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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
30/202

◇山岳を越えて(1)

 眩しい光が瞼を直撃し、イリーネはうっすらと目を開けた。閉じられたカーテンの隙間から朝日が差し込んで、ひどく眩しかったのだ。

 ここはどこだろう。ああ、アネッサの実家だ。昨夜泊めてもらうことになって――あれ、でもベッドで寝た記憶がない。アネッサの弟妹たちと遊んでいて、それからどうしたのだったか。


 明るさに慣れるためにゆっくり瞬きを繰り返し、ベッドに身を起こす。と、視界の端に銀色の光が見えた。はっとしてそちらを向くと、室内にある椅子に座り、机に突っ伏してカイが寝ているではないか。彼の腕の下には数枚の紙と万年筆、そして魔術書が置かれている。徹夜で何か書き物をしていたのか。

 慌ててベッドから降りて傍に行き、カイの身体を揺さぶる。毛布も掛けずに、これでは風邪を引いてしまう。


「カイ、カイ。起きてください」

「……ん、やば。いつの間に寝落ち」


 覚醒と同時にカイはぱっと顔を上げた。この寝起きの良さはいつもながらすごい。

 傍に立つイリーネに気付いたカイは、銀髪を掻いた。


「おはよ、イリーネ」

「お、おはようございます。あの、何を書いていたんですか……?」

「ああ、これね」


 カイはがさがさと一番下の紙を引っ張り出し、イリーネに差し出した。訳も分からず受け取ると、そこには何か表が書かれていて――一番上に、解読不能な文字。その下に読み方、さらにその下に言葉の意味。

 言われなくても分かる、これは古語の解読表ではないか。


「こ、これ……」

「古語早見表。結構良い感じでしょ?」


 カイは満足げに言って、固まった腕を伸ばして身体をほぐしていく。


「母音と子音の組み合わせで文字を作る現代語と違って、古語は文字そのものに意味があるから。一覧表になっていれば、暗記できるんじゃないかなぁって」


 残り数枚の紙をまとめてから、カイは立ち上がった。


「こっちには魔術書の翻訳を書いておいた。これは後々君に授業してあげる。その前に俺がこれを読みこまないといけないから、もうちょっと時間もらうね」


 そのための資料を、カイは徹夜で作っていたのか。

 沈黙したイリーネに、カイがちらりと目線を向けた。


「……また『どうしてそんなに』とか言わないでね?」


 思わず口に出そうになったその言葉を先回りされて止められてしまい、イリーネは口ごもった。それからすとんとベッドに腰を下ろす。

 それからふと、昨日言い忘れたことがあることに気付いた。


「あの、私、約束破っちゃって」

「うん?」

「人前で治癒術を使わないって……」


 カイの反応は『ああ』というあっさりしたものだった。


「俺もその前に人を殺しちゃったし、おあいこじゃない?」

「でも、そのせいで」

「それに、あの場面で怪我人を放っておいたらイリーネらしくないよ。気にしないの」


 イリーネは微笑み、頷いた。


「……はい。ありがとう、カイ」


 カイも頷き、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けた。急に差し込んだ光の強さに、思わずイリーネは目を細める。


「さあ、今日は一日登山だよ。覚悟しておいてね」





★☆





 ニム――イーヴァン王国が領有する、大陸最高峰の山脈。フローレンツ王国とイーヴァン王国の国境としてそびえ、旅人ならば必ず越えねばならない自然要害だ。道は険しいが山道は整備されており、足を休める場所は多数用意されている。植物の群生も世界有数の規模で、生命豊かな場所だ。


「一番高い場所の標高は五千メートルを超えるけど、そんな高くまでは行かないから心配しないでね。せいぜい四千メートルくらいだから」

「あの、それでも相当だと思うんですけど」


 なんてことはないように告げるカイに、イリーネは苦い顔をする。


 惜しまれつつもアネッサの家族と別れ、カイとイリーネは昨日門前払いを食らった国境関門に来ていた。トウルの中心地から少し外れた場所に大きな関所がつくられ、そこに国の役人が詰めているのである。

 夜の間は閉じられていた門は開かれ、朝も早い時間であるが旅人の往来がちらほら見られる。ふたりはその関所にのんびりと歩いて向かっていた。


「道はきちんと整備されているし、イリーネの足なら大丈夫だよ。ただまあ、それでも山は山だ。登れば登るほど寒くなるし、酸素も薄くなる。のんびり行こうね」

「はい」


 これまでは軽装だったイリーネとカイだが、さすがにきちんと登山の装備は揃えている。今までにない「登山」という経験に、イリーネの心が躍らないわけがない。


 関所にはフローレンツとイーヴァン両国の役人が詰めている。フローレンツからイーヴァンに入るときにはフローレンツの役人が、イーヴァンからフローレンツに入るときにはイーヴァンの役人が応対するのである。

