ある側近の独白
ほんの一時ほど留守にしただけだったというのに、その一時で故郷は様変わりしていた。地面に打ち倒されている防衛班の若者たちの様子はまさに死屍累々。気絶しているだけのようだが、それでも村で一番の猛者たちがこの有様なのだ。周囲には何やら白い煙が僅かに立ち込めていて、少し近づいただけで目が痛くなる。レキの葉の催涙煙のようだ。
敵襲か。長は無事なのか。様々な悪い予感がいくつも脳裏をかすめ、慌てて走り出した。長の間へと続く地下への道を降りる。廊下にもまだレキの煙が残っており、それを吸い込まないように口元を服の裾で覆う。そうして開けた長の間へと飛び込んだ。
「長!」
「……ジーハか」
長は部屋の中央に堂々と胡坐をかいて座っていた。とりあえずほっとしたものの、よく見れば地面は穿たれ、壁にも無数の傷がある。明らかに戦闘の痕だ。
「これは何事です!?」
「いや、実はな……」
長は困ったように頭を掻き、観念したようにぽつぽつと事情を話し始めてくれた。
「……なんだ、カイが来ていたのですか!? もう、それならそうと呼び戻してくれれば良かったのに。私も会いたかったのに」
「そう純粋に再会を喜べる雰囲気ではなかったのだがな」
惜しいことをした、と己を悔やむ私と対照的に、長――ゼタは終始苦々しい顔だ。そうしている間にもファビオがカイを完全に見失ったと報告に来た。ゼタもそれ以上の追撃はさせず、カイのことは諦めるようだ。
愉快すぎて笑いが止まらない私を見て、いっそうゼタは不機嫌そうに「笑いすぎだ」と吐き捨てる。フィリードの長、絶対的な王のふくれっ面など、私以外の誰が見ることができるだろう。
この私――ジーハにとってゼタという男は主君である前に、百年来の友であり、また血を分けた妹の夫――つまり義理の弟であった。人間の世界に年功序列があるように、化身族の集団にも強さによる序列が存在し、その絶対性は人間族の統制をも上回る。私がゼタを上回ることなど天地がひっくり返ろうともあり得ないことであり、ただの従者である私がゼタと対等に話をするなど本来あってはならぬことであるが――主従関係より先に、我々の間には友という絆があった。
さらには、ゼタという男が身分になど拘らない性分であったからこそ、成り立っている関係性でもある。それは間違いなくこの男の美徳で、そういう部分はしっかりとカイにも引き継がれている。
「それにしても、カイがニムに近づくとは意外でしたね。『絶対に戻るもんか』と啖呵を切って飛び出したのは記憶に新しいのですが」
「どうやら、ニムを越えてイーヴァンへ向かう途中だったようだ。人間の娘に同行して、また妙なことに首を突っ込んでいるのだろう」
「そうやって決めつけるから、貴方はカイに嫌われるんですよ」
「そうだな、昔からあいつは父親よりも伯父にべったりだったからな」
カイは幼いころから、母によく似た私には懐いたものだが、どういうわけかゼタにはいまいちだった。ゼタはそのことでよく私に嫉妬をしたものだ。
そう、ここまで言えば分かるであろうが、このゼタという男はいわゆる「親ばか」なのだ。化身族にはかなり珍しい、血の繋がりを大切にする。
そもそも、ゼタがフローレンツ貴族への隷属から脱しようと思い至ったのは、私の妹――リースィとともに幸せな生活を築きたいと思ったからだ。ひとりの好きな女のために命を懸けたとは、今のゼタからは想像もつかないだろう。
リースィがカイを産んですぐに病で亡くなってから、ゼタの愛情は息子のカイへ向けられた。……それはそれは、カイに同情するほどうざったく。
それでいて愛情表現が下手なものだから、カイが父親を嫌悪するようになるまで時間はかからなかったわけだ。
ゼタは大きく溜息をついた。どうしたと尋ねると、ゼタは項垂れてこう言う。
「カイに、怪我をさせてしまってな……」
「……」
「咄嗟だったものだから、加減ができなかった。手当てもさせてくれなかったのだ、大丈夫だろうか……」
「ぷっ、くくく……」
「何を笑っているのだジーハ、私は本気でだな」
「分かっていますよ、ふふっ……」
過保護なゼタには呆れたものだ。いや、私はカイの傷を見てはいないが、昔からカイには傷の処置を教え込んできた。即死でない限り、大抵のことは自分でできる。助けに何者かが現れたというなら、おそらく大丈夫だろう。
そこで集落の者が長の間へとやってきたので、いったんゼタの過保護な一面は鳴りを潜めた。怪我をした民の救護や半壊した建物の修復などの処理を行う。そうしているゼタはまったく威厳のある長で、傍でそれを手伝う私としては激しい落差にまた笑ってしまいそうだ。自分が笑い上戸であることは自覚しているが、そうそう治るものではない。
