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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
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◇黒翼王と吟遊詩人(5)

 翌日もチェリンとアスールは手続きがあるというので、イリーネはカイとふたりで過ごすことになった。カイは連続で仕事に行くのが嫌そうなので、今日は宿で留守番だ。といっても特にすることもなく、イリーネは部屋で古語の勉強に時間を費やすことにした。勿論カイも一緒だ。


 イリーネとチェリンが使っている宿の部屋の隣が、カイとアスールの部屋だ。女子部屋は割と荷物が広げられているのだが、驚いたことに男子部屋はほぼ私物がない状態だった。カイとアスール、ふたりがそれぞれ持っていた荷物がベッド脇に置いてあるだけで、生活感がまるでないのだ。それを見てイリーネは、部屋に戻ったら少し片付けようと心に決めた。


 全開の窓から涼しい風が入ってくる。風が吹くだけで体感温度はぐっと下がるものだ。快適な室内でイリーネは黙々と、カイが以前書いてくれた古語早見表を書写している。表意文字でもあり表音文字である古語の習得は生半可ではない。ひとつの文字について書き方、読み、発音、意味の四つを一度に覚えなければいけないのだ。唯一の救いは、文法が現代語と共通だったということか。

 カイはイリーネの向かい側に座って魔術書を読みながら時折口を挟んでいたが、やがて魔術書を閉じて本格的に勉強に付き合ってくれるようになった。イリーネが書いた文字をひとつひとつ音読してくれて、イリーネはカイのあとに続いて発音を学ぶ。カイが適当にあげた文字の意味を暗唱する。文字単体が大体理解できれば次に単語、さらに文章とレベルを上げていく。


 そうして昼になるころには、短い文章ならばなんとか読めるくらいにまでイリーネは古語を習得することができた。古語を何度も何度も書いた紙がテーブルの上いっぱいに散乱しているのは、その努力の証だ。


「イリーネは物覚えが良いね。短時間でたいしたものだよ」


 紙を掻き集めながらカイが褒めてくれる。思えば、いつもは空いた時間に少しチェリンやカイと勉強するだけで、このように数時間集中したことはなかった。やはり勉強は、まとまった時間に落ちついてやるのがいいものなのだ。

 大量の紙束をテーブルの端に置いたカイは、おもむろに掌を開いた。何をするのかと思って見ていると、突如として掌の上の空気が氷結した。イリーネが驚いている間に、片手で掴めるほどの石ころのような氷の塊になってしまう。何の前兆もなく、カイが魔術を使ったのだ。

 魔術は人知を超えた力のようでいて、実は色々と制約も多い。カイは何もないところで氷を創りだしたように見えるが、彼は空気中に含まれている水分を集め、固体化させたにすぎない。基本的にカイの“氷結(フリージング)”は、水気のあるところでないと十分に発揮されないのだ。たとえば、海や川の傍。たとえば、イーヴァンのような多湿の国。火属性の魔術は酸素が十分にある場所、闇属性は日のあたらない場所。魔術を使う時は、常に場所や条件を確認しなければいけないのだ。


 イリーネの使う神属性の治癒術は、「元来人体が持つ治癒能力を助け、早める」術だ。イリーネ個人の魔力や精神力も重要だが、必要なのは『治癒される側の生命力』。致命傷を負ってしまえば、治癒術でも治すことができない。

 これまでは触れた途端条件反射で治癒術が発動していたが、これからはその力を制御しなければならない。術の発動にイリーネが手間取れば、それだけ怪我人が助からない確率も上昇する。そうならないために、完璧に術を習得しなければならないのだ。


「早く、カイみたいにうまくなりたいです」

「なれるなれる。大丈夫だよ」


 カイは事もなげにそう励ましてくる。――ところで、その氷の塊をどうするつもりなのか。戯れで創ったのかと思いかけて、そんな無駄な労力をカイがするわけがないと思い直す。


