◇山岳を越えて(8)
何が起こったのか、さっぱり分からない。
山賊たちの悲鳴が聞こえたから様子を見に行けば、彼らは殺されていて。次に現れたファビオという人は、カイとチェリンの知り合いらしい。特にカイは、ファビオに丁寧な口を利かれていた。
掟がどうの、侵入者がどうのという話のあと、イリーネらはたくさんの獣に包囲されていた。それは初めて見る、トライブ・【ウルフ】の集団だった。灰色の毛をした狼たちがじりじりと包囲してきて、カイもチェリンも抵抗はできなかったようだ。
そのまま、狼たちに包囲されてイリーネたちは山を移動した。屋敷よりもさらに高所へ。さすがに道が険しくて息が上がったが、カイの手助けで何とか進むことができた。だがとにかく標高が高い。軽い頭痛に襲われてふらふらし始めたのに気付いたチェリンが、肩を支えてくれる。ふたりとも無言だったが、傍にいてくれるだけで安心できた。
そうしてイリーネの前に突如として現れたのが、ひとつの集落だった。
集落と分かったのは、畑があったからだ。一面が全部畑で、作物が植えられている。だが周囲に建物はなく、地面や岩壁にところどころぽっかり穴が開いているだけ。しかしなんとなく分かる――あれが彼らの『家』なのだと。
「……ここは、何も変わってないな」
カイがぽつりと呟く。
カイの良く知る、ニム大山脈の集落――ここはもしかして、故郷なのか。カイがあれほど、関わることを拒絶してきた、故郷フィリード。
その時、ファビオがイリーネの腕を掴んで強く引いた。なすすべもなくイリーネはそちらへよろめいたが、彼女の足元に地面はなかった。
「わっ……!?」
空中を踏んだイリーネの身体は傾き、重力に引っ張られて落下した。背中を硬い場所に打ち付けてずきずきと痛む。
落とされたのは地上から二メートルほど地下に掘られた穴だった。頑張れば穴の縁に手をかけられそうな高さではあるが、なかなか難しそうだ。
「ちょっと、何してくれてんの!?」
「人間を里に入れることはできない」
「あんたねぇ、相手は女の子なのよ! もっと丁重に扱いなさいっ、それでも男なの!?」
「お、女だろうが人間は人間だ! 少し黙ってろチェリン!」
姿は見えないが、チェリンとファビオの声がする。それを無視してカイが穴に飛び降りてきた。地面に身体を起こしたイリーネを支えてくれる。
「大丈夫?」
「なんとか……」
服についた砂を手で払いながら、カイは息を吐いた。
「ほんと、ごめんね。俺の問題に巻き込んじゃって」
「ここが、カイの故郷……なんですよね」
「そう、フィリードだ。……言ったでしょ、ろくな場所じゃないって」
こんな状況だというのに、カイは笑ってみせる。いや――こんな状況だからこそ、か。
するとファビオが穴を覗き込んできた。
「カイ様。貴方にそこにいてもらっては困ります。どうぞこちらへ」
カイは頭を掻き立ち上がった。
「イリーネ、すぐ迎えに来るから。少しだけ、待ってて」
「はい。……気を付けて」
カイが穴を出るのと入れ替わりに、チェリンが飛び込んできた。ファビオが何か言いかけるのを制して、チェリンは腕を組んで穴の中からファビオを見上げる。
「あたしはここにいる。罪人だもの、牢に入って当然でしょ?」
「……好きにしろ」
ファビオはそう言って引っ込んだ。するとすぐに、穴に石でできた蓋がされた。隙間から日の光は入ってくるものの、ほぼ暗闇に近い。そして足音が遠ざかると、一気に洞穴の中は静寂に包まれた。
チェリンはイリーネのすぐ傍に腰を下ろした。そして懐をまさぐり、手元で何か作業をする。するとぱっと室内が明るくなった。火打石を使ったらしい。安物ではあるが蝋も持っていたらしく、光源は確保できた。
「やれやれ……荒っぽい奴らね」
「これから、何が起こるんでしょう……カイは、大丈夫なのかな」
膝を抱えたイリーネが呟くと、チェリンは微笑んだ。
「あいつなら大丈夫よ。里の奴らは、カイには手を出さないわ」
「……それは、どういう?」
「そうねえ……どうせ暇だし、全部教えてあげる」
チェリンはそう前置きして、語り始めた。
「ここはフィリードって集落。これについては、カイから聞いてる?」
