にできることはなさそうだ。言われた通り道端に座って休憩していると、隣にアーヴィンがやってきた。そのまますとんと腰を下ろし、ふたり肩を並べて座る格好になる。
座ったきりアーヴィンが何も言わないので、いささか沈黙を持て余したイリーネが話題を振った。
「アーヴィン、応急手当が手馴れていましたね」
「うん。ハンターになった時、エルケから一通り教わったんだ。応急手当で助かる命は多いから」
答えたアーヴィンは、両膝を抱え込んで身を縮めた。
「……イリーネ、さん」
「はい」
「さっきのあれ……治癒術、なんだよね? イリーネさんはもしかして、その……」
ああ、やっぱり聞かれるか。そう内心で思いつつ、イリーネは微笑んだ。
「化身族の血を引いているようです」
「そうか、やっぱり……」
「――ごめんなさい。気を悪くしましたか?」
問いかけると、アーヴィンは驚いたように顔を上げた。それから激しく首を振って否定する。
「そんなわけない! ……違う……そうじゃなくて」
アーヴィンは無造作に左手を持ち上げた。何をするのだろうと見守っていると、アーヴィンのすぐ横手にあった大きな瓦礫が、ふわりと持ち上がったではないか。浮いている――驚いて目を見張ったイリーネの顔のすぐ横を、僅かに風が通り抜けていく。それで気付いた、別にこれは手品でも超能力でもない。れっきとした、魔術なのだと。
「風の魔術……それじゃ、アーヴィンも」
「うん、そう。僕も混血種なんだ。母方の祖先がひとり、化身族との間に子を遺していたそうでね。僕の一族は、時々その証として魔術を使えるものが生まれている」
左手を下ろすと同時に、瓦礫も地面に落下する。その重苦しい音から、瓦礫がかなりの重量であることが分かる。とても片手では持ち上げられないだろう。
「クレイザ様や、【氷撃】なんかから聞いていると思うけど。ヘルカイヤ公国は、親化身族を掲げてリーゼロッテから独立した国なんだ。その気風は今も続いていて、ヘルカイヤでは人間族と化身族が結ばれることも、そう珍しくはない……混血種もごく普通に生活して、白い目を向けられることもない」
「そんな場所が……あるんですね。私、前にすごく怖がられたことがあって……それ以来、混血だってことを隠すことばかり考えていたのに」
「それは僕もそうだよ。僕はエルケから魔術の制御を教わっていたし、攻撃系魔術だから僕が使わない限りはばれることはないんだけど……」
アーヴィンは拳を握ったり開いたりを繰り返す。こんな風に、アーヴィンと落ち着いて長々話すのは初めてのことだ。
「僕も国を離れて長いから……いつの間にか、混血であることは隠さなければならないことだと思い込んでいた。ヘルカイヤにいたときは何も考えないで生きて行けたのに、今は人前に出るのが怖い。混血の仲間が、街で酷い目に遭っているのを……何度も見たから。ああはなりたくないって、逃げたんだ。誰にも混血だってことは言わなかった」
「それでも、私には打ち明けてくれるんですね」
「……怪我人の治療をしているイリーネさんを見て、すごいと思ったんだ。ヒトを助けるために魔術を使えるのは……強いと思う」
――そんな大層なことじゃ、ない。だって、治療を施しながらイリーネは「見られていないから大丈夫」と思っていたのだ。そんな後ろめたい気持ちを抱えながらだったというのに、それを「強い」と言われるなんて。
「それに、思い出したんだ。別に混血の事実は隠すものじゃない。僕の祖先が、僕まで繋いでくれた立派な血なんだ。それを恥じる必要なんて、どこにもない。そう思ったから、イリーネさんには話したくなったんだ」
どこか嬉しそうに微笑むアーヴィンの顔を見て、イリーネも自然と笑みが浮かんだ。
「ありがとう」
「ど、どうしてイリーネさんが……礼を言いたいのは、僕のほうだ」
「私、同じ混血のヒトに会ったのが初めてだから……嬉しいんです。打ち明けてくれてありがとう」
照れ笑いを浮かべるアーヴィンは、そこから色々とイリーネに話してくれた。ヘルカイヤという国はどんなところだったのか。今の生活はどうだったのか。エルケと旅に出てからどうしたのか――。さながら自慢話をする弟を見ているようで、イリーネは時折質問を混ぜながら話を聞いている。和んでいる場合ではないのは分かるのだが、一気に気が抜けてしまったのだ。
「……それじゃあ、エルケはアーヴィンのお兄様みたいな存在なんですね」
「どちらかといえば、父親かな。僕は自分の父親をあんまりよく覚えていないから……昔はエルケによく叱られたものだけど、いつも僕の一番の味方でいてくれた」
「素敵ですね。……ふたりでずっと、ヘルカイヤ復興のために戦って?」
「そう言う僕に、エルケが黙ってついてきてくれているんだ」
アーヴィンは視線を地面に落とす。
「本当は分かっている。僕とエルケがどれだけ強くなったところで、ヘルカイヤ復興なんて夢のまた夢。ニキータと何万もの公国軍がいて、それでも勝てなかった神国に……勝てるわけがないって。クレイザ様がどんな気持ちで国を離れているのかも、いまなら理解できる。……けど、何もしないなんてできない。僕はまだガキだから……やっぱり神国は憎いし、その手助けをしたサレイユも嫌いだ。クレイザ様みたいな大人には、なれない」
