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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
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◆山岳を越えて(10)

 急激に失速したカイは地面に横倒しになる。途端に身体が淡く光り、化身が解けてしまった。もはやカイの身体に闘気は一切なく、ただ身をよじって立ち上がろうともがくだけだ。

 カイの腹部は真っ赤に染まっていた。腹を貫いていたのはツララのような尖った氷だった。


「……カイ!」


 ゼタが化身を解いて倒れたカイの下へ駆け寄る。カイの腹に突き刺さっていた氷は自然と消えたが、傷は消えない。額に冷や汗を滲ませながら、カイは呻く。


 カイが盾を破った瞬間、咄嗟にゼタは氷槍を投じてしまったのだ。それがカイの腹を貫いたということだ。つまりそれだけゼタを切羽詰らせることができたということだが、カイは情けない自分の心を呪った。――心のどこかで、ゼタはカイを攻撃しないと思っていたのだろう。だから、こんな風にぬかるのだ。

 とめどなく流れる血を見て、ゼタが壁際に控えているファビオに声を投げかけた。


「手当を……」

「……ッ、必要ないっ……」


 カイはなんとか床に身体を起こした。勝者が敗者に手を差し伸べる、そんなことは化身族の間ではご法度だ。長というゼタの立場からすれば、なおのこと。


 傷は深い。きちんと手当てすれば致命傷ではないだろうが、放置すれば失血死する可能性もある。


 だが、その前に。

 なんとしてもイリーネとチェリンだけは。あのふたりだけは助け出さなければならない。この身を引きずってあの石牢まで戻り、ふたりをニムまで帰らせる。それをしなければ、死んでも死にきれない。

 いや――死ぬ気なんて、ない。


 人の姿では動きも遅くなる。もう一度、化身を。ありったけの力を使って獣になって、この場を脱する。この傷でも、豹のカイを追って追いつく者はそういない。

 だから化身を――と願っても、腹の激痛が集中力を散漫にさせる。まずい、化身ができない。いつも特に意識せず行っていた化身が、こんなにも難しいことだなんて。


「くそっ……」


 立ち上がろうとする意思に反して、膝が地面に着く。


 自分は父に負けたのだ。このままここで倒れれば、おそらくカイは二度とフィリードから出られない。イリーネも殺されてしまう。チェリンは――どうなるだろう。彼女はこの里の出身だが、掟破りの裏切り者。カイと同じく、人間に興味を持ったがゆえに里を出た女。きっと彼女も、里に留まることは許されないだろう。


 ――案外、俺も弱いな――。


 ふっと意識が遠のきそうになった、その時だった。



 何か丸いものが室内に投げ込まれた。草で編まれた小さな球だ。室内にはカイとゼタ、ファビオしかいない。そもそも、この部屋は長の間だ。誰がこんな不心得なことをした?


 ファビオが不審げにその球を覗き込む。それを見た瞬間、カイはその草球の正体を知った。はっとして振り返ろうとしたとき、突如として球から凄まじい勢いで白煙が上がった。


「な、これは……!?」

「くっ!?」


 ゼタとファビオの狼狽した声が、煙の向こうから聞こえる。掌サイズの草の球から発生した煙は、既に広い室内を真っ白に染め上げている。

 つんとした匂いが鼻につく。カイが咳き込みかけると、何者かが後ろからカイの鼻と口を抑え込んできた。感触からして、人の掌だ。条件反射で振り払おうともがいたが、その相手はなかなかにしぶとい。カイともあろう者が、逆に抑え込まれるほどの力だった。

 カイのすぐ耳元で、低い声がする。


「暴れるでないよ。目を閉じて」


(……アスール!)


 聞き覚えのある声、知っている匂い。冷静になってみれば、すぐに分かる。先程まで一緒にいたアスールではないか。

 アスールはカイが煙を吸い込まないように守りながら、静かにカイを支えて立たせる。そうしてカイの怪我に障らないようにして入口へと歩きはじめる。と、背後にゼタの声がかかった。


「待て、カイ!」

「ふふん、彼は私が頂いていくよ」


 こんな状況で、いっそ楽しそうなアスールの声だ。部屋を出てあの地下道まで戻ると、煙も薄れてきた。そこでようやく、カイの腕を肩に回し、逆の手で背を支えてくれているアスールの姿を認識することができた。


「アスール、なんで……」

「お前たちが無事ニムまで戻るか見届けようと、身を潜めていたのだがな。あの狼の集団に連れていかれるのを見て、慌てて追いかけてきた」

「もしかして、ずっと見て……?」

「ああ。お前が負けるという場面を見ることができて、なかなかに見物だったよ」


 随分と性の悪いことを言われているが、カイはそれよりも愕然とした思いでいっぱいだ。ずっと見ていた? 一体、どこから? あの長の間に出入口はひとつ、勿論窓も何もない。


