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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
1章 【北の果て フローレンツ】
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◇最果ての地で出会いしは(4)

 小高い丘を登りきると、眼下に広がるのは一面の住宅群だった。背の高い建物は少なく、夕飯時だからか多くの家から煙が上がっている。火を焚いているのだろう。

 街の外れには広大な土地が広がっていた。畑だ。この街の八割の人が、寒い土地でも育つ作物を育てて生活をしているという。


 大陸北部に位置する寒地フローレンツ、その最北に位置する街。それがこのヘベティカだった。


 人口もそれほど多くなく、決して豊かとは言えない街であるが、人の営みがあるというだけでイリーネは安堵した。カイと一緒に丘を下り、簡素な木製の門をくぐると、そこはすぐ市場だった。客を呼び込む威勢のいい声、値切り交渉をする客、肉を焼く香ばしい匂い。どれもイリーネにとっては初めて体験するものだ。見るものすべてが新鮮で、夢中であちこちを見ていた。

 横を歩くカイは、夜になるにつれて眠気が覚めてきたらしい。さすが夜行性。


「すごい、すごい、賑やかですねっ」

「まあ、夕飯時だしね。というか、これは『賑やか』の規模には入らないよ?」

「もっと他の街は賑やかなんですか? 見てみたいですっ」

「そのうち見られるでしょ」


 あの店では瑞々しい野菜を売っている。向こうでは新鮮な魚。あそこの店は揚げ物をたくさん並べている。路地の奥を覗いてみると、酒場の看板が見えた。楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 これが人の生活なんだ。街をもっと見て回りたいと思ったのだが、市場の人々がじろじろとイリーネの方を見ていることに今更ながら気付いた。こちらを怪しんでいる目だ。……はしゃぎすぎてしまったらしい、赤面ものだ。


 それからは黙ってカイのあとをついていった。カイは肩越しにイリーネを振り返った。


「とりあえず宿決めて、それからご飯でいい?」

「はい。……って、お金持ってないんですけど……」

「あるよ、ほら」


 カイがポケットから引っ張り出したそれは、深緑色をした小さな巾着だった。紐を掴んでぷらーんとぶら下げている。カイがそれを上下に軽く振ると、金属の音がした。

 何事か分からず瞬きをしたイリーネに、カイは巾着の中に入っているものを取り出して見せた。銅色に鈍く光る、薄い金属の板。丸い形だ。


「世界共通通貨、ギル。これは最小単位の一ギル銅(えん)ね」


 通貨には銅円、銅(ばん)、銀円、銀板、金円、金板と六つの単位に分けられている。それぞれ十進法で数え、銅円十枚、十ギルで銅板一枚だ。円と板をまとめて()とする。民衆が手にするのはよくて銀貨までで、金貨など一生のうちに触れるか触れないかといったところらしい。

 そんな話を簡単に説明してくれたカイは、人混みをすり抜けて市場を歩いていく。


「お金なんて持ってたんですね……」

「まあ、たまたま手に入れる機会があったから」


 ……どんな機会だろう。

 しかし考えてみれば、カイはイリーネより――少なくとも記憶を失っている今のイリーネより――長いことこの世界で生活してきたのだ。化身族と言えど、人間族が支配する世界での生き方は知っているはず。

 そういえば、街中に化身族の姿はない。人間ばかりだ。化身族も通常は人の姿をとっているのだろうか。


 ヘベティカは観光地でもなんでもなく、余所から人が来ることなど滅多にない街らしい。土地勘があるカイですらあちこち歩き回ってようやく見つけた宿は、この街唯一のものだった。住宅街の一角にひっそりと建つ二階建ての家屋を見上げ、やれやれとカイは肩をすくめる。


「もうちょっと目立つように看板でも掲げていてほしかったなぁ」

「それより先に、宿の場所を街の人に尋ねれば良かったんじゃ……?」


 そう、カイは一切人に頼らず、自分の足で宿を探したのだ。勿論街の案内板などなかった。おかげでかなり遠回りしたような気もする。


「あー……そういう手もあったか」


 単に忘れていただけのようだ。


「とりあえず部屋空いてるか聞いてくるから、イリーネは待ってて」


 それだけ言って、カイは宿の扉を開けてさっさと中に入ってしまった。なんの前触れもなく置いていかれたので驚いたのだが、『待て』と言われた手前追いかけるわけにもいかず、結局イリーネは閉じられた宿の扉を見つめるだけになった。そのままくるりと宿に背を向け、夕焼けに染まるヘベティカの街に目を向けた。

 綺麗だ、と思う。豊かな自然があるわけでも、美しい建築物があるわけでもない。でも、綺麗だ。人々が普通に生活している姿が、眩しくて仕方ない。多分この街のだれひとりとして、一日が終わってしまうことについて考えていないだろう。でもイリーネは違う。この世界で生きると決めて、最初の一日が終わったんだ――。