「あの、カイ、それ……」


 イリーネの言葉の途中で、カイは行動に出た。掌に乗せていた氷を、思い切り握り締めたのである。至る所が尖っている氷は、鋭利な刃物と同じものだ。あっという間にカイの掌が避け、血があふれてくる。


「何を……!」

「ちょっと待った、ストップ」


 慌てて掌に触れようとしたイリーネを留め、カイは血まみれの手を引っ込める。


「俺は実験体。君がきちんと『魔術』として治癒することができるか、試さないと」

「せめて前置きくらいしてください!」

「前置きなんてしたら、やめろって言うと思って」


 床に垂れそうになった血は、さすがにカイが拭き取る。痛覚がないのかと思うほど、カイはけろっとしている表情だ。


「エラディーナの物語は覚えてるね」

「……はい」


 イリーネも覚悟を決めた。カイが目の前に跪く。魔術書になぞらえれば、そこにいるのは大騎将ヘイズリーだ。戦地から国の危機を知らせるため、重傷で戻ってきた忠臣。もう一度ヘイズリーが戦場に立つために、その傷を癒したのがエラディーナだ。


 カイの手を取り、傷口に視線を落とす。ぱっくりと深い裂傷だ。血はカイが拭き取っていたが、それでもまだ血は滲み出ている。


「触れてみて」


 促されるまま、傷口に指先で触れる。傷は――治らない。治癒の光も現れない。


「……!」


 触れただけで術が発動していたのが嘘のようだ。カイはさらに続ける。


「祈りの文言は『メ=ディーレ』だ。唱えて」


 たった三つの音に込められた祈り。今ならわかる、その言葉の意味が。


 意味と発音がひとつになって、ようやく祈りは具現する。




『“血を洗う聖なる泉(メ=ディーレ)”』




 見慣れた光が、溢れた。


 急なことで驚いたイリーネは、そっと閉じていた目を開ける。カイの掌にあった傷は――跡形もなく消えていた。


「できた……?」


 いまいち実感の湧かないイリーネの呟きに、カイが立ち上がりながら頷いた。


「お見事です。もう大丈夫だね」


 つまり、もう勝手に治癒術が発動することはない。使おうと思ったときにだけ、使うことができる。人前でびくびくすることも、ない。


「カイ! ありがとうございますっ」


 嬉しさのあまりカイに抱き着くと、カイは慌てたようにイリーネの肩を叩いた。


「俺は何もしてないから……だから、ほら、うん。何も抱き着かなくても……」

「あ、ごめんなさい。つい」


 カイから離れると、彼は困ったように髪の毛を掻き回した。


「まあ、治癒術はこれで使えるようになったけど、神属性の魔術はまだたくさんあるし。ちょっとずつ習得していこうね」

「頑張ります!」

「その調子。……とりあえず、お昼ご飯でも考えようか。休憩なしだったから疲れたでしょ?」


 どこか食べに行こうかとカイが頭を捻っていたのだが、イリーネは軽く手を振った。


「あの、お昼なら」

「ん?」

「朝、チェリンが下ごしらえして行ってくれたんです。温めて食べてねって」

「用意周到だね。さすがお母さん」


 面と向かってチェリンに言ったら怒られそうなことをカイは言う。とりあえずふたりで女子部屋のほうに行き、用意してあったスープの鍋とサンドウィッチの入ったバスケットを持って戻る。イリーネが鍋を火にかけて温め直しはじめ、カイはテーブルを拭く。自然とそのような分担になり、イリーネは上機嫌でスープをかき混ぜる。

 カイはそんなイリーネの後姿を見て、感慨深げに腕を組む。


「……にしても、すっかりイリーネも台所に立つ姿が様になってきたよね」

「ふふ、毎日チェリンのお手伝いしていますから」

「携帯食料生活が遠い昔のようだよ」


 少し前はカイが食事の面倒も見てくれたが、チェリンが加わってからすっかり台所は彼女の持ち場となった。野宿であっても携帯食料に手間を加えてくれて、毎日美味しい食事にありつけているのだ。


