◇山岳を越えて(3)
ぼんやりとランプで足元を照らしながら不安定な山道を登っていく。とうに日は落ち、標高も上がっていることから酸素も薄ければ気温も低い。疲れもあるので足取りは重く、イリーネはふらふらだ。
途中からイリーネの荷物をカイが持ってくれて、だいぶ負担を減らしてもらった。そうしてただひたすら歩を進めてどれだけの時間が経っただろう。
不意にカイがイリーネの肩を叩いた。顔を上げると、カイが前方を指差す。
「ほら、ニムの街だ」
山の木々の間に見える光源。カイとイリーネが持っている携帯型のランプなど比較にもならない明るさ。間違いなく、街の灯りだ。
ほっと安堵したイリーネだったが、ニムの街に到達するまでにもうひとつ試練があった。ニムの街は崖の斜面につくられた街であるため、あちこちが階段や吊り橋で繋がっている状態だ。街に入るには長い吊り橋を渡らなければならない。
ふたりの前に現れたのは巨大な渓谷にかかる吊り橋。橋の上から下を覗いてみれば、夜の闇ということもあって奈落の底のようにすら見える。頑丈な石橋ではないから、足を一歩乗せるだけでぐらぐらと揺れるのだ。
これで風でも吹こうものなら――。
「う……」
イリーネが尻込みするのを見て、カイが首を傾げる。
「高いところ苦手?」
「そ、そうじゃないですけど……これはさすがに……」
夜でなければもう少しマシだったかもしれないが――底が全く見えないというのがかなりの恐怖だ。
カイがイリーネの手をしっかりと握った。思わず赤面してしまったイリーネに気付かず、カイは手を繋いだまま吊り橋の手前まで移動する。
「大丈夫だよ。古臭い吊り橋だけど、人の往来の多い場所だ。そう簡単には落ちない」
「で、ですよね」
「もし落ちても、俺がなんとかするし。はい、行きましょ」
イリーネが躊躇う暇すら与えず、カイは悠々と吊り橋に足を乗せた。人の重みでぐらりと揺れたその足場に思わず目を閉じたが、カイはすたすたと進んでいく。むしろ下手に慎重になるより、そのほうがいいのかもしれない。イリーネもなるべく下は見ないようにしてカイについていく。
「手が冷たいね。寒い?」
「ちょっとだけ……」
「今日はあったかくして寝ないとね。高地に身体も慣らさないといけないし」
吊り橋の中央部にまで進んでくる。だがそのとき、それまで無風に近かった夜のニム山脈に突如として強い風が吹き付けてきた。
小さく悲鳴を上げたイリーネが足を止めてしまったので、カイも止まる。ゆっくり左右に揺れる吊り橋が恐怖を運んでくる。イリーネがおっかなびっくりしている様子を見て、逆にカイは少し楽しそうだ。
「たまにはスリルもいいね」
「良くないです……!」
風が収まったのを見計らって再びふたりは歩き出す。そうしてなんとか吊り橋を渡りきった時には、イリーネは気力を使い果たしてへたり込みそうだった。
「はいお疲れ様。とりあえずの目的は達成だよ」
カイの言葉でイリーネは周りを見渡す。
世界一高い山の中につくられた、世界一高い場所にある都市ニム。平らな土地は殆どないが、斜面に沿ってたくさんの建物が建てられている。道もきちんと整備されて、自然の多い豊かな街のようだ。住居も多くみられる。
――もっとも、夜の今ではニムの姿の一割とて見ることができないのだが。
まずは宿探しだ。ここは既にフローレンツではなく異国のイーヴァン。とはいえまだ国境地帯であるから、街の構造そのものにそこまで変わりはなさそうだ。
ニムの街に入ってすぐのところが商業街になっており、その中で特に大きな木造三階建ての建物が宿であった。まだ灯りはついており、営業している。
疲れ果てているイリーネを労わってか、久々にカイが対人交渉をやってくれるつもりらしい。有難いことである。
扉を開ければすぐに木の香りが漂って来た。それから少し遅れて感じたのは、食べ物の匂いだ。宿の中に食事処が入っているようで、随分と設備の整った宿のようだ。それに、暖かい空気が空間を満たしている。高地の夜は恐ろしいほど冷え込むのだ。
受付カウンターには恰幅の良い中年女性が帳簿をつけていて、カイとイリーネを見て笑顔で歓迎してくれた。日に焼けた褐色の肌と、色素の薄い髪。これがイーヴァン人の特徴だとかで、この女将も典型的なイーヴァン人であるらしかった。強い日差しから身を守るための容姿だ。
イリーネをソファを座らせ、カイがひとりでカウンターに向かう。そうやって見ていると、カイの色白さが目立って不健康にすら見えてしまう。
「泊まりたいんだけど、部屋空いてる?」
「大丈夫よ。はい、これが鍵。二階の突き当りの部屋だからね」
