◆異端の血(8)
そうして迎え入れてくれたアネッサ宅は、母親一人に、十歳以下の少年少女が四人という大所帯だった。父親は一番下の子が生まれてすぐに亡くなったらしく、以来母親とアネッサのふたりで家庭を支えていたそうだ。
よく分からないが、街の中で生きながら子供を育てるのは大変だろう。住む場所、仕事、食べるもの、お金、着るもの、そして国や街のルール――獣暮らしが長いカイには、窮屈にすら感じる。けれども、母親の稼ぎとアネッサからの仕送りで、なんとか生きていけるらしい。その姿は素直に、逞しいと思う。
温かい夕食と気さくなアネッサの母の人柄は、どことなくヘベティカの宿でのことを思い出す。まだそれほど日数は経っていないものの、色々なことがありすぎたせいか酷く遠い昔のように感じてしまう。
卵スープをすすりながら食卓の向かい側を見ると、イリーネはアネッサの弟妹ふたりにちょっかいを出されていた。当人は困り気味ながらも嫌がっている様子がないので放置していると、母親が「邪魔をしないの」と叱りつけて追い払っている。それでも懲りずにイリーネの周りをちょろちょろするものだから、もう諦めたようだ。
なんなんだろう――とカイは心底不思議だ。
イリーネには人から愛される雰囲気のようなものがある。大抵の者はすぐ彼女に心を開き、彼女を好きになる。ヘラーも、アネッサも、ライルも、あのよく登場する鷹と小柄な少年も、――そしてカイ自身も。
とうの昔に忘れたはずの笑顔を自分が取り戻していることに気付いたのは、本当につい最近だ。優しく、強く、小動物のようにちょっぴり危なっかしいイリーネを見ていると、自然と笑みがこぼれる。ついからかってやりたくなるし、守ってあげたいとも思う。
そういう点では、ライルにも共通する点があったようにも感じる――おそらくあのカスパーという男も、根はいいやつなのだろう。ただあの時のカスパーはイリーネと初対面で、混血児だということへの恐怖が勝ってしまっていた。もう少し早く出会っていれば、違う形の結末があったかもしれないが。
しかし――イリーネという人間を知って尚、彼女を受け入れようとしない人間を、カイはひとり知っている。イリーネが、最果てのオスヴィンに記憶を失って運ばれてきたのは、奴の差し金かもしれない。
今思えば、あの時傍にいた男たちを殺さずに尋問しておけばよかった。まさか木箱に入っているのがイリーネだとは思わなかったものだから――。
「カイ?」
至近距離で声がして、カイは顔を上げた。目の前にイリーネが立っている。
「大丈夫ですか? ぼうっとしてましたけど……」
「あ、うん。どうしたの?」
「ミーナちゃんたちが、カードゲームをしようって。一緒にやりません?」
ミーナ。どの子だろう。それはどうでもいいけど、ここにきてカードゲームって。
……まあ、いい。そのほうが気も紛れる。
「やるやる」
食べ終えた食器を母親に渡して、リビングに集まっている子供たちの輪の中に入る。するとイリーネはカイにこっそり囁いた。
「あの、私やり方知らないんですけど、カイは分かります?」
やり方知らないでよく引き受けたな。
そう思いつつ、子供たちが持っているカードの束に視線を送る。……見覚えがある柄だ。あのカードゲームは世界共通らしい。
「分かるよ」
「そうなんですか、ちょっと意外」
「だって……」
やったことはないけど、すぐ傍で見てきたから。
あのカードで、飽きもせず色々なゲームをしている姿を、見てきたから。
そう言おうとして、思いとどまる。――まだ、言わなくていい。
「……君より年数生きてるからね」
無難に、そう言っておけばいいさ。
騒がしかったリビングも、夜の闇が濃くなるにつれて静かになっていく。
「ごめんなさいね、疲れてるだろうに。うちのチビたちの遊びに付き合ってもらっちゃって」
カードゲームの最中にそろって寝落ちした子供たちをまとめて子供部屋に運んだカイに、母親が申し訳なさそうに言う。久々に生身で重労働した肩を揉みほぐしつつ、カイは首を振る。
