◇黒翼王と吟遊詩人(8)
チェリンに守られて地面に伏せていたイリーネの鼻に、強い土煙と焼け焦げた匂いが届いた。はっと顔を上げて絶句する――そこは、先程まで屋台で賑わっていた大通りとは別の場所であるかのようだった。
燃え上がる屋台、倒れた人々。綺麗に整備されていた煉瓦道は崩され、土がむき出しになっている状態だ。
何かが、爆発したのだ。そして炎上し、周囲にいたヒトや物が吹き飛んでいた。
傍にいたカイたちはみな無事だ。だが、爆発地点に近かった――国王ファルシェたちは、どうなった?
「こ、国王陛下ッ!」
声がして身体を起こす。視線の先に、倒れている金髪の青年がいた。イリーネは見たことがないが、大勢のヒトが駆け寄ってきていることから、彼がファルシェだと気付く。
爆発の直前、ファルシェは並外れた敏捷性で咄嗟に避け、さらにヒューティアが身を挺して守ってくれていた。自力で起き上がったところを見ると、命に別条はなさそうだ。だがかなり流血しているし、身につけていた着衣は血や土や煤でぼろぼろだ。とても一国の王の姿ではない。化身族のヒューティアに大した怪我がなくとも、生身の人間の身体にあの衝撃はさすがに堪えていた。
「……大丈夫だ」
「すぐに治療を!」
「そんなことはあとだ。早く城に戻って応援を呼び、負傷者の救助にあたれ。それと、どこかに仲間がいる可能性がある。しらみつぶしに探し出せ。祭りは中止だ」
ファルシェは怪我をした腕を抑えながら、護衛についていた臣下たちに指示を出す。だが、負傷した王をひとりにできるわけがない。当然、護衛たちは反論した。
「し、しかし……!」
「二度言わせるな」
その一喝を受けて、護衛たちも引き下がった。王の傍にいる女性――【光虎ヒューティア】にファルシェのことは任せ、慌ただしく彼らは動きはじめた。
「みんな、生きてる?」
カイの問いかけにみな頷いた。カイが「伏せろ」と叫び、条件反射的にその言葉に従ったおかげで、掠り傷程度で済んだのだ。
ひとしきり互いの無事を確かめたところで、クレイザが身を翻して駆けだした。向かった先は、ヒューティアに支えられて大通りの脇へ移動したファルシェのもとだ。
「ファルシェ!」
「ああ、クレイザ……なんだ、アスールまでいたのか。相変わらず神出鬼没だな」
額から流れ落ちる血を無造作に拭って、ファルシェは呟いた。怪我の見た目に比べて、ファルシェはそこまで弱っていないようだ。声には張りがある。
「みっともないところを見せたな。怪我はないか?」
「私たちは大丈夫だが、これは一体……?」
アスールの問いかけに、ファルシェはどっかりと道端に腰を下ろした。すぐにヒューティアが、ガーゼを当てて血を拭っていく。
「いわゆる、自爆テロというやつだな」
自爆と聞いて、イリーネは恐る恐る振り返る。すぐ後ろは、爆発が起きた中心地点。あの不審な男が身体に爆発物を仕込んでファルシェに近づき、その身もろともファルシェを殺そうと――。
男の姿は跡形もなく消え去っている。その意味に気付いたとき、火の匂いに混じって腐臭が漂っている気がして、イリーネは軽く吐き気を覚えた。
「どれだけの名君だろうが、万人に好かれるというのは不可能。分かってはいたし、俺は名君などではないと知ってはいたが、こう……実際に狙われると、割とショックだなぁ」
「何を呑気に……」
「はは。人のことは言えないんじゃないか、アスールは」
反撃を受けてアスールも沈黙する。
「……が、俺を狙った計画に、罪のない民衆を巻き込んだことは許さない」
ファルシェが低く呟いたとき、上空で何かがはためく音が聞こえた。驚いて顔を上げると、既に薄闇に包まれつつある上空から、黒い物体がふたつ近づいてくる。巨大な、鳥が二羽――。
そのうちの一羽は、見覚えのある鷹のエルケだ。もう片方は漆黒の羽を持つ鳥、鴉。ニキータだ。
ニキータは急いたように空中で化身を解き、生身のまま身軽に着地した。そしてこちらに駆けつける。エルケは上空を旋回して警戒中だ。
「おい、大丈夫か!?」
何があった、ではなく、大丈夫か、と問いかけてきたということは、ニキータも事情は察しているということだ。クレイザが立ち上がり、ニキータを振り返る。
「ニキータ。空から何か見えた?」
「ああ、祭り会場のあちこちで怪しい動きしている奴らがいたぜ。二、三人はエルケと共に摘んできたが、まだいるかもしれん」