 そういえば、カイはごく普通に自分のことを「イリーネ」と呼んでくれた。あの瞬間は誰の名前なのかと気付くのに遅れて、返事ができなかった。

 やっぱり、戸惑う。これからはそれが自分の名前で、慣れなければいけないのに。

 イリーネ。もう一度呟いてみる。気恥ずかしいな。何をやっているんだろう、と自分に呆れる。


 ひとりで少し笑ってしまったものだから、目の前に人が立った時には驚いてしまった。


「よお、お嬢ちゃん」


 目の前にいたのは男の人だった。背はカイと同じくらいだけど、もっと骨格が太くて大きく見える。前髪を後ろになでつけているその姿がいかつくて怖い。

 その人はじろじろとイリーネを見ている。その眼が嫌で、イリーネは後ろに後ずさりした。


「あの、なんです……?」

「お嬢ちゃん、いい服着てるなあ。どこのお嬢様だぁ……?」


 男はそう呟きながら、イリーネの腕を掴んできた。太いその腕を咄嗟に振り払おうとしても、イリーネの力ではどうにもならない。


「……!」


 咄嗟に思い浮かんだカイの名は、言葉にすることが叶わなかった。男の左手で口を覆われ、腕を掴まれたまま宿の横にある路地に引きずり込まれてしまう。

 身体をねじって抜け出そうとしても、背中はすぐ家屋の壁に押し付けられてしまい、逃げ場がない。


「怖がることはないだろ……ちょっと一緒に来てくれればそれでいいんだよ」


 声も出せない状況に、思わず涙が滲んだ。嫌だ、気持ち悪い。

 カイ、どこ行ったの――。



「ちょっと、なにしてるの」



 聞きたかった声が、聞こえた。


 イリーネの口をふさぐ太い男の腕に、細い指がかけられた。カイの手。白くて細い、男と比べると華奢すぎる手だ。

 目線だけカイのほうを向くと、カイは平時と変わらない静かな表情だった。銀髪の間から覗く切れ長の紫の瞳は、じっと男を見据えている。その無表情が、このときばかりは恐ろしい。その恐ろしさは男にも伝わったらしく、動揺する色が見て取れた。ただ、イリーネを捕まえる手は緩まない。


「な、なんだお前は……」

「この子は俺の連れだよ。用があるなら、それなりの礼儀に則ってあげてほしいんだけど」


 いや、絶対いま言うべきことはそれじゃないと思う。そこはこう、『手を離せ』とか色々あるでしょうに。ここ数時間で、いや思い返してみれば思い当る節は多々あるのだが、カイはデリカシーや対人能力が壊滅的なのではないかとイリーネはつい疑い始めていた。


「イリーネ、この人は君の知り合い?」


(そんなわけないでしょう!?)


 素っ頓狂な質問をされて呆れかえりそうになったけれど、イリーネはなんとか大きく首を振った。その拍子に、目じりに溜まっていた涙の雫が飛び散った。

 カイの登場で収まった涙だったが、それを見てカイの目が変わった。


 そう、文字通り目が変わった(・・・・・・)


 紫色の瞳は一瞬で黄金色に輝いた。瞳孔が猫のように縦に長くなり、一気に鋭さが増した。獣が獲物を狙う目みたいだ。

 カイは男の腕を掴んでいた指に力を入れた。なんてことはないように見えたが、男は痛みにわめいてイリーネを拘束していた手を放した。カイはそのまま男を地面に引きずり倒して取り押さえてしまう。鮮やかすぎる手並みだ。


 口を抑えられていたせいで十分に吸えなかった空気を、急いで体内に取り込む。やっと呼吸が落ち着いてきたところで、カイがポケットから何かを取り出しているのが見えた。ナイフだ。

 ナイフを、男の首にあてがって――。


「ま、待って! カイ、やめて」


 カイはイリーネの言葉でぴたりと止まった。黄金色の瞳には相変わらず意志の欠片も見えなかったけれど、彼は一言イリーネに問いを投げかけた。


「後悔しない?」

「え……?」

「怖い目に遭わされたのに、この人を許すことを後悔しない?」


 意味を理解して、イリーネはすぐに頷いた。


「しない」


 カイは間違いなくこの男を殺そうとしていた。

 確かに怖かったけれど、死んでほしいなんて思わない。何より、見ず知らずの人間であるイリーネを助けてくれたカイに、人殺しをさせたくないから。


 そう答えると、すっとカイの瞳は元の紫色に戻った。


「分かった」


 カイはナイフをしまい、俯せに抑えつけていた男の背中から膝をどける。男は荒い息をつきながら後ずさりし、カイを畏怖の目で見上げた。


「お、お前は、ケモノ……!」


 カイは何も答えなかった。男はそのうち這うように立ち上がり、路地の奥へと走り去ってしまった。


 なんだったのだろう。どうして自分に声をかけてきたんだろう。あの時の自分は何をしていただろうか。カイが戻ってくるのを待って、街並みを見ていただけのような気がする。あの男の癇に障るようなことをしてしまったのか。