「人間と交わることを嫌った化身族たちの集落、ですよね」
「そうよ。人間たちはこの場所を知らないし、化身族でも知らないことが多いわ。でも、フィリードに来ることを強く望んだ化身族たちは、なんとかこの場所を探し当てて身を寄せる」
世界最高峰ニムの、山深く――一般人なら絶対に足を踏み入れない秘境。山中で遭難すれば、助からない可能性が高い。それでも化身族は、この場所を求めるのだ。
「……あいつも、あたしもね。この集落で生まれたの」
「チェリンも……!?」
「ええ。生まれる場所を選べないって、なかなか辛いわよね。人間を嫌う両親から生まれた子供が、同じように人間を嫌うかといったらそうではないもの」
だから、チェリンはファビオと知り合いだったのか。裏切り者とは、里を抜けたということだろう。里の存在を知る者が外に出たら、フィリードの情報が漏洩するかもしれない。それを恐れて裏切り者に厳しくするのは、当然の措置だ。
「あいつ……カイは、かつてフィリードを創り上げ、いまも集落をまとめる長の息子よ。この集落をひとつの国と考えるなら、開祖にして現国王の息子。カイは王子様なわけ」
「そ……そうだったんですか」
長の息子――いずれ集落の支配権を継ぐ者。まさか、カイがそんな生まれだったとは。
だが人間の世界と、支配者の意味合いは違う。人間たちは支配者を選ぶとき、血統を重んじる。化身族では、力を重んじる。カイは以前そう言っていた。
ならば、カイの父親というのは、この集落で最高の強者ということか。カイの強さのルーツは、そこなのかもしれない。
「カイは長の息子として当時から期待されていたらしいわ。確かにとても強かったようだけど、でもそれ以上に変人みたいでね。強さにさほど興味がなく、人間の暮らしに興味を持って、閉鎖的な集落のありように疑問を抱いていた。敬遠される存在だったんでしょうね」
「でしょうねって……チェリンはカイのことを知っているんじゃないんですか?」
推測ばかりのチェリンの言葉にイリーネが首をかしげると、チェリンは微笑んだ。
「あいつが生まれたのは五十年前で、里を出たのが三十年前。あたしはまだ二十四歳よ。あたしが生まれたとき、もうあいつはこの里にいなかったの」
チェリンは見た目通りの年齢だったようだ。寿命の長い化身族で二十四歳とは、まだまだほんの子供なのだろう。
「どうして里を出たのかはあたしも知らない。でも、きっと……あいつはこの里に嫌気がさして、出て行ったのよ。人間の生活に触れてみたいって」
「人間の生活……」
『俺は、変わり者だからね』
いつかのカイの言葉を思い出す。化身族なのに、人間の歴史や国に興味があった。一般的な化身族でも珍しいのに、フィリード出身者としてはさらに異例だ。幼いころからニムの街によく遊びに行っていたようだし、確かに変わり者だったのかもしれない。模様のない白銀の獣ということも、変人具合に拍車をかけただろう。
「将来は長になることを期待されていただけに、一族が総出でカイの行方を追ったらしいけどね。結局見つからなくて、みんな諦めた。そのうち【氷撃のカイ・フィリード】って異名が知れ渡るようになって、フローレンツにいるってことは分かったんだけど……誰も探しに行こうとはしなかった。賞金首になったということは、それだけ人間に近づいたということ。そんなカイがフィリードに戻ってくれば、カイを追ってハンターもやってくるかもしれない。それを避けたかったらしいわね」
集落に戻ることもできず――いや、カイのことだから、きっと『戻らなかった』んだ。
蝋がゆっくりと溶け、炎の寿命が減っていく。この分ではすぐにまた暗闇に戻るだろう。
「……あたしも、あいつと一緒よ」
「え……?」
「あたしはこの里が嫌い。獣として生きるのは嫌なのよ。さすがに山の恵みだけで生きていくのは辛いから、畑は作ってる。けど農作業をする以外の時間は、ほぼ獣の姿で暮らしていたわ。嫌で嫌で仕方なかった。あたしは……うん、人間になりたかったの」
人間に接することを禁じられた集落――そこで生まれた子供が、そこまで接触を禁じる『人間』に逆に興味を持ってしまったのは、当然かもしれない。