一通りの後処理が終わったところで、またもや私とゼタはふたりきりになってしまった。長の身分にふんぞり返っていればいいものを、ゼタは自ら長の間の補修作業にあたっている。それを私が手伝う形だ。
カイの襲撃――いや、非は完全にこちらにあるが――から、もう数時間は経つ。徐々に日も落ちてくるだろう。そこで、壁の塗装を塗り直していたゼタが急に顔を上げた。
「そういえばあれからファビオを見ていないが、どうした?」
「ああ、彼ならさっきひとりで集落を飛び出していきましたよ」
「……カイを追ってか?」
「おそらく」
ゼタは顔を掌で覆って項垂れた。
「追撃は必要ないとあれほど言いつけたというのに……」
「まったくですね」
「で、お前はそれを黙って見ていた、と」
「ふふふ」
そして長への報告をわざと怠ったのも事実だ。見逃してくれと頼まれたわけではないが、見て見ぬふりをしたのである。
「いいではありませんか。カイとファビオの取っ組み合いなんて、三十年ぶりのことなんですよ。微笑ましいでしょう」
「そんな可愛いもので済めばいいのだがな。ファビオは戦いになると見境がなくなりがちだし、カイもあれで負けず嫌いだ」
「それは化身族の宿命みたいなもんでしょう」
知らず組み込まれている、闘争の遺伝子。それが欠けた化身族など、私は見たことがない。どんな温厚な者でも、戦いになれば人が変わる。強者であればその傾向が強く、カイもファビオも、ついでにゼタも、その口だ。
カイとファビオは昔からライバルだった。切磋琢磨とか、高め合うとか、そんな綺麗な関係ではない。文字通りの好敵手、『敵』だったのだ。戦いにおいては一番の理解者同士であったかもしれないが、それ以外ではとことん馬が合わなかった。カイののらりくらりとした態度や、ファビオの直情的な性格も噛みあわない原因ではあっただろうが――。
「……ゼタ、この際だから聞いてしまいたいことがあります」
「なんだ、改まって?」
「貴方はまだ、カイを自分の後継者にしたいのですか?」
ゼタは沈黙した。顔を覆っていた腕をおろし、部屋のほぼ対角上にいる私を振り返る。
「確かにカイはあのころから突出して強かった。それはおそらく、今でもでしょう。しかし彼は三十年前に山を下りることを決意した。過程はどうであれ、貴方や私はそれを許し、見送ったのです。そうですよね?」
カイは本当に強かったのだ。ファビオと二強と称されても、それでも一枚上手だったのはいつでもカイだ。だから当時はカイが時期の長だと信じて疑わなかったし、みな納得していた。
しかしカイにはそんな気はさらさらなかった。それどころか、集落を出て人間に混じって生活すると言い出したのだ。
カイは隷属の時代を知らぬ世代。だからそんな甘いことを言うのだと、当時は私もゼタも大反対したものだ。けれどカイは自分の意思を曲げず、飛び出してしまった。本気で引き留めようと思えばできたが、ゼタは結局カイを見送った。
きっと厳しい世間に嫌気がさして、戻ってくる。家出息子を見送った軽い気持ちでいた。戻ってきたカイに「それ見たことか」と言ってやろう。そして今度こそ、フィリードで大人しく暮らせと、そう言ってやろう。
――まさか三十年も帰ってこないとは、思いもしなかったのだ。
今回ニムに来たのは、ただの旅の途中。やはりカイに、集落に留まるつもりは一切なかった。そんなカイを無理矢理引き止め、掟を曲げてまで長にしようというのは――。
「……それはただの身内贔屓です。いい加減カイも、そしてファビオにも酷だ」
化身族の間で『身内贔屓』などという言葉は使わないものだから、自分で言っていても不思議な気分だ。
カイが帰ってくるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、我々は正式に次の長を決めていなかった。このままいけばファビオだが、もしカイが戻ればカイが長になる可能性があったのだ。そんな不安定な立場などファビオも御免だろうし、ゼタも長としての公正さを欠いている。あってはならないことなのだ。
「ファビオを正式に次期長に据えて、カイのことは信じてやるべきです。カイは貴方とリースィの息子で、私の甥っ子だ。そう簡単にくたばる男でないことは、この三十年が立派に証明してくれる。貴方は少し、息子離れをするべきなのですよ」
私の諫言を、ゼタは黙って聞き入っている。フィリードの者はゼタを英雄視しているから、誰もそのやり方に異を唱えることはしない。だが勿論ゼタも迷い、間違える。というか間違えてばかりのような気がする。
だからこそ私が。このジーハが長の右腕として、ゼタの手が回らぬ部分を支えねばならない。