「いや、こっちこそ急に押しかけちゃって……」
「いいのよいいのよ。アネッサが帰ってきたみたいに賑やかで、楽しかったわ」
すやすやと眠る子供たちを背に扉を閉め、カイは母親と共にリビングへ戻る。リビングでは、机に突っ伏してイリーネが眠っていた。
途中から母親も参戦して、実に白熱したカードゲームが展開されたのだが、大体においてカイがひとり勝ちしてしまった。子供たちが躍起になり、カイも手加減を始めたところで、眠気に勝てなかった子供たちがひとり、またひとりと脱落していく。
そこまでは大方予想できていたが、イリーネまで寝落ちするとは、正直カイも思っていなかった。
そして、カイはアネッサの母親とふたりきりになってしまったのである。
(これは……困ったな)
生産性のない会話――要は『雑談』が、カイは心底苦手だった。聞いている分にはいいのだが、自分から話すとなるとまるで話題が思いつかない。だからこうした対人関係の会話は、イリーネに任せきりだったのだが――。
テーブルを乗せた腕を枕代わりにしているイリーネの目元に、彼女の赤っぽい髪がかかっている。それをそっと払ってやると、おもむろに母が口を開いた。
「イリーネちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫、って?」
「なんだか、無理して笑っているように見えたから……って、出会って数時間のおばさんに言われたくないわよね」
「いや……すごいね。さすがアネッサのお母さん」
イリーネは先程、考え事をしていたカイに『大丈夫か』と尋ねたが。それを聞いてやるべきだったのは自分のほうだ――何を、やっているんだ。俺は。
「確かにすごく辛くて、苦しくて、疲れていると思う。でも、さっきみんなと遊んでいたイリーネは、本心から楽しそうだったから……だからきっと、大丈夫」
「そう。あの賑やかさも、たまには誰かの役に立つのね」
嬉しそうな母親に、カイは視線を向ける。
「……聞かないの? 王都で、アネッサがどうしているかとか。俺たちほんとは、ハンターなんかじゃないのかもよ?」
「聞かなくても分かるわよ。あの子は元気でやってる。それに私は、貴方たちの身分を信用したんじゃなくて、人柄を信用したの。これでも見る目はあるのよ」
「ふうん、そういうものなの」
「そうよ。貴方は口下手みたいだけど、イリーネちゃんが心配で心配で仕方ないんでしょ。だったら我が家の事情なんて気にせず、彼女のことだけ気にかけていてやりなさいな」
母親という生き物は、恐るべきものだな。
カイは内心でそう舌を巻いた。
イリーネを抱き上げて、案内された部屋に向かう。元々は父親の部屋だったとかで、今は客間として使っているそうだ。随分と広々している室内に、ベッドはひとつ。当たり前か。
カイのために布団を持ってくると言ってくれたが、それは断った。マントひとつあれば眠れるし、不要な音を立ててイリーネを起こしたくもない。だから挨拶をして、母親は部屋を出て行った。
ひとまずイリーネをベッドに寝かせる。熟睡しているようだ。そっと毛布をかけてやって、カイは傍にあった椅子に腰を下ろす。
――どうすればもう少しイリーネのショックが少なくできただろう。そうだ、先に言っておけば良かったのだ。君は人間族と化身族、両方の血を引くのだと。混血児だけが魔術を使えるのだと。だから――だから、魔術を人前で見せるな、と。
どうしたことだろう。自分は歯に衣着せぬ物言いばかりしているくせに、イリーネを相手にすると隠し事が増えていく。どうしても、素直に告げることなどできなかった。
怪我なく旅させてあげたいし、辛い目や悲しい目にも遭ってほしくない。だって、せっかくの『外』――。
今から俺ができることはなんだろう。カイは必死に頭を捻った。これ以上イリーネが傷つかず、彼女が混血児であることを知られない手立ては。
