◇旅は道連れなんとやら(5)
温泉によって心身ともにリフレッシュし、さらに女性陣は買い物という特有のストレス発散をしたために、束の間暑さも疲れも忘れることができた。
アスールが計画してくれた寄り道だったが、そもそもイーヴァンに観光名所は少ないのだ。四人は再び、王都オストを目指して旅を再開することにした。
オストは以前から聞いている通り、国の東部に走るテルメニー山に囲まれた盆地帯にある街だ。その一帯はオスト盆地と呼ばれ、王都をはじめとする大都市が密集している場所である。東に海をもち、他三方を山に囲まれている、戦争になれば実に攻めにくい街だそうだ。
オストへ至る道はふたつ存在するという。
ひとつは最短距離を進む道。タニスの街からほぼ一直線に、テルメニー山を越えることになる。ニム大山脈ほどではないだろうが、それでもきちんとした装備が必要だ。過酷な道のりの代わりに、早い日数で王都へ到着することができる。
もうひとつは、国内最大のオスト街道へ戻る道だ。比較的平面で、しっかりと舗装された街道をひたすら歩くことになる。途中には街もいくつかあって、楽に進めるだろう。しかしオスト街道はテルメニー山を迂回するように作られているので、それだけ日数がかかってしまう。
日数を取るか、体力を取るか。ここでまた、盛大に意見が割れたふたりがいる。
「真っ直ぐ突っ切ろうよ。俺、迂回するとか一度戻るとかって言葉が一番嫌いなんだ」
「お前はまたそうやって先を急ぐ! 四人で息を切らしながら山を黙々と登ることの何が楽しいのだ。大体、一番最初にばてるのはお前だろうに」
「そんなことないですー」
カイとアスールはとことん気が合わないのか、ずっとネチネチと反論し合っていた。確かにカイが遠回りや二度手間を嫌うのは、イリーネもよく知っている。別に山登りでも良かったのだが、結局採用されたのはアスールの案であった。珍しくチェリンがアスールに同調して、カイが押し切られた形だ。
そういうわけで四人はハサンの街を出て、進路を東に取っている。このまま隣のサディの街に向かい、オスト街道に合流してひたすら南下する。野宿もそれなりに多い、長い道のりだ。
「むかーしむかし、あるところにエラディーナという女の人がいました」
山道を歩きながら唐突にカイが始めたのは、女神エラディーナの伝承の講義だった。その突然な始まり方に、イリーネは思わず唖然としたほどである。
「だって、黙って歩いているのも妙かと思って」
「そ、そうでしょうか?」
イリーネが同意しかねるのは、『黙って』という部分である。ちらりと肩越しに後ろを振り返れば、アスールとチェリンが論戦の真っ只中。後ろはとても賑やかなのだ。
とはいえ、カイが沈黙を気にするようになるとは。最初のころは数時間でも会話なしで歩いていたというのに、どういう心境の変化だろう。
「歩きながら話していけば、時間も短縮できるじゃない?」
「は、はい。よろしくお願いしますっ」
「そんな緊張しないでよ。たいしたことじゃないから」
魔術書の内容に入る前に、色々と知っていなければならない歴史が多いのだそうだ。古語を知っていなければ魔術書は読めないが、カイがそれを翻訳して先に聞かせてくれる。チェリンと夜の空いた時間などを使って少しずつ古語を読む勉強はしているが、あまりはかどっていないのが現実だ。
「俺たちがいま使っている暦は神暦って言うでしょ。これはエラディーナが生まれた年を元年として、今まで数えてきたものなんだ」
「えっと……じゃあ、今年は神暦三六〇二年だから、エラディーナは三千六百年も前に生きていた人なんですね」
そんな昔から暦が続くなんてすごい。その言葉にカイも同意を示す。
「その時、大陸は大きく二分されていた。人間族の国家『ア・ルーナ帝国』と、化身族の国家『レイグラン同盟』だ」
大陸東部、現在のリーゼロッテ神国やイーヴァン王国を含む大帝国ア・ルーナ。
大陸西部、現在のケクラコクマ王国やサレイユ王国を含む種族同盟レイグラン。