「あの、アスールのことは……」
「知ってる。サレイユの放浪王子だろう? 温泉街で会ったとき、どこかで見た顔だと思ったよ」
溜息をついたアーヴィンは、不安げなイリーネを見て首を振った。
「心配しなくても、あの王子に殴りかかったりしない。……多少複雑な気分だけど」
二十年前、アスールとて年端もいかぬ子供だった。成長するにつれ、自国と同盟国リーゼロッテが、ヘルカイヤという国を攻め滅ぼしたということを知り――アスールは、苦しんだはずだ。だからこそ、何の責任もないはずのアスールが負い目を感じている。同じく、子供の身で重責を背負わされたクレイザに対して――贖罪をしたいと、思っているのではないか。サレイユ王国の王子としては不可能でも、アスールという個人として。
なんでもなかったように――表面上だけかもしれないが――しているクレイザこそがおかしいのだ。普通の者ならばアーヴィンのように、神国を憎みサレイユを恨む。それでもその気持ちを自制しているアーヴィンは、十分立派だ。
「……クレイザさんのようになる必要は、ないのではないでしょうか」
「え?」
イリーネの言葉に、驚いたようにアーヴィンが顔をあげる。
「ヒトの身に二十年の年月は長いものだと思います。それだけの時間があれば、戦時中の苦しさや大変さを多少なり忘れることもあるでしょう。……でも、それは忘れてはいけない痛み。だからこそアーヴィンのように、いつまでも忘れることなく風化させないヒトが必要だと思います」
「イリーネさん……」
「――なんて、軽々しく私が言えたことではないですね。私は……クレイザさんやアーヴィン、アスールが抱える苦しみを、分かったふりをすることくらいしか……」
「そんなことない。……そんなこと、ないよ」
――ファルシェとクレイザが、遠くで何か話している。城の兵の応援は、まだ時間がかかるようだ。王城はだいぶ遠くにあるようだし、あちらもあちらでごたごたしているのだろう。仕方ないのかもしれない。
代わりに到着し始めたのは街医者やそれに準じる者たちだ。本格的な治療を受けられれば、人々も助かるだろう。それはほっとできた。
「……どうして、イリーネさんが」
隣でぽつりと、嗚咽のような声が聞こえた。驚いてアーヴィンを見ると、少年は悔しそうに歯を食いしばっているではないか。
「アーヴィン……?」
「……知りたくなかったよ。聞かないふりをした。でも、それでも……やっぱり、そうなのか?」
「あの、何の話ですか?」
アーヴィンは初めてイリーネに向き合う。その眼は真っ直ぐイリーネを射抜き――強い眼光の中に僅かな迷いや戸惑いを浮かべていた。目を逸らすことが、イリーネにはできない。
「イリーネさん……貴方は、本当にシンキなのか?」
――また、その言葉。
「知り、ません……私、そんな言葉……初めて聞きました」
「え……でも」
「教えて、アーヴィン。シンキって、一体なんのことなんです?」
形勢が逆転した。イリーネの強い語調に、アーヴィンが逃れられない形になる。アーヴィンはやがて答えた。
「シンキは……神姫だ」
「神姫……それは、どういう……」
イリーネの声はそこで途切れた。ファルシェとクレイザが、急ぎ足で戻ってきたのだ。ファルシェはやや焦った様子で、声を荒げた。
「――いくらなんでも、兵が来るのが遅すぎではないか! 何をしているのだ、うちの奴らは!」
「確かに、時間がかかっているね……何かあったのかな?」
もう、爆発から何分経ったのだろう――相変わらずこの場には、負傷した住民たちと医者と、イリーネらしかいない。いかにファルシェが「他の場所に行け」と指示を出しても、兵士たちがそのままにしておくはずがないのに。
その時、かっと背後が明るくなった。驚いて立ち上がり、振り返る。
街の北側にそびえる王城が――何か、光輝いて見えるのだ。ファルシェが目を見開いた。
「王城……ッ!? 敵襲か!?」
「いや、違う。あれはニキータの魔術だよ」
冷静なクレイザの声だったが、ファルシェは髪の毛を掻き回す。
「ニキータの魔術だろうがなんだろうが、王城で何かあったのは間違いないだろう」
「そりゃ、そうだね。行く?」
「勿論。みんな、ここは任せていいか?」
ファルシェが呼びかけた先に、街医者たちがいた。治療にあたっている彼らはその声に振り返り、笑顔で頷いた。ファルシェも頷き、イリーネとアーヴィンを見る。
「そういうわけだ、お前たちも共に行こう」
「はい」
「分かりました。……エルケ!」
アーヴィンが呼びかけると、上空を旋回していたエルケが王城へ向けて進路を定めた。それを確認してから、ファルシェを先頭にクレイザ、イリーネ、アーヴィンが夜の街を駆け出していく。
あの光は、どこかにいるカイやアスールたちも見たはずだ。きっとみんな王城へ向かっている。みんなが揃っていて、敵などいない――イリーネはそう確信した。