てきぱきと部屋の鍵を渡される。代金は部屋を引き払う際に払うらしいので、今はこれで十分だ。
「あ、食事はまだかしら? 用意させるから、荷物置いて汗流したら降りていらっしゃい。奥に食堂があるから」
「うん、ありがと」
ニムの街は旅の中継地点であるから、旅人のもてなしには慣れているのだろう。
イリーネと一緒に二階へ上がる階段をあがりはじめると、宿の女将がホールの奥にある扉を開け、室内に向けて声を張り上げていた。
「チェリン、お客様ふたり分の食事お願いねー!」
はーい、という若い女性の返事だけが、イリーネの耳に届いてきた。
部屋は相変わらず二人部屋で、それぞれ荷解きをしてから入浴をした。一日歩き通しで、あちこち埃と汗だらけだ。それらを洗い流してさっぱりすると急に眠気が襲ってくるが、なんとかこらえてイリーネはカイとともにまたロビーに降りた。
先程の女将が、奥の扉を開けてくれる。思った通りその先は食堂になっていて、室内には香ばしい匂いが漂っていた。それを嗅ぐと、忘れていたはずの空腹感も蘇ってくる。
室内には他に客はいなかった。客席の一つにふたりぶんの食器が用意されていて、そこに座れということだろう。だが、先程女将から食事の用意を頼まれていたと思われる女性がいない。奥に厨房があるから、そっちに行っているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、例の女性が姿を現した。イリーネは彼女を見て大きく目を見張る。
背が高く、カイと十分釣り合えるほどの長身と抜群のスタイル。艶やかな漆黒の髪は肩の上で切りそろえられ、同じく漆黒の瞳は少々釣り目がちで勝気な印象がある。肌はそこまで浅黒くないので、もしかしたらイーヴァンの民ではないのかもしれない。歳は二十代前半か――大人の女性の美しさがある。
勿論そんな彼女の様子に見惚れたということもあるのだが、もっと根本的に――彼女の登場の仕方にイリーネは驚いたのだ。
何せ、丸い盆を指先に乗せて器用に回しながらの登場だ。ピザの生地回しのように、一定の速さを保ったまま盆は音もなく回転を続けている。
「上手いなぁ」
カイは妙なところに感心している。女性はまるで盆回しをしているのが無自覚であるかのように、席についているカイとイリーネを見下ろす。
「悪いけど夜も遅いから、余り物で我慢してね。飲み物は何が良い――」
女将に対する従順な返事はなんだったのかと思うほど素っ気ない台詞だったが、それは途中で消えてなくなった。それと同時に指先で回っていた盆が傾き、垂直に落下する。床に落ちた盆は、けたたましい音をたてて響いた。突然の音にカイとイリーネも身を竦める。
「ど、どうしたんですか……?」
イリーネが問いかけても、彼女は答えない。ただ大きく目を見開いて、カイを凝視している。
――ああ、これは、ばれたな。
イリーネはそう直感した。そしてそれはその通りであった。
「あ、あ、あんたっ……【カイ・フィリード】!?」
「よくご存じで」
穏やかな口調ながら、カイの身に軽い緊張が奔ったのをイリーネは感じていた。
「誰かに知らせるなりなんなり好きにしてくれていいけど、せめて今夜くらいはゆっくり寝かせてくれると助かるよ」
「ちょっ、ちょっと待って! 別に誰に知らせるつもりもないわ」
女性は慌ててカイを制し、ふうっと大きく息を吐き出した。その様子はまるで自分の心を落ち着かせているようにも見える。
彼女は床に落ちた盆を拾い上げた。その動作は隙がなく俊敏だ。
「え、ええと、食事を持ってくるわ。あ、飲み物、飲み物は水でいいわよね、すぐ用意するから」
そうして自己完結をして、女性は厨房へと駆けこんで行った。カイはその後ろ姿を見ながら、首を傾げる。
「なんか挙動不審」
「そ、そうですね」
とりあえず、敵意はなさそうだ。
先程までただの大道芸道具となっていた盆は、今度こそ盆としての役目を果たしていた。丸盆に器用に料理の皿を乗せて、女性はてきぱきと配膳していく。
「あんたたちフローレンツから来たのよね。ここらの主食は麦じゃなくて豆と米。ニムの山中で採った山菜やキノコ類だけを使った、完全地産池消の自慢料理よ。心して食べてね」
素っ気ないながらもきちんと料理の説明をしてくれる。豆に味をつけ、豚肉と一緒に煮込んだもの。山菜とキノコで炊いた米。そしてスープと、食事の内容は見事にフローレンツと違っていた。
どうやらこの国では、カイの好物であるサラダパスタは当分食べられそうにない。相変わらず煮込み豆の中に入っている肉を見て渋い顔をしたが、それくらい食べてもらわないと困る。
豆をスプーンですくって口に運んでみて、イリーネはぱっと表情を明るくした。