 イリーネはハンターの登録証を取り出し、役人に見せる。それを確認した中年男性が妙に愛嬌のある笑みを浮かべた。


「ハンターになったばっかりか。通っていいよ、頑張ってな、お嬢さん」

「ありがとうございます」


 登録日もしっかり書かれているので、新人だというのはすぐに分かっただろう。イリーネも笑みを返して、カイとともに関所を抜ける。

 関所は通り抜けのできるちょっとした門であったが、門を抜けた先は突如として森林になった。日の光も差し込み、青々と葉が茂っている。なかなかに爽やかで、明るい場所だ。まだ平地なので、山という気はまったくしない。


 整備された道を歩いていくと、日光浴でもしている気分になってくる。イリーネは空を仰いで、大きく息を吸い込んだ。


「綺麗ですね」

「この辺は気候も地形も穏やかだしね」


 カイは先を行くイリーネの隣に肩を並べながら言う。


「まず俺たちが目指すのは、中腹にあるニムって街だ」

「山の名前と一緒ですね」

「分かりやすいでしょ」


 ニムの街は、最高峰の山中にあるだけあって、最も標高の高い街だという。ニムが山越えの折り返し地点であるため、さしあたっての目標はニムである。

 そこに到着するために、丸二日の登山だ。途中にある山小屋で夜を過ごしつつ、ひたすら山を登っていく。おそらくトラバス山など比べものにならないほど過酷な道だ。イリーネもそれは覚悟して、一歩一歩歩を進めていく。


 そのうち平坦だった道は徐々に傾斜がついてきて、足に力を込めて登るようになる。それと同時に、じりじりと太陽が照り付けてくるために額に汗がにじむ。

 頻繁に水分を補給して、休憩を挟みつつ進む。周りの豊かな景色を楽しみ、時折姿を現す小動物や見慣れない植物を見つけてはカイに解説をもらって――ハイキング気分で気楽なものだ。



 ――というのは、本当に最初だけであった。



「うわ……」


 急激にきつくなった傾斜。ほぼ見上げるに等しいそこを、これから踏ん張って登らねばならない。それだけでイリーネの足がすごんでしまう。

 立ちすくんでいるイリーネの隣に立っていたカイは、ふと山道を少し外れたところにしゃがみこんだ。そして何かを拾い上げ、イリーネに差し出してくる。


「これ持って」


 それは適度な長さと太さのある木の棒――杖がわりだ。


「上を見ると歩くの辛いから、視線は足元。一歩ずつでいいから、しっかり」

「は、はいっ……」


 杖を支えに、なんとか急斜面に挑みかかる。気を抜けばそのまま後ろにひっくり返ってしまいそうだが、イリーネの真後ろにはカイがいてくれているので少し安心ではある。

 登山用に歩きやすい靴や服に着替えてはいたが、何せ荷物が多い。遭難や滑落など、もしもの時を考えて荷物はひとりひとり準備するのが鉄則。よってイリーネも荷物を背負っているが、それが負担になっている。そろそろ膝が砕けそうだ。まだ登山を開始して三時間ほどしか経っていないのだが、やはり平地を同じ時間歩くのとは訳が違う――。


 なんとか斜面を登りきったところで、イリーネは思わず足を止めた。あとからついてくるカイも、若干額に汗を浮かべている。イリーネはそれどころではなく息切れを起こしていた。


「はぁっ、はぁっ……」

「大丈夫? また前みたいに、背負って行こうか?」


 とても魅力的な申し出だったが――イリーネは誘惑に打ち勝って首を振った。


「が、頑張りますっ……こういう体験は、大事にしたいからっ」

「そりゃ構わないけど、無理だと思ったら問答無用だからね」

「そうならないように、気をつけます……」


 なんとか呼吸を整え、イリーネは姿勢を戻す。それを見たカイは、今度はイリーネに先行して歩きはじめた。


「この先は足場が悪いから、俺が歩く場所を追いかけてね」

「はいっ」


 そうして次に立ちはだかったのは長い石の階段だった。古いものなのか、一段一段の高さも幅もてんでばらばらだ。加えて、苔むして石段が滑りやすくなっていた。リズムの乱れは著しく体力を消耗する。カイはなるべくそうしないように、安定した足場を選んでテンポよく階段を上っていく。

