◇山岳を越えて(11)
最初のうちこそチェリンとの会話で恐怖は紛れていたが、やがて蝋がなくなり、完全に暗闇に取り残されると、とうとう沈黙が舞い降りた。壁に背を預けて両膝を抱え込み、じっと目を閉じる。すぐ隣にはチェリンがいて、その温かみが伝わってくる。彼女の静かな息遣いも分かる。暗闇の中で頼りになったのはそれだけで、イリーネはただただひたすら待ち続けた。
「……カイ、大丈夫なのかな……」
心細くて呟く。闇は人の心を弱気にさせるらしい。チェリンはそっとイリーネの手に触れる。彼女はこの闇の中でも目が利くようだ。
「大丈夫よ、きっと」
「そう、ですよね……相手はカイのお父様ですものね。悪いようにはなりませんよね」
「父親か……」
チェリンの微妙な反応に首をかしげると、チェリンが苦く笑った気配がする。
「化身族の間で、あんまり血縁って重視しないのよ。父であるという事実はあるけれど、それが特別な感情になるわけじゃない。命をくれたという恩はあるけれどね」
「え……それじゃ、チェリンは?」
「あたしの両親? 今頃は畑仕事でもしているんじゃないかしら」
まるで興味のなさそうなチェリンだったが、その声音が少し小さくなる。
「人間から見れば薄情に映るかもしれないけれどね。でも人間たちのように、子供が悪いことした責任を親が取るということはない。勿論逆もないわ。化身族は、単独で生きることを第一にするから」
「単独で、生きる……」
誰にも頼らない。それが化身族の強さだろうか。けど――そんなの寂しい。
「だから、あたしが信じるのはカイ本人の強さよ。あたしが信頼できるんだもの、あんたはもっとあいつを信じられるでしょ?」
明るくなったチェリンの声に、イリーネも少し微笑んで頷いた。
するとチェリンが急に身体を起こした。闇が揺れたその様子に、イリーネも目を見張る。
「ど、どうしたんです?」
「物音がしたわ」
イリーネが耳を澄ませた瞬間に響く、苦痛の悲鳴。さっと血の気が引いたが、どうやらカイの声ではなさそうだ。
そしてゆっくり、石の床がずらされていく。突如差し込んだ光が刺さり、目が眩んだ。チェリンがイリーネを庇うように立ち上がる。
「待たせたね、姫君たち」
カイ――では、ない。
チェリンが怪訝な顔で眉をしかめ、穴の縁に立つ男を見上げた。
「……誰、あんた?」
イリーネはチェリンの背後からそっとその相手を見る。そして「あっ」と声をあげた。
「貴方は、ペルシエで会った……!?」
「やあ、あの時のハンターの姫君か。こんなところで会うとは奇遇も奇遇だな」
透き通るような青の髪と青の瞳。完璧に整ったその顔立ち。間違いなく、フローレンツの王都ペルシエでアネッサと共に出会った放浪者の青年だ。
「どうして貴方がこんな場所に……」
放浪者の青年がにこやかに笑って口を開きかけたとき、青年がよろめいた。そうして放浪者を押しのけて姿を見せたのは、カイその人だった。
「イリーネ、なんともない?」
「は、はい……あっ、カイ、その傷!」
腹部に当てた手に、血が滲んでいる。どことなく顔色も悪いようだ。カイが穴の中へ手を差し伸べてくれたが、イリーネは構わず自ら穴の縁にジャンプして手をかけ、腕に力を込めて壁をよじ登った。いくらなんでも、女性らしからぬ軽やかな跳躍力と腕の力だった。だが今のイリーネにはカイとチェリンがぎょっとしていることにも気づかない。
座り込んだカイの傍に膝をつき、すぐに腹部の傷へ手を当てる。刹那、イリーネの掌から暖かな光が零れだした。あっという間に光はカイの傷を塞ぎ、傷跡がうっすら残るだけになってしまった。
ふう、と応急処置を終えてイリーネが息を吐く。――そしてようやく気付いた。自分は、いま咄嗟に何をしたのかということを。
恐る恐る振り返る。これまた自力で穴から脱したチェリンは、驚いたように目を見張っているだけ。その隣に佇む放浪者は、優しげに微笑んでいる。
異端の血が流れる証拠――人間の身でありながら魔術を使うイリーネを、ふたりはどう見る?