「時代は確実に変わっている。カイを皮切りに、チェリンをはじめ、里の若い者たちは閉鎖的な状況に強い疑問を抱きつつあります。またいずれふたりのように、里を抜ける者も確実に出ます」
「生き残るには時代の流れに身をゆだね、人間を避けては通れぬ……か」
奴隷として使役された記憶は、私やゼタにとっては辛い過去だ。正直こんなことを進言する私だって、人間に好意的にはとてもなれない。
だがそれは、もはや古い考え。我々を奴隷として扱った人間たちはもういない。すべての人々が化身族を下に扱うかといえば、そうではないのだ。
少しずつ、人間の生活を知ることも必要になるだろう。年寄りの堅い考えは、早々に捨てねばならない。
苦い顔をしているゼタに、私は笑って見せた。
「大丈夫ですよ。我々は人間とうまくやっていけます。その生き証人が、ついさっきまでここにいたのでしょう?」
カイが必死に守ろうとした人間の少女。――きっと、とても人柄がよく素晴らしい人物なのだろう。
不器用にも一途なその姿は、まさに若かりし頃のゼタそのものではないだろうか。リースィを守ろうと、必死に戦ったあの頃と同じ。なればこそ、ゼタもカイの気持ちは分かるはず。
やがてゼタも、小さく頷いたのだった。
「お前は子を遺さないのか、ジーハ」
唐突に問いかけられ、口に含んでいた水を吹き出しそうになる。それを無理に飲みこんだせいで咳き込んでしまい、呼吸を整えながら答える。
「げほっ、……何を急に。私も喉が弱ってつまりやすいのでよしてくださいよ、もう若くないんですから」
「む、すまん。……そう、もう若くないからこそ、だ。お前の子なら、さぞ優秀だろうに」
夜が明け、日もだいぶ高くなったころになって戻ってきたファビオは、勝手をしたことを深くゼタに詫びた。どんな罰でも受けると申し出たが、ゼタは清流から一日分の水を運んでくるように命じただけで罰らしい罰を与えなかった。体力自慢のファビオには、水汲みなど造作ないだろう。
ファビオが粛々と指示を受けて引き下がった直後に、先程のゼタの発言だ。唐突過ぎて驚きもする。
「そもそも、私は独り身ですよ」
「相手は今からでも見つかるだろう?」
「私のような老いぼれ、今更誰も相手にはしてくれませんって」
ゼタより少し年を食っている私は、近年徐々に老いが始まっている。急速な変化ではないが、確実に寿命は近いのだ。身体が衰え、化身も難しくなる。それは自分が一番よく分かっていた。
化身族はその殆どの種が百年以上の時を生きるが、種族によって寿命に開きがある。長命と噂されるトライブ・【ドラゴン】などは数千年生きると言われている。私たちトライブ・【レパード】はせいぜい百五十年が上限。化身族の中では比較的短い寿命だ。百歳を超えたあたりから、急激に老いていく。私など、むしろ今までよく老化が始まらなかったと驚くほどだ。
「で、それがどうしたのです?」
「お前がいつも『親ばか』だの『過保護』だのと言うからだ。お前にも子がいれば、私の気持ちも分かるだろうと思ってな」
「貴方の愛情度は異常なんです、たとえ私に子がいても分かりません」
それはまるで、人間のような慈しみ方――。
独り立ちできるようになればあっさりと手を焼かなくなる化身族とは、明らかに違う。
「……というのはあてつけだが、私の理想のために、お前には無理を強いてきた。お前の助けがあって私は幸せだ。だからこそお前にも、幸せになってほしくてな」
思わぬ言葉がゼタから飛び出す。ぽかんと口が開いていることに自分で気づき、慌てて口を閉じる。
まさか、そんなことを考えていたとは――。
「――ぷっ」
「おいジーハ、なぜここで笑う!」
「ふふふ、笑いますよ。貴方がそんなことを考えていたとはね……くはっ、だめだ、笑える」
「……」
すっかり拗ねたゼタをなだめつつ、思う。
心配せずとも私はいま幸せだ。辛い状況から脱することができて、ゼタという男の偉業を間近で見て、いまこうして自分の居場所がある。友と妹が幸せな生活を手に入れ、その証であるカイがいてくれる。他に何を望むという?
ゼタほど純真でない私は、そんなことを口に出すことなど誓ってしない。今更言うことでもない。
カイ、私が元気なうちに一度くらいは顔を見せに来てくれないか――できれば、お前の想い人も一緒に。
そう考える私も、すっかり化身族としては異常なのだろう。
血縁を大切にする気持ち。そんな当たり前の感情が異常だとされたのが異常だったのだ。あるべき姿に戻っただけ――きっとカイも、気付くはず。どれだけゼタという男が、お前を大切にしているか。
気付かなければおかしい。
何せ我々は、変人の一家なのだから。