「美味しいです……!」
「ふふん。当然」
自慢げに女性は腰に手を当てる。料理に関しては絶大な自信があるようだ。事実豆も肉もほどよく煮込まれて味付けも抜群、炊き込みご飯も山菜とキノコが香って絶品だ。記憶を失う前はどうだったか分からないが、米という食材もすんなりと食べることができた。ぱらぱらと細かい、小粒の米だ。
すごいなあ、と呟くイリーネの真正面で、カイは黙々と食事を進めている。それを見て女性がぴくりと頬を引きつらせる。
「……な、なんか言ってよ」
「ん?」
カイは顔を上げ、そこでようやく自分を見ている女性に気付いたらしい。スプーンを置いて一口水を飲んでから、カイは評価を下した。
「美味しいよ。懐かしい味がする」
そうか、カイはこの山の生まれだから――豆や米料理に、慣れているのだ。そんなカイが『懐かしい』というのだから、イーヴァンの定番料理なのだろう。
それを聞いた女性はほっとしたように息を吐き出した。それから盆を小脇に抱えて踵を返す。
「それじゃ、あたしは席を外すから。食べ終わった食器はそのままにしておいてくれていいわよ、あとで回収するわ」
「分かりました」
「……あ、そうだ」
女性はくるりとまたこちらを向く。
「今この宿にはハンターが結構泊まってるから……見つかったら厄介よ。明日の朝は少し時間ずらしてここに来たらいいわ。鉢合わせしないようにね」
それだけ告げて、今度こそ女性はその場を立ち去って厨房のほうへと戻っていった。広い食堂内に沈黙が漂い、カイはおもむろにスプーンを取って煮込み豆をすくいはじめた。
「気の強そうな子だと思ったけど、案外親切だな」
「そうですね」
「何考えているかはともかく、今日はお言葉に甘えるか……」
頷いて、ふたりは食事を済ませた。
食堂を出ると、女将はまだカウンターで帳簿をつけていた。宿屋の一日は長い。早朝に起きて食事の用意をし、日中は宿の整備、夜も遅くまで客を受け入れている。どこの宿もそうだが、いったいいつ店の人は休めているのだろう。
女将はカイとイリーネに気付き、「あっ」と声をあげて椅子から立ち上がった。
「貴方たち、ちょっとちょっと」
「はい?」
足を止めると、女将は首を傾げながら尋ねてきた。
「まさかだけど、チェリンの知り合いだったりする?」
ふたりは顔を見合わせ、カイが代表して口を開く。
「チェリンって、さっきの子?」
「そうよ」
「今日初めて会ったよ、俺たち」
「あら、そうだったの? あの子、貴方たちと会ってからなんだか上機嫌だったから、てっきり昔の知り合いか何かなのかと」
さっきのあれは上機嫌だったの? とカイが呟いた声は隣に立つイリーネにしか聞こえなかった。笑ってしまいそうになったが、なんとかこらえる。
カイは軽く頭を掻き、おもむろに口を開いた。
「……あの子、ニムの生まれ?」
急にそんな質問をしたカイに疑問を思いつつも黙っていると、あっさり女将は首を振った。
「違うわよ。五年くらい前だったかしらね……ふらっと街に来て、この宿で働かせてくれって頼みに来たの。お金なんていらない、ただここに置いてほしいって。あまりに切羽詰ってたものだから、住み込みで働いてもらってるんだけどね」
「ふうん……そっか。ありがと」
ゆっくり休んでね、と見送られて、カイとイリーネは客室へと向かった。静まり返った廊下を歩きながら、イリーネが首を傾げる。
「なんで女将さんにあんなこと聞いたんですか? あの人……チェリンさんに何か?」
カイは顎をつまんだ。
「……ちょっと、気になっただけ」
曖昧にカイがぼかしたときは、意地でも教えてはくれない。それを知っていたイリーネはそれ以上何も言わず、「そうなんですか」とだけ答えておいた。
別にチェリンという女性について危険視しているわけでもなさそうなので、今は気にする必要もないだろう。
「さて、もう遅いからさっさと寝ようね」
「はい。あ、明日はもう下山ですか?」
「さすがにそれはきついね。明日は一日この街で身体慣らしのために休憩だ。あとは山を下るだけって言っても、三千メートル級の大地をまだまだ歩くからね」
まだまだ、という言葉には怖気づくが、明日一日休みを取れるということがイリーネに安堵をもたらした。さすがのカイも山中で強行軍するつもりはないらしい。
「これだけ歩き通しだと、足腰鍛えられそうです」
「……イリーネがむきむきになっちゃったら、俺嫌だなあ……」
「わ、私だって嫌ですよ!?」
そんな自分が想像できず、夜だというのに大きな声を出してしまったイリーネは――自分には割とまだ余力があるということを自覚したのだった。




