◇山岳を越えて(6)
屋敷まで連れてこられたイリーネとチェリンは、二階にある部屋に押し込まれた。部屋と言っても家具は椅子の一つさえなく、それどころか窓すらなかった。むき出しの木の壁と床はひどくかび臭い匂いがして、気分を憂鬱にさせる。
そんな室内に入れられて、ご丁寧に外から鍵までかかった扉を見て、チェリンが憤慨する。
「ったく、こんな汚い部屋に閉じ込めるなんて。あとで覚えておきなさいよっ」
こんな場所でも威勢のいいチェリンは、そう吐き捨てて室内を振り返る。壁際にイリーネが立っていたが、イリーネが酷く身体を震わせていることに気付いたチェリンは慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたの? 真っ青よ……具合悪い?」
「チェリンさん……」
チェリンでいいわよ、と彼女は言う。
「奴らに何かされた?」
心配そうに尋ねてくれるチェリンに、イリーネは首を振った。
「誰かに触られるのが、嫌で」
「そうだったの?」
それはトラウマと呼ぶべきものかもしれない。分かっていた、このままではいけないと。だから早く治癒術の扱いを覚えなければと、そう思っていた矢先のことだったのに。
ここに連れてこられるまで、ずっとイリーネは目隠しをされた状態で男によって担がれていた。その間、イリーネにとっては地獄の時間だったといって過言ではない。何かの拍子に魔術が発動してしまったらどうしよう。早く放してほしい、そんなことを思っていたら気が気ではなかった。知らない場所へ連れていかれる不安や恐怖より、実のところそちらの恐怖が勝っていたのだ。
チェリンがそっとイリーネの肩に手を伸ばした。指先が触れるか触れないかというところで静止して、尋ねる。
「あたしは平気?」
「……多分」
チェリンの手がイリーネの肩の上に置かれる。身体が震えることもなく、チェリンもイリーネもお互いほっと安堵の息を吐いた。そして先程よりは力強く、チェリンはイリーネの肩を叩く。
「大丈夫よ。きっとなんとかなるわ」
この状況も、イリーネのトラウマも。そんな風に言ってくれているような気がして、イリーネは少しだけ笑みを取り戻した。
チェリンは改めて部屋の中を見回す。イリーネも同じように視線を巡らせた。窓のない薄暗い部屋。光りが入ってこないという一点だけで気分は重たくなってきて、気が滅入ってしまう。
「さて……出入り口はその扉だけか」
チェリンは扉に耳を寄せてしばらく沈黙し、「見張りはいるわね」と呟きながら部屋の中央まで戻ってくる。そして今度は木の壁を軽く叩く。重い音が響いた。
「結構分厚そう。破るのは無理か……やっぱりその扉よねぇ」
脱出する気満々のチェリンに唖然としていると、チェリンが振り返った。
「どうしたの、黙っちゃって」
「いえ……チェリンって、頼もしいなと思って」
そう言って微笑んでみせると、チェリンは呆れたように額に手を当てた。
「あんたは楽天的ね。普通の女の子なら間違ってもこんな状況で笑ったりしないわよ」
「なんとかなる、でしょう? きっとカイが来てくれます。動かないほうが、カイはやりやすいと思いますし」
それはカイへの絶対的な信頼だった。「きっと助けに来てくれる」など驕った考えかもしれないが――そう信じるしかないのだ。
チェリンは腕をおろし、ふっと笑った。
「……あんたを必死で守ろうとするあいつの気持ち、なんとなく分かるわ。こんなに信頼されたら、裏切るわけにいかないものね」
「チェリン……?」
「でも、悪いけどあたしは、黙ってあいつに助けられるのを待つつもりはないわ。柄じゃないもの」
笑みを収めたチェリンは真っ直ぐイリーネに向き合った。女性としては長身の彼女の漆黒の瞳に見下ろされ、イリーネは僅かに威圧される。
「あんたを危険な事件に巻き込んだだけでも相当なのに、この上怪我でもさせたら、本気であいつに殺されかねないし。出るわよ、ここから」