その他さまざまな小国家――たとえば北のフローレンツ――などは存在したが、世界の覇権はこの二大国の間で争われていた。
「エラディーナはア・ルーナのお姫様で、生まれつき高い魔力を有していたそうだよ。子供のころ既に三、四属性の魔術は使えたらしい。そのお師匠様はア・ルーナ最高の魔術将って呼ばれたアイレなんだけど……まあ、これは後々」
ぶつぶつと呟くカイの言葉からは、カイがどれだけの知識を持っているかが如実に伝わってくる。カイって実は頭良いんだろうな――なんてことを少しの間考えていると、カイの話はまた別のものに変わっていた。
「前にも言った通り、当時は種族間抗争が激しかった時代だ。ア・ルーナとレイグランも頻繁に戦っていた」
「化身族の軍隊に、人間は勝てたんですか?」
「というか常に優勢だったよ。その頃は人間たちも魔術を使えたし、何より人間は頭が良い。化身族の軍に統制なんてあったものじゃないからね。本能のまま突撃して、人間族の策に嵌るっていうのはしょっちゅうだった」
つまり人間族は化身族を相手に互角以上の戦いをしていたのだ。今の時代では考えられない――おそらく今なら、ひとりの化身族相手に十人が束になっても勝敗は五分五分といったところだろう。当時は魔術が主流の戦いが多かったようだし、いかに魔術というものが強力だったかが分かる。
「神暦十七年。つまりエラディーナが十七歳の時、ア・ルーナは『カーレリアスの大遠征』って呼ばれる侵略戦争を始めた。皇帝カーレリアスが自ら遠征軍の指揮を執り、帝国軍の大半の戦力と共にレイグランに攻め込んだんだ」
それは一世一代の大遠征だった。その数年前の戦争で皇太子を亡くしたことが引き金となって、皇帝カーレリアスは親征に踏み切ったという。動ける男たちはみな徴兵された。国に残ったのは女と子供、老人と、帝都の防衛を任じた第三皇子の部隊だけの最低限の戦力だった。しかしそのおかげで、遠征軍にはこれまでにない兵力と優秀な人材が揃ったのである。
のちに大騎将と呼ばれることになる将軍ヘイズリーは、魔術主体の戦法を取る時代でありながら、巧みな騎兵の指揮能力と部隊運用能力を持っていた。騎兵といえば追撃や迂回というイメージがあった中で、ヘイズリーは自ら部隊を率いて盛大に敵勢力を攪乱したという。この戦争の中で、騎兵は主力として運用されるほどになったのだ。
そうしてア・ルーナ軍は次々とレイグラン同盟軍を打ち破り、ついに首都アレンダイクの目前まで勝ち進めた。
「そこまではすごく順調だった。けど、そのとき帝国軍は忘れちゃいけないことをすっかり失念していたんだよ」
「忘れちゃいけないこと?」
カイは頷き、額の汗を拭った。
「レイグラン同盟の盟主、竜王ヴェストル」
「トライブ【ドラゴン】……」
「その通り。竜は間違いなく化身族最強の種だ。個体数は昔から少ないから、今の時代はもう絶滅しているのかもしれないけど」
化身族最強の竜族、その中で「王」を名乗るヴェストルだ。そんな王の根城に攻め込んで、無事で済むはずがない。
「竜王はそれまで前線に出て戦ったっていう事実がなかったらしくてね。逆に言えばだからこそ人間族が勝利できていたのかもしれないけど……それまでの快進撃のおかげで、帝国側は竜王の存在が頭から抜けたんだろう」
「じゃあ、帝国軍は……」
「竜王一人に壊滅だ。皇帝カーレリアスは勿論、従軍していたふたりの皇子や有力な将軍たちを、軒並み失った。ほぼ一瞬でお城もろとも、どっかーん」
身の毛のよだつ話だった。竜の力とは、一体どれほどのものなのか。数万の大軍を瞬殺するような力、想像もつかない。
「唯一生き残ったのは騎将のヘイズリーだ。彼は市街戦を任されていたから、巻き込まれずに済んだ。帝国軍の敗北を知ったヘイズリーは、生存兵をまとめてすぐに離脱した。そして必死にア・ルーナへ逃げ戻った。何度も追撃兵と戦って、重傷を負いながらね」
それはどれだけ辛い道のりだっただろう。行きは大勢の味方とともに勝利を重ねて進んだ道を、数えられるだけの兵を連れて逃げる。守るべき主君も同僚も失って、遺品の一つも持ち出せず、それでも故国を目指したヘイズリーの心境は――おそらく、生き残った兵を家族に返すため、そして国に残った皇子や姫を守るため、生き残ったことの責任を果たそうとしたのだろう。
