◆山岳を越えて(9)
地面に掘られた穴。作物の植えられた畑。思い思いに昼下がりを過ごす獣たち、畑仕事に精を出す人たち。何もかも記憶にあるままの光景で、まるであの頃に戻ったようだ。
――ついに俺は、帰ってきてしまった。二度と戻らないと決めた、このフィリードに。
「こちらです」
ファビオが恭しく先導する。その態度がむず痒くて少し眉をしかめた。
「案内してもらわなくても分かってるよ」
「そうでしたか、失礼しました。てっきりこの集落のことはお忘れになられたかと」
刺々しい嫌味が突き刺さる。それも当然か――血統ではなく、実力で次期の長にと推されていたカイは、自らその座を捨てたのだ。喉から手が出るほど長になる強さが欲しかった集落の男子諸君からすれば、天から与えられた才能を放棄したとんでもない奴という風に映っているだろう。
ファビオもそのひとりだ。立場上彼は長一族に仕える男であったから仕方なくカイに付き従っていたが、実際のところは複雑だったはずだ。
カイが姿を消した後、長にと推挙されたのは間違いなくファビオだ。カイが里で暮らしていたころから、ファビオは戦士として集落の防衛にあたる責任者だった。彼が先程まで率いていた狼の集団が防衛班で、彼自身も屈強な狼に化身する。世に出れば、間違いなくカイと並び立つほどの賞金をかけられるだろう。
この街には賞金首になりえる化身族がごろごろいる――そしておそらく、カイの父である長は、賞金一億ギルを超えるであろう猛者だ。
――戦いになったら、勝てるのか。この俺が……?
(勝たなくたっていい。逃げるが勝ちさ)
それは武を重んじる化身族としては破綻した思考だったが、今更カイは気にしない。昔から、カイは存在自体が破綻していたのだから。
それにしてもいつの間に自分は、相手の強さを数字で考えるようになったのだろう。自分が懸賞金九八〇〇万ギルで、父は一億を超えるだろう? それがなんだ、どんでん返しだってあり得るじゃないか。強さは数字では表せない――もし表せるのなら、カイに挑んでくるハンターなどいなくなるはずだから。
父はもう長いこと戦いをしていない。自分はこの三十年、戦いに明け暮れた。経験は父にも劣らない。劣るのはきっと――威厳とか、責任とか、そういう威圧感だ。
そういえば、アスールはどうした。あの男、まさか先に捕らわれたのか、もしくは殺されたのか。……思ってから首を振る。そんなはずがない。アスールよりずる賢く抜け目のない男を、カイは知らない。きっとファビオの目から逃れることができたはずだ。
そんなことを考えて、気付く。指先が小さく揺れて動きが止まらないのだ。
震えている。何に? ――恐怖に。
勝たねば失うのは、自分の命だけだった。だがいまカイの両肩には、イリーネとチェリンの命がかかっている。誰かの命を背負うのは、こんなに恐ろしいのか。
イリーネらを閉じ込めた牢の番人を倒すのは簡単だ。しかし逃げれば、ファビオ率いる狼の防衛班が追ってくる。そうなれば分が悪い。
どうしたって、カイは父親に向き合わねばならない――。
最初から分かりきっていたことを再確認して、カイは小さく息を吐き出す。柄でもない、緊張しているようだ。だからあれこれ考えては、とりとめもなく拡散していく。父に会って何を言えばいいのかなど、会ってみなければ分からないのだから。
一際大きな穴がぽっかりと地面に開いている。そこには簡素な段差が組まれており、他と比べればかなり整った道になっていた。
人間から姿を隠すという目的もあり、また獣らしい野生の生活を心がけたせいで、フィリードの住民の居住空間はもっぱら地下になっている。カイがいま歩んでいるのは、長の住居への地下道。何度も通った、実家への通り道だ。
暗い地下道でも、視界を遮るものはない。ほどなくして重厚な造りの扉に行き当たる――木を切りだして造った扉ではあるが、こういうときだけ人間族の技術を頼るのだから、都合のいいものだ。
扉が開く。室内は仄かに火の光で明るい。
高い天井。円形のだだっ広い空間。頑丈に固められた土の壁。地面には獣の皮で作った絨毯が敷かれている。
記憶にあるままの、『長の間』だった。
部屋の中央に、一人の男が佇んでいた。腕を組み、仁王立ちでこちらを見つめてくる。銀色の髪、紫色の瞳、顔の造りは、嫌というほどカイと似ている。
一般に化身族の間で強さを測る場合、それは力の強さであることが多い。怪力である者はどうしても身体も大柄になり、一目見ただけで分かるのだ。
だがカイや、目の前に立つこの男はどうだろう。どちらも細身で痩身、華奢で美しい。隣にファビオが立てば、どうしたって頼りなく見えてしまう。雪豹の一族はみなこうなのだ。強さは見た目では測れないということを体現する存在であるかのようだろう。
カイは真正面から男と対する。ファビオは壁際に下がった。
男も何も言わない。重苦しい沈黙が続いたのち、先に口を開いたのは男だった。
「……何か、私に言うべきことはないのか?」
「『ただいま』とでも言えと? 冗談やめてよね」
ばっさり切り捨てると、ふっと男は笑った。