「……あ……あ、ぁ」
血の気が失せて震えるイリーネの肩を、カイが強く抱き留める。カイは頷いた。
「大丈夫。この人たちは、君のことを恐れたりはしないよ」
うっすらと盛り上がった涙で霞む視界の向こうで、放浪者は相変わらず微笑んでいる。
「傷は塞がったようだな。大掛かりな処置はこの場を離れてからにしよう。さ、行こうか」
放浪者そう言って踵を返した。カイはまだ状態がよくないようだが、それでも走れるくらいには治癒されていた。イリーネを支えて立ち上がり、チェリンを振り返る。
「兎さん、君は後ろをよろしく」
「ええ、任せなさい」
チェリンも変わらぬ様子で応え、最後尾を固めてくれる。それを見て、カイもまた走り出す。
――ふたりとも、何も言わない――。
何か少し拍子抜けした気分だが、放浪者の言う通り離脱が最優先だ。イリーネも気を取り直し、カイの後を追って駆けだした。
★☆
放浪者の先導で一気に山を駆け下りる。足場の良い場所ばかりを通ってくれたので、イリーネでもついて行くことができた。
そうしてようやく足を止めたのは、比較的平らな大地に出たときだった。フィリードは遥か高みの木々の間に隠れ、もはや姿を見ることはできない。
息を落ち着かせながら辺りを見回すと、周辺には何やら大量の石材が散在していた。それが石ではなく石材と分かるのは、明らかに加工された形跡が見て取れるからだ。周囲の大地の平らな様子も、間違いなく人の手が入っている。
「ここは……廃墟?」
「大昔は、ニム以外にもあちこちに街があった。けれど時代が進むにつれて人々は集落を放置し、山を下りた。これはその残骸だよ」
カイはそう言いながら、廃材にもたれかかるようにして地面に胡坐をかいた。チェリンは腰に手を当てて後ろを振り返る。
「ファビオたちが追ってくる気配もないわね」
「もうフィリードの領域からは脱した。彼らは基本的に、領域外までは追ってこないよ」
少し休憩できるということか。さすがに山を走り回るのは体力を消耗して、イリーネもばてていたところだ。
するとカイが小さく呻いた。見ると、先程塞いだはずの傷が開いて血が流れ出ている。咄嗟の応急処置だったため、治りが悪かったようだ。
それにほぼ同時に気付いたらしい放浪者が、ぽんとイリーネの肩を叩く。
「しばらくここで身体を休めよう。姫は、彼の傷を癒してさしあげるといい」
「は……はい!」
イリーネは頷いてカイの下へ駆け寄り、再び治癒術を施しはじめる。傷は背中にまで抜ける貫通痕だった。いったいどれほど鋭利な刃物に腹を貫かれたのか。急所は外れているらしいが、とんでもない大怪我だ。
「酷い怪我……これ、もしかして、カイのお父様が……?」
「うん、まあ。俺の未熟の表れだな」
カイは息を吐き出した。その顔色はだいぶ良くなっている。あらかたの傷が治ったところで、カイはイリーネの手を握った。
「ありがとう、もう大丈夫。これ以上は君の身体に障るから」
魔術は消耗が激しいのだとカイは以前言っていた。治癒術のような高度な術ならばなおのこと。こんな状況でも、カイはイリーネの身を気遣ってくれる。
術をやめて腕を下ろす。そして振り返ると、そこには周囲を警戒している放浪者とチェリンがいる。ふたりとも、イリーネの治癒術になんら疑問を持っていないらしい。
「あ、あの……」
イリーネがぽつりと声をかけると、放浪者は振り返って微笑んだ。
「ああ、そういえば自己紹介がまだであったな。次に会った時には名乗ると申し上げたというのに」
「え? いえ、それは……」
「私はアスール。しがない旅の者だ。姫の名を伺っても良いかな?」
カイを振り返ると、彼は小さく頷いた。
「イリーネ、です」
「……良き名だ。春に咲く可憐な花を思い出す」
「花……?」
「姫と同じ名の花があるのだ。暖かい地域に咲く、淡い赤色の小さな花のことだ。まさに、姫に相応しい名であるな」