「でも、どうやって……?」
「こうするのよ」
イリーネから少し距離を取ったチェリンの身体が、急に陽炎の向こうに行ってしまったかのように揺らいだ。気のせいかと思ったが、勿論そうではない。イリーネは、そのような身体の変化をよく見ているのだ。
チェリンの姿の輪郭が消え、体高が低くなる。そこにいたのは漆黒の体毛を持つ兎だった。兎と分かるのはぴんと立った長い耳があったためだ。兎は掌に乗る大きさだというイリーネの考えは大きく覆され、大型の犬ほどの大きさの黒兎だった。
トライブ・【ラビット】。
「チェリン……! 化身族だったんですね」
チェリンがカイに過敏に反応していたのも、カイがチェリンに違和感を覚えていたのも、彼女が化身族だったゆえなのだろう。化身族というのは、大体の場合において大型化するようだ。豹のカイしかり、鷹のエルケしかり、そして兎のチェリンしかり。
カイとは対をなすような闇色をした兎は軽やかに扉に近づくと、後ろ足で強烈なキックを放った。木製の扉が外へ吹き飛び、廊下で見張りをしていた男を一人その下敷きにする。
声をあげることすらできず気絶したその男の他に、周囲に人はいないらしい。化身を解いたチェリンが腰に手を当てて息を吐き出す。部屋から出てきたイリーネを振り返り、困ったように肩をすくめて見せる。
「……吃驚した? よね」
「それは、まあ……でもチェリン、格好いいです」
素直に感想を述べると、チェリンは頬を紅潮させた。ぱっと顔を背けて、チェリンは短い黒髪を掻き上げる。
「さ、さあ行くわよ! あたしについてきて、イリーネ!」
「はい!」
イリーネは頷き、駆けだしたチェリンの後を追いかけた。
★☆
カイは以前言っていた。
化身族は戦いに特化した種族である。強さこそが彼らの誇りであり、すべてなのだと。だから人間の文化や歴史に興味を持ったカイは特別であり異端であるが、そんなカイも化身族として闘争の本能は持ち合わせている。
習ったこともないのに、生身の状態であれだけナイフを巧みに扱うのも、化身族としての天性の冴えなのだろう。
だからチェリンも例のごとく――。
「ええい、邪魔ッ!」
とんでもなく、強かった。
彼女の綺麗な足が真上に跳ね上げられると、前に立ちふさがった男が鳩尾を蹴りあげられて倒れる。咄嗟の防御などではなく、かといって護身術のレベルでもない。磨き抜かれた格闘技だった。
あれだけ豪快な音とともに扉を蹴破れば、敵に気付かれるのは当然だ。脱出口を探して屋敷内を移動していたチェリンとイリーネの前に次々と山賊たちが現れる。しかしながらチェリンは彼らを殴打や蹴りで薙ぎ倒し、歩を止めることはない。
イリーネと意思疎通を図るために人の姿のままでいてくれているのだろうが、化身族というのは誰でもこうなのか。どうしてみながみな実戦慣れしているのだろう。
「あたしはそんなに強くないのよ」
まるでイリーネの思考を透かし見たかのようにチェリンはそう言うが、そんなに強くないと言われてもイリーネは素直に頷けない。だが、化身族と人間族では『強さ』の基準が違う。
「あたしは魔術が使えないもの。化身族の中では、魔術を使えてはじめて『強者』と名乗ることを許される。ま、そこまで強くなりたいわけじゃないし、魔術使えたら賞金首になっちゃうからこれはこれでいいんだけど……」
いつの間にやら革製の手袋を嵌めていた拳を、チェリンはぐっと握る。
「人間の弱腰相手には十分ね」
――ああ、やはりこの人は、化身族なんだな。
イリーネはそう思って苦笑した。
ふたりが進んでいる屋敷の廊下には勿論窓があったが、どの窓にも鉄格子が嵌めこまれていた。真新しい格子であるから、おそらくこの屋敷を使い始めたときに山賊たちが設置したのだろう。用意がいいことである。格子さえなければチェリンは窓を破っていただろうが、さすがに無理らしい。