「相変わらずだな、カイ」
「そっちこそ……ゼタ」
男、ゼタは腕組みを解いた。
「まだ父を名で呼ぶのか、お前は」
「いいでしょ、別に」
父親といっても、どう見てもゼタはカイより少し年上にしか見えない。そんな男を父親と呼ぶのは、なんとなくカイが嫌だったのだ。おそらくゼタは百歳前後だろうが、それでも見た目が三十代半ばほどにしか見えない若さが恐ろしい。
「まさかお前がニムに戻ってくるとはな。どういう心境の変化が……」
「俺のことはどうでもいい。……どうして人間を殺したんだ。彼らは偶然、フィリードの領域に足を踏み入れただけ……人間に干渉しないのは勝手だけど、殺すのは間違ってる」
ゼタの言葉を遮って問いかけると、それまで幾分か柔らかかった父の顔が引き締まった。もう一度腕を組み、真っ向からカイを見据える。
「人間たちの侵略を防ぐための防衛強化措置を取っているだけだ。ここ最近、人間たちはフィリードを攻略しようとでもしているらしい。頻繁にニムに足を踏み入れるようになってきた」
「だからって」
「……カイ、お前には何度も話したはずだぞ。我らフィリードの民は、かつてフローレンツという国に飼われていた奴隷だった。かの国が軍国家として栄えた当時、我々は人間たちに従属し、戦った過去を持つ」
「知ってるよ。戦争が終わっても労働に従事させられていた化身族たちを率い、ニムに逃げ込んで集落を開いた。それがあんただ」
何度も聞かされた話だった。
二百年ほど前――現在のフローレンツ王国は軍国家として大陸に名を轟かせ、他国への侵略を進めていた。フローレンツがそれほどまでに強力な国となった理由は、ひとえに『奴隷』としての化身族の存在だ。化身族たちはみな人間たちより力があるために肉体労働をさせられ、戦時においては最前線で戦う兵士として投入された。
その妙な人間と化身族の上下関係は終戦後も続き、フローレンツにおける化身族の権利というものはないに等しかった。変わらず奴隷として日々生きていた仲間たちの現状を打開しようと立ち上がった若者、それが当時のゼタだ。
ゼタもまた生まれた直後から奴隷として生きることを強要され、フローレンツのさる名家の家で働いていたらしい。あまり詳しく話したがらないのでカイもよくは知らないが――彼は仲間たちをまとめ、街を脱出し、人が踏み入ることのないニム大山脈の奥深くに小さな集落を創ったという。それが今のフィリードであり、ここに住む者の大半が過去奴隷として生きた経験のある化身族だった。
だから、彼らが人間を嫌うのは当然だろう。カイとてそう思う。けれど――先にも言った通り、不干渉を貫くならばまだしも、あまりに理不尽に人を殺し過ぎではないか。確かにあの山賊たちは一歩間違えば山火事を起こすところだった。しかし、フィリードの領域に人が迷い込むのは今に始まった話ではない。昔は迷い込んだ人間は見張り、それとなく元の道へ戻るように誘導したりしたものだ。
それなのに、問答無用で殺しにかかる。非道ではないのか。
「俺が言いたいのはそれだけだよ。もう行かせてもらう。俺の連れを解放してもらえないかな」
チェリンが付いていてくれているとはいえ、彼女たちの身が心配だ。フィリードの者たちは人間への強い嫌悪感を持つ者が多いから、住民が早まった真似をしないとも限らない。
しかしゼタは沈黙し、息を吐き出した。そして口から出た言葉は、カイの要望に応えるものではない。
「……【氷撃のカイ・フィリード】、か。お前もまた、大層な名で呼ばれるようになったものだ」
「それが何」
「お前は自分の好奇心に従うまま、長い年月を人間の世界で過ごした。その結果がその名と、賞金首という肩書だ。常に命を狙われ、眠れぬ夜を過ごすこともあったはずだ。フィリードの戦士であるお前が人間界で得たのは、それだけだろう」
聞き捨てならない一言に、かっと頭に血が上った。普段は冷めていると評されるカイが、唯一激情する相手――それは父親だった。
「……勝手に決めつけるな! 俺はね、この集落にいたままじゃ決して経験できなかったことと、たくさん出会ってきた。俺がこの三十年で得たものは、一言で済ませられるような簡単なものじゃないんだ」
「カイ」
「あんたは俺に、集落に残れと言いたいんでしょ」
問いかけると、ゼタは回りくどい言い方をやめた。
「そうだ。私ももう若くはない。いずれ老いが始まるだろう。そうなった時、次にこのフィリードを率いるのはお前なんだ、カイ。一度里を出た掟破りの件は、目を瞑ろう」
「……イリーネはどうするつもり?」
「あの娘は人間だ。集落の場所を知ったからには、生かしてはおけない」
即答だった。カイは一度目を伏せ、それからゼタを見つめる。その瞳は、黄金色に輝いていた。
「――なら、俺の答えは一つ」
カイの身体が淡く光を発し、ゆっくりと輪郭がぶれていく。そうして現れた、白銀の豹。
身構えるカイの姿に、ふっとゼタは苦笑を漏らした。
「本当にお前は相変わらずだな。口で決着がつかないと、すぐ牙に頼る。そのくせ一度も勝てたことがないのだから、よく何度も挑むものだ」
(うるさい……!)