「放っておくと、王都中が火の海になるかもしれないな」
アスールの言葉にファルシェは頷いた。そして彼は、その場にいる全員に視線を送る。
「こんなことを他国の者に頼むのは気が引けるが、手を貸してくれないか。城から応援の兵が来るまで、少し時間がかかる。いまはその時間が惜しい。完全に俺の失態だが、油断して護衛も警備も最低限だったもので手が足りないんだ」
それに真っ先に頷いたのはニキータだ。むしろ彼は嬉々としている。血の気が多いのだろうか。
「よし、クレイザはここに残ってろ。アーヴィン、エルケ、ここを頼むぞ」
言いつけるなり、ニキータはすぐさま化身して飛び立った。巨大な鴉の姿は一度の羽ばたきごとにぐんぐん遠くなり、あっという間に消えてしまう。
ずっと黙っていたカイがここで口を開いた。
「やるなら急いだ方がいいよ。いくらニキータでも、あいつは鳥だ。夜になる前に片付けないと、ニキータの目が使い物にならなくなる」
「仕方ないわねぇ、行くわよ変態紳士!」
チェリンが声をかけると、アスールはにっこりと微笑んだ。どんな時でも剣を手放さないアスールは、勿論このときも帯剣していた。
「頼りにしているよ、チェリン姫」
化身して黒兎姿のチェリンを見たのは久々だ。そんなことを思っている間に、チェリンとアスールもまた大通りの向こうへ駆けだしていった。
イリーネの隣に立つカイは、頑として動かない。イリーネを守ろうとしていてくれるのは十分わかる。けれども、今はイリーネよりも助けを求める人がいるはずだ。
「……カイも、行ってください」
そう声をかけると、カイは「やっぱり」というように眉をしかめた。
「けどね、俺は……」
「私は大丈夫です。クレイザさんも、アーヴィンもいますし」
「へっ!?」
名前を出されたアーヴィンがぎょっとしたように声をあげる。カイはそんな少年を凝視した。負けじと見返すアーヴィンだったが、感情の捉えにくいカイの眼差しを受け止めるのは相当苦痛らしい。ちらちらと目線をそらしかけて踏みとどまったアーヴィンに、カイはやがて頷いた。
「イリーネを任せたからね、アーヴィン」
「あ、ああ、任せておけ!」
じゃ、とカイは片手をあげて駆け出して行った。それを見送っていたファルシェが、自分を支えているヒューティアの手をそっと握った。
「ヒュー。お前も行け」
「でも」
「俺は大丈夫だ。だから頼む」
離れがたいようだが、ファルシェに笑みを向けられてヒューティアも心を決めたらしい。その姿は、まるで戦地に赴く恋人を見送るかのよう――実際に見送っているのは、ファルシェのほうであったが。
虎に姿を変えたヒューティアは、カイが今しがた駆けて行ったのと同じほうへと走り去った。これで残ったのは、負傷して動けないファルシェと、彼を守るクレイザ、イリーネ、アーヴィン、エルケのみだ。
ファルシェが街路樹に縋って立ち上がろうとして、がくんと膝を折った。慌ててクレイザが支えて、元の場所に座らせる。
「くそっ、ざまぁない。足をやられている……」
「無理しないで、座ってて。もうすぐ城のヒトも来るだろうから」
見れば、右の太腿部分のズボンの布が真っ赤にそまっていた。飛び散った何かの破片に貫かれたのだろう。どことなく顔色も悪いし、血が流れ過ぎたのかもしれない。
止血に使えるような綺麗な布は、いまどこにもない。水も容易に手に入らない。放っておけば、ファルシェの命が危ない。
治癒術を使えば簡単だ。だが、ここにはファルシェだけでなく、クレイザやアーヴィンもいる。カイとアスールが彼らにどこまで話したかは知らないが、クレイザたちはどのような反応をするだろう。
束の間そんな葛藤をしていたイリーネは、視線を感じて顔を上げた。真正面に座るファルシェが、まじまじとイリーネを凝視していたのだ。何の遠慮もないその視線に、イリーネが苦笑を浮かべる。
「あの、私の顔に何か……?」
「――シンキ、か?」
「え?」
聞いたことのない単語に、イリーネはきょとんとした。だがファルシェもまた、戸惑ったように首を傾げた。
「まさか……そんな恰好をしているから、一瞬分からなかったぞ」
「な、なんの話……?」
まったく思い当る節がなくて困っていると、クレイザが肩をすくめた。