イリーネという名はカイがつけてくれた。確かその時、『昔会った人間の名前』から取ったと言っていたが、由来はその花なのだろうか。
カイがそれを知っていて選んだというのならだいぶ風流な人だ。そんな風に思いつつカイを振り返ってみると、カイは憮然としてアスールという放浪者を睨んでいる。敵視している様子はないが、何か面倒臭そうな視線だ。
「で、そちらは?」
アスールの視線がチェリンに向けられる。チェリンは無愛想に一言告げた。
「チェリンよ」
「不思議な響きだ。だが良いな、だからこそ君という女性を強く気高く見せている。すばらしい」
「何、この変人」
強烈なチェリンの一言にも、アスールは気分を害した様子がない。歯の浮くようなアスールの台詞を聞くのは二度目なので、イリーネは苦笑の表情である。
「アスールさんは……」
イリーネがそう切り出すと、アスールは手を振って「違う違う」と遮った。
「その呼び名も淑やかで心地よいが、姫と私の仲ではないか。ぜひ、『アスール』と呼んでくれないか。そのほうが私も嬉しいのだ」
「は、はあ……じゃあ、アスールはどうしてニムに?」
「至極簡単なこと。私は放浪者だ。偶然にも、姫と足の赴く先が同じだった。それだけのことだよ」
それらしい理由だったが、イリーネは小首を傾げる。その疑問を強烈なまでに代弁してくれたのはチェリンである。
「胡散臭いわね。たとえ偶然目的地が被ったとしても、あの集落に一般の人間は立ち入らないわ。何か企んでるとしか思えないんだけど」
「ふふふ……いいね、その冷たい刺すような眼差し! 私の好みだよ」
「黙れこの変態!」
チェリンがアスールに何かを投じた。傍の枝になっていた木の実らしい。まっすぐ正面から投げつけられたそれを見て、アスールは少しも動じなかった。右手をひょいと動かし、木の実を掴みとってしまったのだ。その動体視力にはチェリンも呻くしかない。
アスールは木の実を手の中でもてあそびながら、地面に座っているカイをちらと見やった。
「行き先が重なったのはまったくの偶然さ。ただ、私はそこにいる白いわんちゃんと古い知り合いでね。彼の姿を見たから、興味本位で後を追ってみたらあそこに到着したのだ」
「わ、わんちゃん……?」
「いや、こいつはネコ科動物でしょ」
チェリンの突っ込みも妙だったのだが、イリーネは驚いてカイを振り返った。
「カイ、知り合いだったんですか!?」
「そいつの戯言だよ、さっき顔を合わせたばっかりだ」
「なんだ、そうだったんですね」
「イリーネ姫よ、私の言も少しは信用してくれないかね」
カイの言葉を全面的に信じたイリーネに、さすがにアスールも困った表情を見せる。カイが小さく笑ったので、どうやらこればかりはアスールの言葉が真実だったらしい。
「ちょっと昔に色々ありまして。心配しなくていいよ、変な奴だけど悪い奴じゃない」
カイがそう言うなら――とイリーネは思うのだが、にこにこ笑っているアスールはやはりどこか胡散臭い。チェリンなど、さっきの一件からすっかり嫌悪感を露わにしている。
しかしながらアスールは鉄の心の持ち主だった。イリーネの疑惑の目もチェリンの嫌悪の目もスルーして、空を見上げる。
「で、ここはニムからどっちの方向なんだね? 適当に山を下りてきたから方向感覚が狂ってしまったよ」
「ニムの東だよ。下山する方が早そうだけど、宿に荷物置きっぱなしだから一度戻らなきゃね」
「では進路は西だな」
ごく自然に会話をかわすふたりを見て、イリーネもようやく「アスールは安全だ」と認識できた。疑り深いカイが信用しているのだ、イリーネが心配することはないだろう。
短時間で進路を定めたアスールはイリーネとチェリンを振り返り、軽く手を広げた。
「まあこれも何かの縁だ、私もニムまで同行してもいいかな?」
