◇異端の血(6)
ライルが連れて行ってくれたイヴェールの市場は、彼が自慢するとおり活気と物資に溢れた場所だった。特にニム大山脈の登山用品が充実しており、一見すれば用途の分からない道具でも、山に慣れているカイは絶賛するようなこまごまとした日用品も売られていたのである。
これはいい、とカイがここぞとばかりに登山用品を購入している間、ライルは同業者と会って話をしていた。少年のようなライルであるが、ああやって仕事の話をしていると年相応かそれ以上に見えるものだ。薬を専門に扱うライルと顔見知りの住人が何人か、直接ライルに薬を注文に来ているのも見た。この街でのライルの行商人としての地位は相当のものらしい。
イヴェールには物資が大量にあるが、人もまた多い。それだけの人数が生活するためのお金が稼げているかといえばそうではないらしく、医療技術も遅れている。それがイヴェール、ひいてはフローレンツ東部の街の特徴だ。
だからこそ、薬を売り歩くライルの存在は有難いものだろう。
カイと買い物をし、ライルの商売風景を見る。昼時になってライルのお勧め店で昼食をとる。そうして再び市場を見て回り――気付けばもう、日が傾きはじめていた。
「兄ちゃん、イリーネちゃん……俺、もう行かなきゃ」
おずおずと申し出たライルに、先程買ったばかりのジュースのストローを咥えながらカイが瞬きをした。
「もうそんな時間?」
「うん」
「そっか。じゃあ、お達者で」
「待て待て、なんでそんなあっさりなの!? てか『お達者』っていつの時代だよ!」
カイの肩をがっしり掴んで前後に揺らすライルに、カイはされるがままである。
「俺の同僚に会ってくれよ。あいつ、イーヴァンにも顔の広い商人だからさ。仲良くなっておくとお得だよ」
「いやー……別に、商人たちとそこまで深くかかわるつもりは」
「細かいこと気にするなって!」
「素直に言えばいいじゃない? 『別れが辛い』ってさ」
ライルの内心を見透かしたカイの一言に、カイを揺さぶっていたライルは動きを止めた。顔を真っ赤にして何か言おうとするが、結局言葉にならないようだ。再びストローを咥えてちるちるとジュースを吸い始めたカイと、その傍に立つイリーネを見据える。
「……いいから、来てって!」
「あら、強引」
腕を掴んで引きずられながら、カイはのんびりとジュースを飲んでいる。イリーネは苦笑しつつそのあとを追いかけた。
向かったのはイヴェールの中心地にある広場だった。煉瓦で敷き詰められたその場所の中央に、色鮮やかな花が植えられた円形の花壇が作られている。花壇を縁取るようにベンチも置かれて、なかなかいい雰囲気だった。
ライルが駆け寄ったのは、そんなベンチに座っていたひとりの男性のもとだった。男性の方もライルに気付き、笑顔で立ち上がって手を振る。年齢はライルよりだいぶ年上のようだ。
「カスパー!」
「よう、ライル。久しぶりだな」
カスパーという男性に頷いたライルは、カイとイリーネの腕を引っ張って隣に立たせた。
「紹介するよ、俺の同僚で友達のカスパーだ。フローレンツの商人だけど、活動場所はもっぱらイーヴァンなんだ。だからイーヴァンに行くなら色々聞いておくといいよ」
そう説明してから、ライルはカスパーにも目を向ける。
「カスパー、このふたりはシャルム川で出会ったハンターのイリーネちゃんとカイル。ここまで一緒に来てくれたんだよ」
「そうだったのか。ライルの子守り、大変だったろ? ありがとな」
ライルは『友達』と言ったが、傍から見ればどう考えても弟分と兄貴分だ。「子守りってなんだよ」と憤慨しているライルの頭を抑え込みながら、カスパーはカイとイリーネを見やる。
「それより、こんなイヴェールくんだりまで来たってことは、あんたたち山越えするのか?」
「はい、そうです」
「ならライルとの用事が済んだ後になるが、一緒に夕飯でもどうだい? 子守りの礼に、色々と耳寄り情報教えてやるよ」
えっ、と驚いた声をあげたのはライルだ。ライルはカスパーの拘束から逃れて言う。
「だ、駄目だよカスパー。これ以上こっちの都合で引き留めちゃ……」
確かにカイとイリーネは、ライルとここで分かれてトウルの街へ出発しようとしていた。それはライルも知っているし、何せここまでずるずるとライルとの別れが延期されてきたのだ。ライルも悪いと思っているようだが――。
「そんなの今更じゃない。急ぐ旅じゃないって言ったでしょ」
「急ぐ旅だって最初に言って俺の同行を断ろうとしたのは兄ちゃんだよね」
「そうだっけ? 最近年かな、物覚えが悪くてね」
すっとぼけるカイの横で、イリーネは苦笑した。
「私たちは大丈夫ですよ」
「兄ちゃん……イリーネちゃん……」