「あたしにとって、カイは英雄だった」
ぽつりと飛び出たチェリンの言葉に、イリーネはぎょっとした。カイが英雄? そんなことをチェリンが思うなんて、似合わないにも程がある。その驚きを察したのか、チェリンも赤面して早口で言い訳じみたことを言う。
「だって、自分の好奇心に従って里を捨てたのよ? そんな思い切ったことをできるカイが羨ましくて……憧れだった。初めてカイのことを母親に教えてもらったとき、心が躍ったのを覚えてる。いつか絶対、あたしもあいつの後を追いかけてやるんだって」
「それでチェリンも、ニムの街に……?」
イリーネの言葉に、チェリンは頷いた。
「五年前に、思い切って里を出たの。とりあえずニムの街で、人間らしい生活ができるように修行しようと思って。……でも、駄目ね。どうやって人間と接すればいいのか分からなかったの。必死で頼み込んで宿屋に住まわせてもらいながら働いて……大変だったけど、すごく楽しかった。人間たちが、里のみんなが言っていたような嫌な奴らだとは思えなかったし」
人間の世界の常識すら知らない状態で街に入り込むのは、それは大変なことだっただろう。不安だっただろうし、その日一日の食料さえ手に入らないかもしれない。そんな恐怖を、きっとカイもチェリンも味わったのだろう。
「慣れてきたら山を下りて、フローレンツに行こうと思っていたの。その矢先よ、あんたとカイがニムに来たのは」
「だからあんなに驚いていたんですね。憧れのカイに会えたから」
そう微笑むと、チェリンは髪の毛を掻いた。
「で、でもまあ、失望したわよっ。あいつが、あんなにへにゃへにゃした奴だったなんてね。もっと勇ましくて凛々しい奴かと思ってた」
「ふふふ」
「ちょっ、このこと本人には言わないでよ!? 言ったら、怒るからねっ」
「はい、言いません。約束です」
顔を真っ赤にしているチェリンは恥ずかしそうに顔を背けた。ここ一日のチェリンの心境といえば――憧れの英雄が目の前にいて、さらに話すらできるという幸せな時間だったはずだ。カイより勇ましくて凛々しいチェリンが、そんな揚がった気持ちでカイと過ごしていたのかと思うと、微笑ましくて仕方がない。
チェリンは息を吐き出す。炎が僅かに揺らめいた。
「……ま、大丈夫でしょ。あいつなら上手いことやってくれるわよ」
「そうですね」
「どうせすることもないんだし、昔話でもしていましょ。イリーネはどうやってカイと出会ったの? ここに来るまで、どんなことがあったの?」
チェリンはそうやって話題を振ってくれる。おそらく、喋り続けることでイリーネの不安を紛らわせようとしてくれているのだ。それが分かるから、イリーネも会話に応じた。
どこから話そうか。いろいろ考えたが、結局最初からすべて話した。過去の記憶がないこと、オスヴィンの廃墟でカイと出会ったこと、どういうわけかカイと契約を交わしたこと、記憶探しの旅に出たこと、お金が無くなってハンターになったこと、イーヴァンの王都オストを目指すためニムに挑んだこと――。
どうしても、治癒術について話すことはできなかったが――。
「へえー……随分と波乱万丈ね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。そもそも、記憶喪失になってオスヴィンで目覚めるってところから見事な波乱っぷりじゃない」
「た、確かに……」
イリーネが苦笑する。
「けど、そんなに悲観したものじゃないですよ。過去の記憶なんてなくても、私は楽しいですし」
「みたいね。あんたを見ていると、そう思えるわ」
チェリンも微笑んで頷いた。
「きっと、そうなのよ。過去なんて、重要じゃないものね。忘れちゃいたいくらい辛い記憶だったのなら……そのままでいいとあたしは思う」
ですよね、なんて簡単に同意できる立場ではないのだが――イリーネはそう頷いた。自分が何者か分からない恐怖は、ない。自分はイリーネで、カイがその名をくれたのだから。
嬉しくて少し微笑んだイリーネを横目で見やって、チェリンがやれやれと苦笑を漏らす。「あーあ、ご馳走様」と呟きながら。