「にしても見た目以上に広い屋敷ね。いつになったら下へ降りる階段があるのよ」
前を行くチェリンがそう呟く。部屋を脱出してから一本道だった廊下をひたすら歩いているが、右手に個室、左手に窓という景色が延々と続いている。
イリーネはふと窓から地上を見下ろした。そこで「あっ」と声を漏らす。チェリンが足を止めてイリーネの傍まで戻ってくる。
「どうしたの?」
「見て、人が倒されてます!」
地上に数名の山賊たちが横たわっている。ぴくりとも動かないその様子から、完全に昏倒しているようだ。
きっと、カイだ。
チェリンがふっと口元を和らげる。
「さすがに動きが早いわね。……でも、負けないんだから!」
「チェリン、何を競ってるんです……?」
何やらむきになっている様子のチェリンに首を傾げつつも、再び移動を始めたチェリンの後を追いかける。
廊下の曲がり角に差し掛かり、チェリンは用心して壁に背を当てながら、そっと角の先を覗き込む。その瞬間、けたたましい銃声が何重にも響いた。
「きゃあっ」
チェリンがイリーネに覆いかぶさって床に伏せる。銃の連射が止むと、曲がり角の先から男の声が聞こえてきた。
「女ども……! 両手を挙げて出てこい!」
チェリンはイリーネを無言で背後に下がらせた。
「出てこないならこちらから行くぞ……」
足音が近づいてくる。ひとりではない――どうやらふたり。廊下の先から、この曲がり角へ向けてゆっくり歩いてくる。
チェリンは兎の姿へ化身した。余程近づかれない限り、角の先は死角になっている。加えて相手はチェリンが化身族であることを知らない。銃を撃たれると手も足も出ないが、近づいてくるのは願ってもないことだ。
近付く、足音。
チェリンもそれに合わせて態勢を低くし、後ろ足に力を込める。
そして山賊の靴の爪先が見えた瞬間に、チェリンが角から飛び出した。
「うわああ!?」
引き金を引くまでもなく、一人の男が弾き飛ばされる。慌ててチェリンに銃口を向けたもう一人の男は、咄嗟にイリーネが突き飛ばした。イリーネにすれば渾身の体当たりだったが、大柄な男を転ばすには力及ばない。だがよろめかせるには十分で、その隙にチェリンがその男を蹴り飛ばした。
周囲が静かになったのを確認して、またチェリンは化身を解いた。そしてイリーネに向けて片目を閉じて見せる。
「ナイス連携よ、ありがとイリーネ」
「はい」
役に立てたようで、イリーネは嬉しくて笑う。これまで戦いはカイ任せで、しかもデュエルという形式だったから、こんな風に戦いながら移動するのは初めてなのだ。
一応警戒しながら角を曲がり、また廊下を進む。だが少ししたところで、前方の扉が突然吹き飛んだ。ぎょっとして立ち止まると、一匹の獣が軽やかに姿を現した。それを見てイリーネがぱっと顔を輝かせる。
「カイ!」
思わず白銀の豹の首元に抱き着いてしまう。首周りのふわふわな毛に顔をうずめると、慣れ親しんだカイの匂いがする。カイは困ったようにその場に腰を下ろし、しばらくその姿を続けていた。
チェリンが呆れたように肩をすくめる。イリーネがようやくカイから離れたところで、カイが化身を解いた。ゆったりと床に胡坐をかいて座るカイは、同じく傍にしゃがみこんだイリーネの頭をぽんぽんと叩く。
「ご無事で何より」
「チェリンが助けてくれましたから」
その言葉でカイはゆっくり視線を上げ、目の前に立つチェリンを見上げた。
「ありがとね、兎さん」
「う、兎さんってね……別に、あんたたちのためじゃないわよ。あたしだって自分の命は惜しいし。っていうか、ちゃっかり正体ばれてるし」
照れたように顔を背けるチェリンを微笑ましく見ていると、カイが立ち上がった。
「さて、さっさとここから出よう」
カイの先導で、イリーネとチェリンは階段を下り始めた。これで終わったのだと、イリーネはほっと安堵の息を吐いたのだった。




