◇最果ての地で出会いしは(3)
目が覚めると、またカイはどこかへ行っていた。そのことに気付くと、眠りの名残でぼやけていた思考は一瞬で明瞭になり、慌てて身体を起こす。
ひとりにされてしまったのか。そんな不安に駆られたのだが、幸いなことにカイはすぐに戻ってきた。そう、あの美しい白銀の豹の姿で。
突如姿を現した豹は、まるでふわりとどこかから飛び降りてきたかのように軽やかな足取りだった。その姿を見た瞬間、思わず息が詰まってしまった。
彼は口に布で包んだ何かを咥えていた。それを地面に下ろすと布の四隅が広がり、中からいくつか赤い果実が転がり出てきた。見事に熟していて美味しそうだ。
豹はそのまま地面に座った。犬がお座りするように。ちょっと可愛いなとか思った途端、その姿がまるで蜃気楼のように揺らいだ。次の瞬間には、そこには人の姿のカイが立っていた。はらりと目にかかりかけた銀の前髪を搔きあげる仕草は、朝一番からどこか色っぽい。
「び、びっくりした……ほんとに豹、なんですね……」
「だからそう言ったじゃん」
分かってはいたが、やはり実際に見るのとでは違うと思う。朝一番から素っ気ないカイは、先程咥えていた時と同じように布の四隅をまとめて持ち上げた。その様子を見ていると、ふと彼の目の色が違うことに気付いた。
「目が……」
「目?」
「いまは紫色なのに、豹の姿の時は金色なんですね」
金色の瞳はただただ鋭く、獣だということを如実に感じさせるものだけれど、いまのカイの切れ長の瞳は綺麗な紫だ。神秘的で、とても静かなアメジスト色。
『ああ……』と呟きつつ、カイは隣に座って果実の一つをとりあげ、ごしごしと布でそれを拭った。
「獣の時は戦闘モードだから、目の色も変わる」
「そうなんですか……」
「はいこれ」
今しがた布で磨いていた果実を、こちらに差し出してくる。受け取ってそれをじっと見つめていると、カイはもうひとつの果実を豪快にかじった。布で磨いてくれたのは優しい気遣いだったのか。
皮を剥いたり、切り分けたりはしないのだろうか。そんなことも思ったけれど、この野外でそんな優雅なことは言っていられない。カイと同じように果実に口をつけた。カイは易々と噛み砕いているけど、彼に比べて歯の力が弱い少女がそうするには少し硬い。力を入れてなんとかかじると、そのあとは簡単だった。果実の実は外側と同じように真っ赤で、甘さと同時にちょっぴり酸味もある。水分も豊富で、内心水が飲みたいと思っていたので有難かったし、それよりもこんなに甘くて美味しい果実があるものかと感動した。
「美味しい……!」
「そう?」
「これ、なんていう果物ですか?」
「キリアだよ。林檎の一種。……これでそんなに感動する人、初めて見たよ」
キリアはどんな気候のもとでも成長し、年中逞しく実をつける果樹だという。水分を豊富に含んでいるために旅人には重宝されるし、勿論人間生活の中でも一般的な果物として有名だという。忘れてしまったとはいえ今更そんな常識を尋ねてしまった自分に赤面しつつも、カイは聞いたことはなんでも答えてくれた。
カイがとってきてくれたキリアの実をふたりで食べ終えたところで、カイはいきなり本題に入った。
「で、君はこれからどうするつもり?」
「どうするって……?」
「どこに行く、とか。何かしに行く、とか」
必ず聞かれるだろうと思っていた質問だ。けれども、曖昧ながらも用意していた返答は、いざ質問された瞬間には頭の中から吹き飛んでしまっていた。自分が誰でどこから来たのか、なぜここへ来たのか、そもそもここはどこなのか。それも分からないのに、どこへ行けばいいのだろう。
カイが一晩世話をしてくれたのは――多分、怪我を治した礼なんだろう。夜が明けたら、「じゃあね」と言って去っていく。そんな予感がずっと頭にはあって、もしそう言われたら行かないでと追いすがるしかなかった。こんな荒野で、ひとりになりたくない。
真っ白になった自分が比較的落ち着いていられたのは、一晩傍にカイがいてくれたからで。
「そんなの……全然、考えてないです」
「だと思った」
それは考えなしに見られていたということか。
「あのさ」
カイはぽつりと言葉を紡ぐ。
「俺、君についていこうと思うんだけど」
「え!?」
ついてきてくれる? カイが、自分に。逆ではなくて?