 カイは椅子に座り、窓の外を眺めていた。吹き込む風は、やはり涼しい。それにどこか静かだ。

 けれども、イリーネがスープをよそおうと皿に手を伸ばした瞬間――大きな音と共に、静寂が破られた。


「!?」


 驚いて振り返ると、カイが勢いよく窓を閉めていた。カイも咄嗟だったのか、困ったように振り返る。


「ごめん、大きな音たてて」

「い、いえ……何か虫でも飛んでたんですか?」

「うん、嫌な虫が」


 カイは言いながら窓から離れた。違和感を覚えながらも、改めてイリーネはスープ皿を手に取った。


 窓が開く。――カイは、イリーネのすぐ傍にいるのに。勝手に窓が開いた。


「おいおい、人の目の前で窓閉めるなよ、カイ坊」


 もう一度振り返る。窓を外から開けて、窓枠に座って室内を見ている者――ニキータだった。

 ここは宿の二階。窓の外に足場などないのに。


「えッ、な、なんで……!?」

「だから言ったでしょ、嫌な虫が飛んでたって」


 カイは心底嫌そうな顔をしている。察するに、こちらへ向かって飛んでくる鴉の姿のニキータを見つけ、入ってこないように窓を閉めたのだろう。まあ、ニキータにとってはなんの障害でもなかったらしい。


「おっ、なんだ昼飯か? 俺にも何か食べさせてくれないか、お嬢ちゃん」

「は、はい」

「イリーネ、具なしでいいよ、具なしで」


 カイにそう言われても、さすがに汁だけというのはいかがなものだろう。三人分のスープをよそっていると、ベッドのほうに移動させていた魔術書と紙の束を見たニキータが笑った気配がする。


「なんだ、ずっと部屋にこもって勉強でもしていたのか? 若いモンが、天気も良いんだから外に出ろや」

「余計なお世話」


 ニキータを一瞥して吐き捨てながら、イリーネが差し出した皿をカイが受け取っていく。その様子を見てイリーネは思う。カイがこうしてつっけんどんな口を利くのはアスールだけかと思っていたが、ニキータに対しても同じだ。つまりカイにとってニキータは、アスールと同じくらい信を置けるヒト。


 意外にもニキータは礼儀正しく手を合わせてから、食事に手を付け始めた。大柄なニキータの前だと、スープの深皿も茶碗のように見えるからおかしなものだ。


「ニキータさんとクレイザさんは、ずっとオストにいたんですか?」


 おもむろに問いかけると、ニキータは首を振った。


「いんや、オストについたのはお前らより二、三日前だ。金がなかったもんだから、一昨日まで広場のベンチで野宿だったんだがな」

「……結構壮絶ですね」

「そりゃ、クレイザが持ってくるおひねりだけじゃあな。食事するだけで精一杯だったぜ」


 彼らにとっては、ベッドでさえも贅沢品なのか。最初のうちお金に困っていたカイとイリーネだって、さすがにそこまでではなかったのだが。


「ここに来るまでは、フローレンツのほうにいたんだよ。首脳会議にお呼ばれしてな。だからまあ、お前らとほぼ同じ道をたどってきたわけだ」

「え? どうしてクレイザさんが……?」


 戦争に負け、国を奪われたクレイザはもはや統治者ではない。ぺろっとスープを完食したニキータは、バスケットに盛られたサンドウィッチを手に取り、割と大きいそれをたった二口で口に放り込んでしまう。


「ちと、そこらは複雑でな。確かにリーゼロッテは、ヘルカイヤでの反乱を恐れてクレイザを追放した。だが、追放されたクレイザがどこで何をしているか分からないのは、ものすごく不安なわけさ」

「もしかしたら、隠れて反乱の準備を進めているかもしれないしね」


 カイの補足に、ニキータが頷く。


「そういうわけで、リーゼロッテは定期的にクレイザの所在を確かめるんだ。首脳会議に呼ばれたのはその一環だよ。会議の場にはさすがに出なかったが、顔見せにな」

「大変……なんですね」

「なぁに。この道を選んでいるのはクレイザ本人だ。どこかに定住すれば金も監視(・・)も楽になろうものを、自ら進んで吟遊詩人を名乗っている。あいつはやりたいようにやっているだけなのさ。……だから、お嬢ちゃんが気に病むことじゃねぇ」