「どうやって里の内部まで忍び込んだの? この里の化身族は、みんな……手練れ揃いなのに」


 人間より格段の戦闘力を誇る化身族が、アスール一人の侵入に気付けなかった。気配を消すくらいなら、そこそこ腕のある人間でもできるだろう。だが化身族は鼻も利くし、それ以上に『本能』というものがある。それをかいくぐったとは――。

 ()なんだ、この男は。


「暗殺術を会得しているのでな。隠密行動は容易いさ」

「暗殺……? なんで……」

「それを自分が知っていれば、自分に使われた時に対処ができるではないか」

「誰に……あんた、誰に命を狙われているんだ?」

「そんな話はあとでいくらでもできるだろう。とにかくイリーネや、兎の姫君との合流が先だ。……階段があるぞ、気をつけろ」


 アスールが気遣って声をかけてくれたおかげで、カイは階段に躓くこともなく地上に戻ることができた。血の痕が点々と残っているが、これは致し方ない。


「貴様ッ、どうやってここに!?」


 そして、カイを抱えて無防備な状態のアスールが里の者に見つかるのも、致し方ないことだった。ファビオの部下である狼の一隊が化身して駆けてくる。だがアスールは取り乱すこともなく、懐からあの草で編んだ球を取り出し、一瞬で火をつけて狼に向けて投じた。すぐに球は白煙を吹き出し、それを浴びた狼たちが悲鳴と共に倒れていく。

 また悠々と歩きはじめたアスールを、ちらりとカイは見上げる。


「レキの葉……随分と用意周到ですこと」

「ほう、そんな名なのか? いやなに、たまたま傍に生えていて、たまたま編んでみようと思って、たまたま火をつけてみたら、たまたまあの煙が出たに過ぎんよ」

「嘘つけ」


 そんな偶然があってたまるか、とカイは毒づく。レキは世界各地に広く分布する植物だ。その葉に火をつけると、あのように大量の煙が発生する。しかもその煙には強い催涙効果があるため、古来より目くらましでよく使われていたものだ。


「化身族は特に、目と鼻をやられると動けなくなるからな。時間稼ぎには充分だろう」


 その後も何度か化身族は襲ってきたが、それらはすべてアスールの投じるレキの葉で撃退した。フィリードの化身族たちはこんな小道具を戦闘に用いることを念頭に置いていないので、効果は覿面だった。あまりに呆気なく倒されていく勇猛な同郷の者たちに哀れな視線を送りつつも、カイは足を止めずにイリーネの下へ急ぐ。そこでふと、アスールを見やった。


「……いいの? このままだと、イリーネと顔を合わせることになるよ」

「……うむ。ここまで来てしまっては仕方あるまい。いつかはまみえようと思っていた、それが今になっただけだ」


 アスールは少し笑う。こうしてみると、驚くべきことにアスールはカイより身長が高いことが分かる。昔はあんなに小さかったのに、と妙な感慨にふけりそうになってしまって慌てて首を振る。


 集落の入り口の近くにある地下の石牢の傍には、当然のこと牢番がいた。例にもれずトライブ・【ウルフ()】がひとり。

 さすがにイリーネらがすぐ傍にいるのが分かっていて、レキの葉を使う訳にはいかない。そんなことをすれば彼女らをも巻き込んでしまう。


 カイはなんとか歩ける程度でしかない。どうするのかとアスールを見てみれば、アスールは石牢のすぐそばにカイを座らせた。そして自分は剣を抜き放ちながら前に歩み出る。


「……! 無茶だ、アスール」


 カイがなんとか制止しようと声をかける。人の身で化身族に勝つのは至難の業だ。アスールならばできるかもしれないと思ってはいても、やはり危険は伴う。


「案ずるな、そこそこ私は強いのだ」


 のんびりとそう言って、アスールは抜き身の剣を構えて腰を落とす。凄まじい勢いで突進してくる狼を迎撃するつもりだ。後の先を取る、剣技らしい一撃――。

 飛び掛かった狼との絶妙な間合いを計って、アスールが剣を振り抜く。


 狼は見事に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた。峰打ちだったらしく、狼は口から泡を吹いて気絶しているだけだった。


「……すご」


 思わず、素直にそんな称賛の言葉が口から出た。そこそこどころではない、アスールというこの男はとんでもない強者だった。今時では時代遅れの剣を扱う彼だが、この技術は銃などでは決して体現できない。剣士はカイも数人見たことがあるが、アスールほど自在に剣を扱う人間は初めてだ。


「さ、これでよかろう。牢を開けるぞ」


 涼しい顔のアスールにもう何も言えず、カイは地面にへたり込んだ。実際もう動く気力は残っていなかったのだ。

 アスールが地面に掘られた穴の蓋を押し開ける。そうして日の光が差し込んだ地下牢に、ふたつの人影。地上を眩しそうに見上げたふたりの女性を見て、アスールはふっと笑みを浮かべたのだった。


「待たせたね、姫君たち」

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