しかし――エラディーナは敵国の王と恋に落ちたとアスールが言っていた。それが竜王ヴェストルだというならば、彼女は父や兄を殺した仇に惚れたというのか。少し信じられないが、カイは軽く肩をすくめた。
「竜王は意外と優しくて絶世の美男子だったのかもしれないし、実は女のヒトに免疫のなかった竜王はエラディーナに一目ぼれしたのかもしれない」
「それはカイの推測?」
「そう。こうやって考えると、歴史上のヒトたちにもちょっと親近感湧くよね」
確かに、とイリーネが微笑む。カイはそこで少し間を置き、口を開いた。
「――ここまでは歴史の勉強。で、ここからは魔術の勉強だ」
魔術の勉強という言葉にイリーネは姿勢を正した。自分の能力を制御するために、絶対に聞き洩らしてはいけない。
「前にも言ったけど、魔術は言葉に『願いと祈り』を込めて使うものだ。逆に言えば強い願いさえ込めれば言葉は必要ないわけだけど、最初にそれは難しいからエラディーナの言葉を借りるんだ」
ちなみに化身族は、人間族よりも魔術を扱う脳の器官が発達しているそうだ。だから面倒な手順は踏まず、自らの意志だけで魔術の制御ができる。実際、カイは魔術を使用する際に言葉など発していない。
「エラディーナの言葉を借りる?」
「簡単に言えば、エラディーナになりきる」
「な、なりきる……?」
どうなりきれと言うのだろう。イリーネはエラディーナの性格も何も知らないというのに――。
「魔術書には、エラディーナがひとつの魔術を使うに至った経緯、過程、結果が事細かに書かれているんだ。その流れを追って行けば、彼女の心情を察するのは比較的楽だ。……ちょっと想像してみて」
カイはぴんと人差し指を立てた。
「――カーレリアスの大遠征は、約二年間続いた大規模な戦役だった。君は防衛を任された兄のもと、姉や幼い弟と共に帝都のお城で父親たちの帰りを待っていた。最初のうちこそ伝令が定期的に戦況を伝えに戻ってきてくれたけれど、それもぱったり途絶えてしまった。帝都に残った戦力も少なく、とても戦況の確認に割く人員はいなかった。もしかして味方は負けてしまったのではないかって雰囲気が城中に漂って、兄は苛々しているわ、姉や侍女たちは不安がっているわ、幼い弟は泣くわで苦しい日々だった」
二年間も、敵の襲撃に備えながら安否の知れない家族を待ち続ける――相当な苦痛だろう。苛々する気持ちも、不安な気持ちも、泣きたい気持ちも分かる。
「そんな時、ついに味方が帝都へ戻ってきた。それは騎将ヘイズリーと、その部下の数人だった。君にとってヘイズリーは、父をきっと守ってくれるという絶対の信頼を寄せていた若い騎士だ。その彼が瀕死の重傷を負っているのを見て、君はすぐに理解した。父親も兄たちも、自分に勉強を教えてくれた師匠も、みんな死んでしまった。戦争に負けたんだってね」
「……」
「ヘイズリーは怪我も気にせず君の前に跪いた。そしてこう言う――『主君を守ることも国のために死ぬこともできず、自分がおめおめと生き恥をさらして国に戻ったのは、この国に危機が迫っていることを知らせるためである。今、まさに帝都の目前に敵軍が迫っている。いずれ竜王率いる大軍が帝都に押し寄せるだろう。早急に籠城の構えをとるべし』。……兄はすぐに指揮を執りに向かった。姉たちは城の安全な場所に避難する。残った君は……どうする?」
カイに問いかけられて、イリーネは顔をあげる。そして即答する。
「ヘイズリーの怪我の治療をします」
「でも彼は、『治療など必要ない。自分は今から、この国を守るために死にに行く。それが王や、死んでいった部下たちへの贖罪であり、自分の義務だ』と言う」
「それでも……無理にでも座らせて、傷を治すと思います」
「それはどうして?」
「助かるかもしれない命を、放っては置けないから……」
そう答えると、カイは微笑んで頷いた。その笑みで、イリーネは自分の答えが間違っていないことを察する。カイは語調を和らげた。