ふと視線を上げると、窓辺の床に置いてある荷物が目に入った。そこから少し見えているあれは、カイが買った神属性の魔術書――そういえば、ずっとライルが一緒だったものだから、きちんとあの書をイリーネに見せることができなかった。
ライルに「魔術書を欲しい」と言ったときは、カイ本人が使うものだと思って、特に疑問に思うでもなく売り子の居場所を教えてくれたのだ。化身族は、魔術を使うために魔術書を求める者であるから。
そうだ、これだ。
思わず小さく、その言葉が口から出た。魔術書を取り出し、机の上に広げる。
本来魔術とは、使おうと思って使うものだ。だがイリーネはその技術を学んでいないがために、傷に触れるだけで勝手に治癒してしまう。だからまずは、その技術を身につけてもらう。
そうすれば、偶然触れただけなのに魔術が発動してしまうという危険だけは避けられる。
何か書くもの、と探しはしたが何もない。仕方なく一度部屋を出てリビングへ向かうと、母親はまだ起きて部屋の片づけをしていた。驚く彼女に紙とペンを頼むと、すぐにそれを貸してくれた。
部屋に戻って、カイは机に向かった。万年筆のキャップを取り、さらさらと紙に文字を書いていく。古語――現代語より先にカイが習得した、古の言語。それをひとつひとつ紙に書いては、現代語に翻訳していく。読み方、発音の仕方、言葉の意味、すべて。
それを終えると、今度は魔術書の翻訳だ。一冊すべて、現代語に書き直す。
自分がどうやって魔術書なしで魔術を学んだか――それは幼いころから、父が童話のように呪文を語って聞かせてくれたからだ。魔術の詠唱には、呪文の背景の景色をイメージする能力が必要不可欠。だから父は、その呪文の自分なりの解釈を、物語調にして語り聞かせてくれたのだ。
同じようにすればいい。イリーネより先にカイが神属性の魔術を理解し、そこに自分の解釈を交え、物語にして聞かせる。並大抵のことではないだろう。何せカイは神属性の魔術を扱う素養がないし、時間もかかる。だがそれでもやる。素養がなくても理解はできるだろうし、時間がないなら急げばいい。
まず最初に治癒術の扱いだ。術のコントロールを、イリーネに覚えてもらわなければ――。
月明かりだけを頼りに文字を書くカイの耳に聞こえるのは、ただ万年筆が紙の上を滑る音ひとつ。
――『混血種!』
その言葉が、何より嫌いだった。そう指差されて泣く君を、ずっと見ていたから。
――『どうして、そんなに』
君を庇うのかって? 君との約束だからだ。俺が命を懸けてでも果たす、君との約束。
――『大きくなったら、世界中旅したいの!』
一糸乱れぬリズムで文字を綴っていたカイの、ペン先がぶれた。文字が妙に不恰好になり、一度手を止める。
(本当は、忘れようと思っていたんだよ。忘れたはずだった。もう君と会えるわけがなかったんだから)
魔術書のページをめくり、カイはそこに視線を落とす。
(でも、君にまた会ってしまった。やっぱり俺は忘れてなんかなかったんだ。君との約束)
再び、文字を綴り始める。
(それなのに君は覚えていなかった。過去のことも、俺のことも、俺との約束も――全部忘れた、真っ白な君が、俺の前にいる)
また、手が止まる。どうしてだ、動け。
(でも、いいよね。俺が覚えているんだから、君との約束は生きている。君が望むまま――君がまた籠の鳥にならないように、君を連れて逃げる)
やっとのことで書いた一文字は、なぜか震えて。
(一緒に旅、しよう。これが君の望んだ『世界』だよ)
視線を上げると、そこには安らかなイリーネの眠る横顔が見える。しばらくその姿に見惚れて、カイは目を伏せた。
ねえ、どうして。
どうして俺のこと、忘れちゃったの?
――『俺が君の一番の味方だから』
我ながらクサいことを平気で言ったものだ。
そう――たとえ世界が君を敵にしても。俺だけは君の味方でいる。君を差別する奴はすべて打ち払い、君が大切にする人は俺も大切にする。
ずっと昔から、そう決めていたんだから。
だから――辛いことは、思い出さなくていいんだよ。