「どう?」
さらっとそう言うカイに、嬉しいながらも戸惑うばかりだ。
「そっ、それは願ってもないことですけど……! で、でもどうして?」
「恩があるから」
「昨日の怪我のこと? けどあれは私もよく覚えてなくて……」
「君にとってはたいしたことじゃないかもしれないけど、俺にとっては違う。命を救われた恩は、一生かけてでも返す。それが流儀で、掟で、俺の意思」
また本当に大きく受け取られてしまったものだ。カイのその言葉にはなんの打算もなさそうで、ただ伝わってくるのは誠意だけ。『恩返し』という以外の考えは事実ないのだろう。
「君が嫌なら、無理は言わないけど」
「い、嫌なんかじゃないです! あのっ……一緒に、行ってください、お願いします」
そう告げて、カイに頭を下げた。今頼れるのは目の前の化身族の彼だけ。ついて来てくれると言ってくれているけど、実際についていくのはこちらの方だ。生き方を、教えてもらわないといけない。
「ん」
改まったお願いに、カイは軽く頷くというあっさりとした反応を示した。その了解の動作に、心の底からほっとした。
カイは左耳の紫色の耳飾りを取り外した。揺れる銀髪に思わず見惚れていると、耳飾りを掌に乗せてカイはこちらに差し出してきた。
「これ、つけてくれる?」
「な、なんで……?」
「……似合いそうだから」
いくらなんでも無理のある理由だと受け取るのを躊躇っていると、カイは実力行使に出てきた。カイの手が頬に触れる。思わず身を固くすると、カイは右耳にいとも簡単に耳飾りを装着してしまった。自分の右耳に触れてみると、そこに金属の固い感触があった。
「ほら、似合う」
「嘘ですよね……?」
この『耳飾りを渡す』という行為が極めて重要なのだということを彼女が知るのは、もう少しあとのことだ。
お互い荷物らしい荷物もないので、一晩過ごした廃墟に別れを告げてさっさと歩き出すことになった。カイは右手をズボンのポケットに突っ込み、ちょっとそこまで散歩にという悠々とした歩き方だ。
少女の方はというと、スカートの裾が長いせいで歩きにくいことこの上ない。裾を踏まないようにと思って歩くとどうしても歩幅も小さくなり、カイとの距離がみるみるうちに広がった。それに気づくとカイは前方で少し足を止めてくれて、それからはのんびりこちらに歩調を合わせてくれるようになった。
「ご、ごめんなさい、遅くて……」
「別に急いでいるわけじゃないし、ゆっくりでいいんじゃない?」
カイは眩しそうに照り付ける太陽を見上げながら、やはりのんびりとそう答える。廃墟からは離れたがまだ土の色は白っぽいままで、草一本すら生えていない。そんな道なき道を、ふたりでゆっくり進んでいく。
「近くに街とか、あるんですか?」
「ヘベティカってとこがある。夕方くらいにはこのペースでもつくんじゃないかな」
会話はそれで途切れた。まさに一問一答。余計なことはまったく喋らず、話が逸れることもない。
「……あ、あの、カイ?」
「ん?」
「ここがなんていう国のどこなのか、とか……全部、教えてくれませんか?」
そう頼むと、カイは「うーん」と唸った。
「それ、俺に聞く? 国なんてものを作ってるのは人間で、国境や街の境目なんて獣にはなんの役にも立たないから、知らないことの方が多いんだけど」
「あ……そ、そうなの。ごめんなさい……」
叱られたような気がして俯くと、少し黙ったカイはおもむろに口を開いた。
「……ここは大陸の中で北部にあるフローレンツって国で、その最北端に当たるオスヴィン半島の先っぽだよ。さっきのあの廃墟は昔『オスヴィン』って名前の街だったんだけど、災害に襲われて街も土壌も壊滅したらしい。いまは夏だけど、冬になるとこの地域は一面雪だらけで歩けないほどだよ」