「エラディーナはこう言った。『メ=ディーレ』、とね」
「メディーレ……?」
「治癒術を発動させる、祈りの文言だ。君はまだ古語を習得していないから、言葉はただの『音』でしかないけどね」
古語を習得して理解すれば、音は言葉となる。
エラディーナはむざむざと命を捨てようとするヘイズリーの傷を癒した。恐怖や不安の中に、ほんの少しの安堵が混じっている。その気持ちが、治癒を願う強い祈りに変わるのだ。
その祈りを言葉に込めれば、それは魔術という形になる。
「あとはもう簡単だ。古語を覚えて祈りの文言を口に出せば治癒術が発動する。一度その方法で魔術を使えば、触れただけで勝手に治癒術が発動するなんてこともなくなるよ。慣れて行けば、そのうち言葉も必要なくなる」
あとはイリーネの努力次第。そう告げるカイの表情はむしろ穏やかだ。
「……はい! 私、がんばりますね」
そう言って微笑むと、カイも「うん」と頷く。
すると後ろからぬっとアスールが割り込んできた。イリーネとカイの話が一段落するのを見計らって割り込んできたのだろうが、どうやらチェリンとの話は一段落していないらしい。チェリンは今にも何か投げつけそうな表情で悶々としている。
「随分と勉強熱心だな。さすが、深夜まで起きて魔術書を読みふけっているだけはある」
「余計なこと言うな」
カイがアスールに冷たい視線を投げかける。アスールは暴れ馬を落ち着かせるように「まあまあ」と制し、東の方角へ目を向けた。
「それより見てみると良い。懐かしのオスト街道だよ」
「別に懐かしくもなんともないんだけど」
チェリンが淡々とこき下ろす。イリーネらの右手側に、小さく別の街道が見える。あれがオスト街道。もう少し先で、今歩いている道と合流するのだ。
「オスト街道と合流すれば、サディの街はもうすぐだ。さ、もう少し頑張ろう」
アスールが悠々と足を速め、それを見たチェリンが「あっ」と声をあげる。
「こら待てっ、まだ話は終わってないでしょうが!」
「ふたりとも、ずっと何を話していたんですか?」
ごく普通の好奇心で訊ねると、アスールを追いかけようとしていたチェリンはぴたりと足を止めて振り返った。
「今日の夕飯を肉にするか魚にするかよ!」
「……それだけの話題であんなに長く論戦していたんですか?」
「大問題よ!」
いまいちその重大さが分からないでいると、すっと隣でカイが進み出た。
「うん、大問題だ。肉って選択は絶対阻止しなきゃ」
「そうよ、そもそもこんな菜食主義がいるからメニューに偏りが出るのよ! 今日は絶対、肉にしてやるんだからねっ!」
「そりゃ困った。ここは不本意ながらアスールと手を組むしか……」
けれどもカイは本当にアスールと手を組むのが嫌なのか、難しい顔だ。なんとも言えない表情でイリーネが沈黙していると、カイが期待のこもった目で振り返ってきた。
「イリーネ、俺と一緒に『野菜同盟』でも組まない?」
「や、野菜同盟?」
「うん。そうすれば多数決で、今日の夕ご飯は野菜に」
「なるわけないでしょうがっ! あんた少しは栄養バランスを考えなさい!」
チェリンに大喝され、カイは軽く耳を塞ぐ。チェリンは荒く息を吐く。
「……目下あたしの目標は、あんたの肉嫌いを克服させることみたいね」
「えー、ちょっと、そいつは勘弁」
「いつもちまちま肉ばっかり残すんだから! いいわ、いつかあんたをあっと言わせる肉料理を作ってあげるから!」
闘気むきだしてチェリンはカイに指を突きつけると、先に行ったアスールの追跡を再開した。放っておくと先にサディの街に入って、問答無用とばかりに魚を買い込んでいそうな予感がするのだ。
それを見送ってやけにげっそりしているカイに、イリーネが苦い笑いを向ける。
「カイ、チェリンはいつも私たちのことを考えて必死でメニュー考えてくれているんですから、あんまり好き嫌いしちゃだめですよ」
「……まあ、努力はするよ」
努力するという答えが返ってきただけでも、カイにしてみれば大きな進歩なのだった。