「ファルシェ、誰かと勘違いしていない? 彼女はイリーネさんだよ」
「……ん?」
クレイザを見たファルシェは少し沈黙し、それからイリーネに視線を戻す。それから、照れたように笑った。そうしていると、精悍な中に少し幼さが見える気がする。
「――ああ、本当だ。すまない、どうもさっきから調子がおかしいな。……改めて、俺はファルシェだ。よろしくな」
「は、はい! イリーネといいます」
自然と差し出されたファルシェの手を取り、こんな場合だというのに握手を交わす。するとファルシェはぐいっと身を乗り出し、そっとイリーネに囁いた。
「大丈夫。俺は味方だ」
「……!」
驚いて手を放すと、変わらずファルシェは微笑んでいる。そして事もなげにこう頼むではないか。
「悪いんだが、足の傷だけ治してもらってもいいか? 動けないと辛いんだ」
――どうして、知っているのだろう。この切れ者の王は、クレイザがはぐらかしたことに気付いたうえで、それに乗っかったのだ。驚いたが、不思議と怪しむ気持ちはなかった。分からないことは多いが、確かなのはファルシェが混血種を嫌わず、イリーネの治癒術を必要としているということだけだ。イリーネには、それで十分だ。
ちらりと後ろを振り返ると、アーヴィンは周囲の怪我人の応急手当てをしていた。見かけによらず器用なアーヴィンは、手当にも慣れているようだ。
今のうちだと思い、イリーネはファルシェの脚の傷に手を当てた。触れただけで術が発動しないことにほっとしつつ、小さく“血を洗う聖なる泉”の文言を唱える。瞬時に傷が塞がり、ファルシェは足を動かす。痛みはないようだ。
「ありがとう」
「他の傷は……」
「足だけで十分だ。すべての傷が消えたとなれば、他の者が訝しむからな」
けろっとした状態で立ち上がったファルシェに、イリーネは問いかけたいことがたくさんあった。ファルシェは自分のことを知っているのか。シンキとはなんなのか。けれども、それを知ってか知らずか、クレイザが遮るように問いかけた。
「にしても、往来のど真ん中で自爆テロとは……相当恨みを買っていたのかな?」
「さて。残念ながら俺には心当たりがないな」
だが、とファルシェは続ける。
「随分昔の話だが、イーヴァンは戦士の国として名高い時代があった。この厳しい山岳の国で最も強い男が王になるという風習だ。ここ何代かは、ラスタル家が王の座を世襲してはいたが……過去の風習や思想はそう簡単に消えはしない。堂々と俺に真正面から突っ込んできたのは、イーヴァンの民の気質みたいなものだ」
「気持ちの良いヒトたちだけど、荒っぽいヒトも多いしね、イーヴァンは」
「まあ、奴らの狙いは奴らに聞くしかない。本気でヒューを獲りに来たのか、俺みたいな若造に上に立たれるのが嫌だったのか、あるいは俺が施行した何らかの政策に不満があったのか。推測できるのはそのくらいだろうな」
淡々としたその口調には、後ろめたそうな響きは何一つない。当然だ、ファルシェには誰かに恥じることはしていないという自負がある。先程本人が言っていた通り、万人に好かれるというのは不可能だろう。全員が幸せになることができないなら、少しでも多くのヒトが幸せになれる道をとる。そうやってファルシェはその時々で最善の策をとってきたのだ。誰に恥じることがあるだろう。
「姑息な手を使わず、狙うなら堂々と俺の首を獲りに来いと公言していたのは俺だ。その通りにした奴らの心意気は買って、話は聞いてやる。だが、いささかやりすぎたということも教えてやらないとな」
ファルシェの顔に浮かんだ薄く不敵な笑みに、思わずイリーネの背筋にぞくりと悪寒が奔る。ああ、これが王者なのかと、妙に納得した気分だ。
ぱっとその表情を捨てたファルシェは、イリーネとクレイザを見つめた。
「じゃ、とりあえず応援が来るまで俺たちも負傷者の救助にあたろう。小さいハンター殿がさっきからひとりで黙々と働いてくれている」
振り返ったところにいるアーヴィンは、倒れている負傷者を道の端に移動させ、持ち合わせていた薬で治療を施している。かと思えばぱっと着ていた上着を脱いで、傍でうずくまっている少女が冷えないようにかけてやる。かなり真面目な働きぶりだ。
命にかかわりそうな傷を負っている者には、惜しまず治癒術を施そう。イリーネはそう心に決め、アーヴィンの傍へ駆け寄っていった。