呆然としてカイとイリーネを見つめていたライルだったが、急にぶわっとその眼に涙があふれた。これにはカイもイリーネもカスパーもぎょっとするしかない。
「ど、どうしたんです!?」
「うう……お、俺、ふたりとお別れすんの辛くてさぁ……! 船で会った時からここまで、もうほんと楽しくて……できれば、このまま一緒にイーヴァン行きたいんだよぉ……!」
ここに来て子供のように泣きじゃくるライルに、ついイリーネも鼻の奥がつんと痛くなった。カスパーと会うまで無邪気に元気だったライルだが、実際はかなり寂しかったようだ。
カイがやれやれと溜息をついて、ライルの頭をわしづかみにする。
「なに今生の別れみたいに泣いてんの。会おうと思えばいつでも会えるでしょ」
「え……で、でも俺」
「俺たち、二度とフローレンツに戻らないなんて言ってないよ」
フローレンツでは、たくさんの人に出会った。ヘベティカのヘラー、ペルシエのアネッサ、そしてちょっと変わったハンターのアーヴィンとエルケ。彼らともう一度会うためにも、カイとイリーネはまたフローレンツを訪れるだろう。
その時、この国で商売をしているライルを探せばいい――。
ぼろぼろと泣きはじめたライルの背中を、カスパーが強く叩いた。
「ほら、そうと決まればさっさと仕事するぞ。早くしないと食堂も混んでくるからな」
「う、うん! 待っててね、ふたりとも、すぐ終わらせるから!」
ライルは涙を拭って、カスパーと仕事の話をし始めた。カスパーから商品を融通してもらえるとか言っていたから、商品譲渡だけでなく色々と書類手続きなどもあるようだ。商人たちというのはこうやって仕入れを行っているのか――とイリーネは興味深げにやり取りを見ている。
カイはといえば、早々にベンチに座って広場の様子をぼんやりと眺めまわしていたが――急にふと、背もたれに預けていた身体を起こした。
「カイ?」
突然俊敏な動きを見せたカイに、イリーネもカイと同じ場所に視線を送る。多少のことでは動じないカイが、反応を示す――それはすなわち、敵意を察知したとき。
イリーネは振り返り、後ろで商談をしているライルとカスパーに声をかけた。ふたりが顔を上げたときには既に、カイはベンチを離れて広場に佇んでいる。
そして現れたのは――猟銃を構えたハンターと、化身族だった。ハンターたちはカイやイリーネを取り囲み、あっという間に包囲される。銃口はすべてカイに向けられていて、既に臨戦態勢だ。
「なんかエフラの街を思い出すなあ」
当の本人はのんびりとそんなことを言っている。イリーネがそっとカイの傍に立つと、カイは軽く手を広げて庇うように前に立つ。
そこで飛び出してきたのはライルとカスパーだ。ふたりは商人の名刺を掲げてハンターたちを見回す。
「フローレンツの行商組合だ! 『デュエル回避』を宣言する、銃を下ろせ!」
ライルが叫ぶ。今まで彼がこうやって特権を使ってくれたから、イリーネとカイは平穏無事な旅ができたのだ。『デュエル回避』の言葉を聞けば、ハンターたちはみな銃を下ろした。そうしなければフローレンツで商人たちから商品を買うこともできず、狩人協会からも制裁を加えられ、一定期間路頭に迷うことになるからだ。
しかし――このときカイたちを取り囲むハンターたちは、誰一人としてライルの言葉に従わなかった。
「聞こえなかったのか? 銃を下ろせと言っている!」
ライルがもう一度叫ぶと、カイの正面に立つ男が口角をつり上げた。フローレンツ王国の人間は白磁のように白い肌を持つが、ここにいる男たちは褐色の肌をしていた。髪の色素も薄く、色の抜けかかった金髪や茶髪が多い。
フローレンツの民ではなさそうだ。
「俺たちはイーヴァン王国のハンターだ。デュエル回避だかなんだか知らないが、そんなもんに従う気はねぇよ」
そうだそうだ、と野次が飛ぶ。カスパーも口を開いた。
「イーヴァンのハンターだろうが、フローレンツに滞在する間はフローレンツの法に従うべきだろう」
「知ったこっちゃないね」
ばっさりカスパーの言葉を切り捨てたハンターに、ライルが憤然として前に進み出る。
「なんだと……! イーヴァンの狩人協会に正式に抗議を申し入れるぞ! それでもいいのか!?」
「知ったこっちゃないと言っているだろう!」
ハンターが銃を構え、躊躇いもなく引き金を引いた。響く銃声――ライルの苦痛の声。
「ライル!」
イリーネが叫んで駆け寄ろうとしたが、寸前、カイがイリーネを抱き上げて逆方向へ跳躍した。その瞬間に一斉に取り巻きのハンターたちの銃も火を噴いた。弾丸の嵐が発生し、カスパーも慌てて地面に身を伏せる。カイも並外れた身体能力で銃弾を避けた。