 明るい口調でニキータはそう言った。イリーネが曖昧に頷くと、カイがスプーンを空の皿の中に置いた。


「ほら、食べ終わったならさっさと片付けて。準備何も手伝わなかったんだから」

「あれまあ。お客様待遇かと思ってたのに」

「歓迎した覚えは一切ないんだけどね」

「はいはいはい、相変わらず可愛くねぇな」


 ニキータが立ち上がって食器を流しまで持って行こうとしたので、イリーネが慌てて立ち上がる。カイはどう言おうと、ニキータは客なのだ。


「ニキータさん、片付けは私が……」

「いいって、座ってろ。急に押しかけちまったんだから、これくらいするさ」


 イリーネを座らせ、ニキータは食器や鍋を洗いはじめた。随分手馴れているのは、自炊生活が長いからか。そのうち水の音に混じって鼻歌まで聞こえてきたから、意外なものだ。


 少々落ち着かないながらも席についているイリーネの真正面で、カイは食卓に頬杖をついている。視線はまた、窓の外だ。


「……ヘルカイヤ公国って、元々はリーゼロッテ神国の領土だったんだ」

「え?」


 唐突に始まったカイの説明に、イリーネが驚いて振り返る。


「当時の神国で化身族は酷い迫害を受けていた。それをよしとせず、親化身族派のヒトたちが神国から独立を宣言した。それが百五十年前の話で、主導者がハーヴェル公爵、つまりクレイザの遠い祖先。ニキータはその頃から、ハーヴェル公爵家のために戦っていたらしい。……そんなことがあったから、ヘルカイヤの人間と化身族は仲良しで、神国は共通の敵って認識なんだ」

「共通の、敵……」

「それともうひとつ。リーゼロッテ神国とサレイユ王国は、古くからの同盟国でね。二十年前のヘルカイヤ攻略に、サレイユも兵を出していたんだ」


 イリーネははっと顔をあげる。


「サレイユって、アスールの……」

「うん。アスールとクレイザが……いや、アスールがクレイザに対して一線を引いているのは、その負い目だと思うよ。なんかぎくしゃくしてるでしょ、あのふたり」


 それは確かに思っていた。一昨日夕食を共にしたときも、知り合いという割には会話もなく、どこか余所余所しい。普段の社交的なアスールとは大違いだ。


「けど、クレイザはそんな態度をおくびにも出さないし、恨み言のひとつも言わない。神国への降伏の条件を呑んだことで、自国のヒトにも散々詰られたはずなのに……」

「降伏を受け入れたのは……それ以上、国のヒトが傷つかないため?」


 思いついたことをそのまま口に出すと、カイは頷いた。戦いを続ければ、大量の死者と負傷者を出す。遺族も生み出す。それを避けるために、クレイザは降伏という道を選んだのか。


「俺にはできない判断だ。俺はきっと、力尽きるまで戦おうとする。……すごいよね、あんたのご主人は」


 最後の言葉は、洗い物を終えて食器を拭いているニキータに向けられていた。ニキータは笑って肩をすくめる。


「買い被りだ、そんな大層なことじゃない。……って、あいつは言うと思うぜ」

「ふうん?」

「……まあ、あれだな。この百五十年、何人ものハーヴェル公爵を見てきたが……クレイザが一番の傑物だってのは、間違いねぇな」


 そう呟くニキータの声も表情も、どこか誇らしげだ。そうでなければ、契約もせず百五十年も忠義を尽くすことなどできないだろう。

 いつも優しくて、どこか抜けているようなクレイザだが、勿論彼はそれだけではない。カイが感心し、アスールが礼儀を尽くすだけのヒトなのだ。常に人々のことを考えて行動し、時に汚名さえ被ることを厭わないクレイザは、誰よりも大人で、誰よりも人格者なのかもしれなかった。

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