言葉に反して彼は地理に精通していた。ぽかんとしていると、カイはちらりとこちらを見た。
「俺みたいな化身族は、そうそういないからね」
「く、詳しいんですね」
「興味があっただけ。特にこの辺りは、俺のホームみたいなもんだし」
「でも、誰も来なくて寂しくないですか?」
「誰も来ないからいいんだよ。静かで」
……どうやらカイと自分は、感性が違うようだ。傍に誰もいないのは孤独で、とても寂しいと思う。けれどもカイは、逆にその静寂を好むというのだ。それはつまり、自分は孤独に慣れていないということか。
三時間ほどは黙々と歩き続けたが、次第に足の痛みが酷くなっていった。裾を踏まないようにと気を遣っていたから、変に負担をかけてしまったのだろう。カイはそれに気づいて少し足を止めると、太陽を見上げた。歩きはじめから定期的にカイは空を見上げていたが、それは太陽を見て時間と方角を確認していたのだと、このときようやく気付いた。
そういえば、いつの間にか景色が変わっている。青々と、まではいかないが地面には草が生えていた。遠くには背の高い木がぽつぽつと立っている。オスヴィン半島という死の大地は、歩くことに一生懸命になっていた間に抜けていたらしい。それでもまだ街どころか人の影すらも見えない。道は長そうだ。
カイは少しばかり進路を転換して、背の高い木の下に歩いてきた。ジャンプしても枝に掴まることすらできない、数メートルはありそうな高い木だ。その割に幹も枝も細く、折れてしまうのではないかと思うほどである。いまは夏季だとカイが言っていたので、葉も青々と茂っている。
カイは「ちょっと待ってて」と言い置いて、ふわりと地面を蹴った。あっと思わず声が出て、木を見上げる。カイはまるで飛翔するかのように軽々と枝を掴み、木に飛び乗ってしまったのだ。まったく危なげなく、するすると上の方へ登っていく。
いつ枝が折れてしまうんじゃないかと気が気ではなかったが、カイは登った時と同じように地面へ降りてきた。あんな高さから飛び降りたら足を折ってしまいそうだと思っていたのに、まったく痛がる様子はない。どういう足のバネを持っているんだろう。
カイが腕に抱えていたのは、朝食べたキリアの実だった。それを見てもう一度木を見上げる。さっきから辺りにぽつぽつと見えるこの木は、すべてキリアの木だったのだ。
「鳥でも仕留めてきたいけど、まだこの辺りに動物はいないから。水っぽいけど、これでお昼も我慢して」
「は、はい! 大丈夫です、ありがとう」
朝と全く同じ食事をした終えても、カイはしばらくその場にとどまっていた。休憩という意味だろう。有難すぎて泣けてきそうだ。
痛む足首を手で揉みほぐしていると、隣に座るカイが小さく欠伸をした。時間的には確かにお昼寝でもしたいくらいだ。今日は天気も良くて、夏だというのに北部地方だからか爽やかですらある。
「眠そうですけど……やっぱり、昨日一晩寝てないから」
「ふわ……あ、ああ違うよ。豹って夜行性なんだ。人の姿の時はそこまでじゃないけど、基本的に昼間は眠い」
カイはそう言いながら大きく腕を伸ばし、目をこする。なんというか、猫だな。豹もネコ科の動物だし、まるきり猫みたいだ。
ところで、さっきのカイの言葉で気になっていることがひとつ。
「鳥って……それもやっぱり、化身族なんですか?」
化身族は半人半獣の存在。いかに弱肉強食の世と言えど、人を食べるというのは――。
そんな風に思っていたのが、カイはひとつ首を振った。
「化身族以外の、純粋な動物もいるよ」
「そうなんですか」
「化身族は、戦うために進化していった種だ。豹のなかにも、化身族の豹もいるし、純粋な豹もいる。見分けるのはなかなか難しいけど」