断る理由もないのでイリーネもチェリンも承諾した。登山道はニムから出る一本道しかなく、さすがのチェリンもこのまま下山しろとは言えない。
休憩もそこそこにしてカイが立ち上がる。一体カイとフィリードの民の間にどのような力関係や交渉があったのかは分からない。とりあえずの危機は脱したが、一刻も早く人里へ紛れたほうがいいということだろうか。まさかアスールの助力がなければ自分が処刑されていたかもしれないなどということを、イリーネは露とも思っていない。そう思わせないために、カイもチェリンも黙っていたのだ。
――その時、急に日の光が遮られた。雲が太陽にかかったのかと空を見上げて、イリーネは「あっ」と声をあげた。同じように上空を見上げたカイが極端に嫌そうな顔をして、チェリンとアスールは怪訝な表情だ。
「探したぞ【氷撃】、いざ尋常に勝負!」
そんな元気の良い声と共に、陰をつくる『それ』がゆっくり下降してくる。フローレンツのハンターであるアーヴィンと、相棒の【大鷹エルケ】である。
「アーヴィン、お久しぶりです」
「ほんと、ちょっと最近ご無沙汰だったんじゃない?」
珍客を迎えたような反応をするイリーネとカイに、アーヴィンは戸惑ったらしい。エルケの背中から飛び降りて妙な顔をする。
「なんだ、この歓迎されてる感は!?」
「前はあんな頻繁に出てきたのに、ぱったり見なくなったからねぇ」
「ぼ、僕にだって他にやることがあるんだぞ。お前たちだけの相手をしているわけにもいかないんだからな! 大体、僕が少し目を離した隙にフローレンツからいなくなったお前たちを探すのに手間取ったんだ!」
チェリンがアーヴィンを指差して、イリーネに尋ねた。
「だれ、このちびっこいのは?」
「えっと、お友達のアーヴィンとエルケです」
にこやかに紹介したイリーネに、アーヴィンがぎょっと目を剥く。
「……ち、違う、僕らは敵同士だぞ!」
「あれ、お友達じゃなかったんですか? 残念です……」
しゅんとしたイリーネを見て、アーヴィンが言葉に詰まる。もろもろの事情を把握したらしいアスールは、楽しそうにアーヴィンを観察していた。
アーヴィンはふとカイに向きなおる。ところどころ裂けた服や、布にこびりついた血はまだ新しい。カイがどこか精彩を欠いているのも、アーヴィンには分かっただろう。
「……【氷撃】、お前、怪我しているのか」
「俺の怪我は、君にとっての幸運だと思うけど?」
カイが弱っていれば、エルケが勝利する可能性も高まる。もちろんイリーネはカイが負けるとは思っていないが万が一ということもある。不安げに前に進み出るカイを見つめていたが、なんとアーヴィンはくるりとカイに背を向けてしまった。
「やめだやめだ! 弱った状態のお前と戦っても、何の意味もない。早く怪我を治すんだな」
「あらあら。それじゃいつまで経っても勝てないんじゃないの?」
強気なカイの発言にも、アーヴィンは挑発されなかった。カイに指を突きつけて彼は笑う。
「そういう台詞は、怪我をするようなヘマをしなくなってから言え! 行くぞ、エルケ」
アーヴィンはやけにあっさりとエルケの背に飛び乗り、そのまま飛び去ってしまった。呆気にとられたイリーネがあっという間に小さくなったエルケの姿を仰ぎ見る。
「い、行っちゃいましたね……」
「あのちびっこいの、カイを狩る気なんかないんじゃないの?」
「そのようだな、純粋に【氷撃のカイ・フィリード】という強者に憧れているように見えた」
チェリンとアスールの見立ては、多分正しいのだろう。めげずに何度も戦いを挑んでくることも、時に共闘してくれることも、カイの調子を気遣ってくれるのも、そう考えれば辻褄が合う。
当のカイは呑気なもので、腹の傷のあたりをさすりながら呟く。
「さすがに魔術使えそうになかったから、助かったよ」
「それなら挑発しないでください!?」
言動が矛盾しているカイに、イリーネは肩を落としたのだった。