怒りを込めて低く唸ると、正面に立つゼタの身体も光を発した。
カイと同じ、トライブ・【レパード】。その中でも特に『雪豹』と評される種族。しなやかな肢体と白の体毛、そしてカイにはない特有の斑点。身体つきもカイより大きい。
世界には数えきれないほど【レパード】がいるが、間違いなくその頂点に君臨するのは、このゼタだった。
ゼタが吠える。その瞬間にびりびりと威圧感が襲ってきて、カイはいっそう身を低くする。とんでもない気迫だった。
武芸も、魔術も、すべてゼタから教わったものだ。昔から何度本気でぶつかっても、簡単に転がされてしまう。それほどまでに父の力は圧倒的だった。
だがやらなければいけない。契約主だからとかではなく――ただ、イリーネを守るために。
先手を取るのは得意ではないが、このときはだいぶ気が昂ぶっていた。ゼタの首を狙って飛び掛かったカイだったが、ゼタはひょいとそれを避ける。それは想定内のことだ。
後ろへ飛びのいたゼタを追いかけて前に踏み込み、かなり接近した状態で“凍てつきし息吹”を発動させる。至近距離で炸裂した冷気にゼタの身体が浮いたが、危なげなくゼタは受け身を取る。
魔術を織り交ぜながらひたすらに攻めても、ゼタはまったく隙を見せない。それどころか、ゼタは一切攻撃に転じないのだ。まるで遊んでいるかのように、カイの攻撃を避け、受け流すだけ。
――むかつく。
距離を取って、改めてゼタを見やる。息ひとつ乱さず、悠々としたものだ。
考えろ。どうすれば勝てる。どうすればこの場を脱することができる。
魔術――カイの使う“氷結”から派生する奥義はすべて、ゼタから教わったもの。おそらく何を使ったところで、すべて見切られるだろう。
ならば体術。この三十年戦い続けた自分だ。基盤はゼタと同じ身のこなしでも、必ず意表を突かせることのできる技があるはず。
そう、例えば――集落にいたころには苦手だった、体力技。
昔は持久力がなく、ひたすら攻めるという攻撃が苦手だった。どうしてもどこかで身を退いて、距離を取りつつ身体を休めてしまう。だが、いまなら。
食らいつく。避けられる。追撃する。ここまでの流れは先程と同じ。ここからが重要だ。
いつものカイならば間合いを取るであろうタイミングで、逆にカイは踏み込んだ。ゼタがどの方向へ飛び退ろうとも、すぐさま追撃をする。
同時にカイは“氷結”で氷の柱を打ち込み、ゼタの逃げ道を塞いで行った。どれもゼタは破壊してしまうが、それを『破壊する』という一瞬の隙がカイには貴重だ。
この食らいつきに、さすがにゼタも意表を突かれたようだ。それはそうだろう、ゼタはカイの戦い方を一番よく知っているのだ。
至近距離で“凍てつきし礫”を発動させる。氷の弾丸がゼタに襲い掛かった瞬間――空中でそれは消えてなくなった。
ゼタが氷の壁――“凍てつきし盾”を張ったのだ。思わずカイは笑みを浮かべそうになった。初めて、ゼタが回避以外の行動を取ったのだ。カイが、取らせた。
カイは怯まず氷の壁に突進した。そしてそのまま、壁に当て身を食らわせる。通常ならば破れるはずのない分厚い氷の壁を、他の誰が破ろうなどと考えるだろうか。だがカイはそれを試みた。同じ術を扱うカイだからこそだ。
冷気を身体にまとわせたカイと氷の壁の間で、凄まじい力の衝突が起こった。そしてその衝突に勝ったのは、カイだ。
壁が一気に崩れる。案外この壁は圧力に弱いのだ。所詮は一度の攻撃を防ぐための消耗品でしかない。
壁を破った勢いのまま、壁の向こう側にいたゼタめがけて飛び掛かる。ゼタの大きく見張った金色の目が見えた。その瞬間――。
カイの口からか細い悲鳴が吐き出された。