戦うために進化。
何と戦うためなのだろう。天敵とか。他人とか。自分が生き残るために武力を身につけ爪を砥がなければならないほど、この世界は生きにくいのだろうか。
カイは胡坐を解いて足を前方に投げ出した。ストレッチをするように前屈を繰り返す。
「……君は、知識欲の塊みたいな人だね」
「え?」
「良いことだと思うよ」
それだけ言ってカイはすっくと立ち上がった。
「そろそろ行こう。夜までには着きたい」
「あ、はい」
休憩のおかげでだいぶ足の痛みは治まった。歩き出せば同じことだろうが、少なくとも安全な場所に行くまでは辛抱だ。
キリアの木の木陰を離れ、また日の光の下を歩き出す。十分もしないうちに、ただ草が生えただけの地面だったそこは整備された道になっていた。砂利などは避けられ、草もなく、煉瓦を敷き詰めた古い道。今はもう使われなくなって久しい『オスヴィン街道』だと、カイが教えてくれた。
整備された道を歩けるだけで嬉しいものだ。足の痛みには起伏のある大地を歩いて来たことにも原因があるので、だいぶ楽になった。
「……そういえばさ」
カイは本当に、唐突に話し出す。カイの履いているブーツが煉瓦の道の上でコツコツという音を立てているほかに音らしい音がなかったので、少し驚く。
日は少し傾いてきて、昼間は鮮明に見えたカイの横顔も少しばかり暗く見える。数時間、時々会話をしながらも黙々とオスヴィン街道を歩いてきた。あまりに直線的な街道で終わりが見えないものだから、本当に前に進んでいるのかとそろそろ疑いたくなってくる。
「はい?」
「そろそろ、君のことなんて呼べばいいのかが問題になってくるんだけど」
「……あ」
当事者の口から出たのは、そんなまぬけな一言だった。そうか、名前。まったく考えていなかった。これまでカイは『君』と呼んできて、それだけで通じていたから何の問題もなかったのだが。街に入って、誰か別の人間と話をする時に、自分の名を名乗れないのは少々問題だ。
今更になって思い出した自分も自分だが、こんなところまでその問題を先延ばしにしてきたカイもカイだと思う。
「なんか好きな名前ないの?」
「な、ないですよそんなの……」
「じゃあキリアでどう?」
「短絡的すぎますよ」
「えー、気に入ってるみたいだからいいと思うんだけど」
「気に入ってるのは名前じゃなくて味です」
「オスヴィンでどうだ」
「適当ですね」
どうだ、って言われても。考える気がゼロなのは思い切り伝わってくる。オスヴィンとか響き的に男性の名前のような気がするのだが。
意味もなく銀色の前髪をくいっと引っ張ったカイは、その手を下ろして沈黙した。その微妙な間が、何かもったいぶっているような気がする。
そして彼は呟いた。
「――『イリーネ』、とか?」
「イリーネ」
口の中で呟いてみる。綺麗な、名前だ。
そんなまともな感性がカイにあったんだと、ちょっと酷いことを考えてしまう。
「良いお名前ですね」
「よし決定」
「え、えぇ?」
「まあいいじゃない。仮の名前なんだからさ」
「それは、そうですけど……」
カイの横顔は、やはりいつものように静かだ。
「……イリーネって、誰の名前ですか?」
多分、鋭い質問だったのだろう。カイがぴくっと眉を動かしたのを、見逃さなかった。辛抱強く待っていると、カイはひとつ溜息をついた。
「俺が昔出逢った、人間の女の子の名前」
そんな人が、いたのか。
「けどこれからは君の名前だ。よろしくね、イリーネ」
カイはそう言ってさっさと歩を進める。遠くに、街の灯りのようなものが見えていた。
「は、はい!」
イリーネは、そう返事をしてカイの後を追いかけた。