 男が見えなくなってから、カイは小さく息をついた。


「ごめん、ひとりにするんじゃなかった」


 息を吐き出すようにさりげなく漏れたその言葉に、イリーネは驚いてカイを見た。カイも、「ごめん」なんて言葉を口にするのか。


「……助けてくれて、ありがとう」


 そう伝えると、カイは小さく頷いた。それから手についた砂を払い落とす。


「このフローレンツって国は、大陸の中で一番文明の遅れた国なんだ。国王はいるけれど統治力は強くなくて、法らしい法も整っていない。街の中にも警察組織なんて存在しない。罪は裁かれず、罪人が咎められることもない。だから、この国のどこにも『安全』なんてないんだよ」


 カイの言葉に、イリーネはどうしようもない身の震えを感じた。街中にいれば安全だと思っていた。温かい食事があって、きちんと眠れる場所があって、落ち着けるはずなんだと。それは甘えだったのだろうか。


「……さっきの男の人は、どうして?」


 恐る恐る尋ねる。


「街の人を見てごらんよ。君の服とみんなの服、違うでしょ」


 促されて、イリーネは改めて街を見た。通りを行き交う人たちの服は、夏だというのに羊毛でもこもことした素材の服だった。確かに夜になると冷えてくる。暖かそうだ。

 対してイリーネの服は――肌触りが良くて、通気性の良い青の服。ドレスというか、ワンピースというべきそれは、あまりにもこの街に異質だった。


「君が異国の人間だっていうのはすぐ分かっただろうね。切り詰めた生活をしている人たちは――自分たち以外の存在をひどく嫌う」


 追い出そうとしたんだろうか――。

 何も言えなくなったイリーネの肩を、軽くカイが叩く。顔をあげると、カイは少し首を傾けた。まるで言い聞かせるように、イリーネを見て言う。


「ひとりで、出歩かないでね。万一何かあったら、さっきみたいに俺を呼んで」

「呼ぶ?」

「呼んだでしょ? さっき、俺のこと」


 呼んだだろうか。

 カイのことを考えはしたけれど、声にして呼んだ覚えはない。

 まさか、来てほしいという気持ちが届いたなんて訳が――。


「部屋、空いてるってよ。行こう」


 今しがた『ひとりになるな』と言ったばかりだというのに、カイはあっさり踵を返して宿へと戻っていく。イリーネははっと我に返り、小走りにカイを追いかけた。


 扉を開けると、暖かくて重たい空気が身体を包み込んだ。見てみると暖炉に火が灯っていて、広いホールが非常に暖かい。夏でも夜は暖炉を入れるのだ。床に敷かれた毛の長い絨毯の感触も心地よく、一気に緊張していた身体が緩むのを感じた。

 ホールに人はいなかった。カウンターテーブルにひとり年配の女性がいて、女性はカイとイリーネを見てにっこりと笑った。先程あの男から感じたような気味の悪さを、女性からは感じない。


「あらっ、あらあらあら、可愛いお客様! いらっしゃいませ、ようこそ『宿り木』へ」


 にこにこと歓迎してくれた宿『宿り木』の女主人は、カウンターを出てカイとイリーネの手を握ってきた。


「やだぁ、お客様が来るの久々だわぁ。お夕飯まだでしょ? 任せておいて腕によりをかけてなんでも準備するわ! そうそう、何泊する? 十日くらいいてもらっても、おばちゃん大歓迎よぉ」


 やたら人懐こい女店主は、掴んだカイとイリーネの手をぶんぶんと上下に振った。戸惑っているイリーネと違ってカイはさっと手を離し、話を進めた。


「……さっきも言ったけど、夕食と明日の朝食つきで一泊でよろしく」

「はいはぁい。じゃ、これ鍵ねぇ。そこの廊下の突き当りの部屋だからね」


 女性がカイに渡した鍵は、ひとつ。


「――え、鍵ひとつ?」


 イリーネが瞬きをすると、カイはくるりと手の中で鍵を一回転させた。


「お金の節約」

「は、はあ……」


 それが普通なのだろうか、と首を捻ったイリーネを見て、女店主はにこにこと笑った。


「ところでぇ……おふたりは恋人さん? それとも、もうご夫婦さんなのかしらっ」

「……一晩お世話になります」


 カイは女店主の言葉を無視してそれだけ告げ、教えられたとおりの廊下へ向かい始めた。イリーネは慌てて店主に『よろしくお願いします』と頭を下げてカイを追いかけた。そんなふたりの後姿を、店主は微笑ましく見送っていたのだった。

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