 坂と階段、どちらが嫌かといえば――イリーネは階段のほうがより嫌いだった。上に登るために大きく足を揚げなければいけないし、その際に軸足になる方の膝も笑いそうだ。


 あまり頼りにならない手すりと木の杖を支えに、イリーネはゆっくり階段を上っていく。少し広い石段に到達したところで休憩を挟み、また歩を進めていく。

 がんばれがんばれ、とカイに励まされているところで、二人の横を何かが駆け抜けて行った。この長い石段を、駆けあがっていくではないか。


「な、なんです……!?」


 イリーネが唖然としてそれを見上げる。カイが「ああ」と呟いた。


「あれは『運び屋』だよ」

「運び屋……って、荷物や手紙を運ぶ人ですよね?」

「普通はね。ニム大山脈には、『人を運ぶ運び屋』がいるんだ。それがあれ」


 まるで平坦な道を走っているのかとすら思えるほど颯爽とした足取りの運び屋――長い棒にカゴを吊り下げたものを二人一組で担ぎ、そのカゴに人を乗せて走るというものだ。この坂道でもかなり安定して座っていられるらしく、乗り心地は悪くなさそう。


「山道は狭いから馬車は無理だし、大型獣に鞍を乗せるっていうのも無理。となると最終的に、人の足に頼るしかないってわけ」

「そうなんですか……すごい」

「間違いなく世界一健脚なヒトの中に入るだろうね」


 段の高い石段にてこずっていると、カイが手を掴んで上へ引っ張り上げてくれる。


「乗ってみる?」

「え……い、いえ、遠慮しておきます」

「いい経験になると思うけどなぁ。ニムまで最速で連れて行ってくれるし」

「あ、あの。この山に、馬車が通ってないなら、誰でも、みんな徒歩なんですよね……? 王さまとか身分の高い、人も?」


 素朴な疑問を、息切れの最中からイリーネがしぼりだす。

 先日までフローレンツの王都ペルシエで行われていたという首脳会議。世界各国の首脳が集まったと聞くが、このイーヴァンの国境はどう越えたのだろう。イーヴァンの王はもちろんだが、その真南に位置するリーゼロッテ神国も、イーヴァンを通ってフローレンツに行くはずだ。イリーネの印象的に、偉い人は自分では歩かないという偏見があるのだが――。


「イーヴァンは国中どこも山だからね、この国の王さまは山に慣れてるよ。だからこの間の会議の時も、徒歩でここを越えたんだろう。もしくは運び屋を使ったかもしれない」


 戯れに傍にあった木の葉を摘み取り、カイは指の中でくるくると回す。


「でも他の国は別ね。リーゼロッテなんかは頑としてイーヴァンに入ろうとしないし、ニムなんてもってのほかだ。フローレンツに行くにはイーヴァンを通過するか、ギヘナ大草原を突っ切るかだけど、どっちもあまりよろしくない」

「じゃあ、まさか迂回?」

「そ。大陸を西回りにケクラコクマ、サレイユを通ってフローレンツに入るんだ。とんでもなく大回りだけど、それでも山越えは嫌なんだってさ」


 馬車を使っても、どれだけの日数がかかるのだろう。大陸の地形的に最も南東のリーゼロッテから遠い国は、対角線上にある北西のサレイユだ。だが人々の意識的には、その先のフローレンツのほうが遠い。なにせ最短距離を行けばイーヴァンを挟んで隣の国だというのに、これだけ迂回しなければならないのだから。

 だからこそフローレンツは、大陸の中で文明の置去りをくらっているのだろう――。



 果てしないと思われた石段はようやく終わった。すると今度はいきなり緩やかな下り坂になり、速度が出ないように踏ん張ってゆっくり下っていく。その時ふわっと風が吹いて、イリーネの鼻に湿った匂いが届いてきた。それと同時に、ささやかな音がする。


「なんだか、水の匂いと音がします」

「この先は少し谷になってて、沢が流れているんだよ」


 カイの言っていた通り、すぐ視界が開けた。小石が転がる河原の先に、川と呼ぶには貧相な水の流れができている。渡し板はかけられていたが、それも必要ないほどに浅くて綺麗な水だ。

 鬱蒼とした木々から解放されて水場が見えただけで、イリーネの気持ちは少しだけ緩んだ。カイが「少し休憩しよう」と言ってくれたのも嬉しい。


 足場の悪い河原を進んで川へと近づいていくと、不意にカイが声をあげた。


「あ、熊だ」

「えっ!?」


 飛び上がったイリーネは、カイの指さす方向を見て一気に緊張した。少し離れた上流地点の沢の中に、黒々と巨大な身体が蹲っているように見える。水を飲んでいるのか、魚を獲っているのか――とにかくそれは、熊だったのだ。


「け、化身族……?」

「いや、野生の熊」

「ってことは、襲われたり……」

「するかもね」

「……」


 結局休憩もそこそこに、ふたりは足早に沢を去ったのであった。

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