ライルは肩を撃ち抜かれていた。ベンチに縋ってなんとか立ち上がろうとするが、激痛が襲っているのか動けない。カスパーがすぐに声をかけながら止血を始める。
カイの目はいつの間にか黄金色に輝いている。イリーネを地に下ろしてハンターたちと正対する。
「……デュエルは一対一が原則だ。世界共通のその決まりさえ破る気?」
カイの声は氷点下まで冷え切っていた。
「まさか。一対一でやるさ」
そう言ってハンターに従っていた化身族が前に進み出る。――そうか、彼らは自分たちが負けるであろうことなど最初から分かっているのだ。一人目がやられば、二人目が出る。そうした波状攻撃で、カイを疲労させるつもりだろう。
「イリーネ、そこを動かないで」
カイはそう言って豹の姿へ化身する。同時に相手も姿を変える――トライブ・【カンガルー】。跳躍力ならカイにも負けない、大柄な獣だ。
カンガルーがカイに向けて、強烈な右ストレートを繰り出す。それを回避したカイに向けて、今度は左足のキックが炸裂する。が、相手は魔術を扱えない化身族らしい。カイは一瞬の隙をついてカンガルーの懐に飛び込み、直下で“氷結”を発動させた。
“凍てつきし息吹”。カイの身体から強烈な冷気が発せられ、直撃したカンガルーが吹き飛ばされた。見た目以上のダメージだったらしく、その一撃で相手は化身が解けて倒れてしまう。
一人目の挑戦者を秒殺したカイだったが、相手はまだ十人近く残っている。最初から魔術を発動させたあたり、短期決戦を狙っているようだ。おそらくカイの心情としては、「面倒だから全員まとめてかかってこい」というところだろうか。
続いて挑んできたトライブ・【ボア】は突進力が突出しているが、避けてしまえば簡単だ。後ろ足で蹴り飛ばして一撃で沈める。
その後も【キャット】に【ホース】、【ベア】など様々な化身族が襲ってきたが、カイの前に一分と立った者はいなかった。
いつになく苛烈なカイだったが、イリーネも制止しようとは思わなかった。激しくてもカイが加減しているのは見ていて分かったし、ライルを傷つけた怒りはイリーネも同じだったからだ。
ほんの数分で化身族は伸されてしまった。波状攻撃の予定だったのだろうが、最初にやられたカンガルーや猪が再起するには時間がなさすぎた。カイの圧倒的勝利だ。
「く、くそっ……!」
ハンターが銃口をイリーネに向けた。イリーネより先に気付いたカイが彼女の前に飛び出し、再び“氷結”を発動させる。
カイの前の空間に、分厚い氷の壁が出現した。同時に発射された銃弾はその壁にめり込んだが、貫通することは叶わず氷の中に閉じ込められる。
“凍てつきし盾”。
その盾をカイは自ら粉砕した。それは礫となってハンターたちに襲い掛かる。カイの十八番だ。
ハンターたちは悲鳴を上げて逃げ惑った。中には踏みとどまって銃を撃った者もいるが、銃は残らず礫に粉砕された。
決着だ。
やれやれとカイが化身を解いたところで、イリーネは広場を見回した。そして花壇の傍でうずくまっているライルと、その手当てにあたっているカスパーを見つけた。
まだ血が止まらないのか、ぽたぽたと地面に赤い滴が落ちている。それを見た瞬間に身を翻したイリーネだったが、目の前に割り込んだ者がいる。
「だめだ」
カイ、だった。
「か、カイ」
「悪いけど行かせない」
「どうして? ライルの怪我、酷いのに……」
「致命傷じゃない。止血して治療してもらえば治るよ。だから魔術は使っちゃだめ」
イリーネの行く手を遮るようにカイが立つ。どうやってもカイを避けてライルのところに駆け寄るなどできない。
治癒術という奇跡の術を持ちながら、自分はそれを使えないのか。今目の前に、大怪我をしている友人がいるというのに。
――どうして。
「うっ……あ、い、いッつ……!」
「ライル、歯食いしばれ……! すぐ医者呼んでくるから!」
ライルとカスパーの声。荒事には慣れているのかもしれないが、それでもライルは一般人だ。以前イリーネは腕を弾丸がかすったが、あれでも相当痛かった。肩を完全に射抜かれたライルの痛みは、気でも狂うのではないかと思うほどだ。
無意識にカイをすり抜けてイリーネは走り出していた。当然のこと、軽く手を伸ばしただけでカイはイリーネの腕を掴み、引き止める。
「……カイ、お願い。離して」
そう頼むと、カイはびくっと反応した。すっかり紫色に戻った瞳が迷いに揺れているよう――なぜ? 本気なら、カイは意地でもイリーネの手を離さないだろうに。
思ってから気付いた。イリーネはカイの『契約主』なのだ。契約が交わされている限り、カイはイリーネの言葉を無視はできない――?
カイの手の力が緩んだところで、イリーネはするっと彼の拘束から抜け出した。カイには悪いが、今はライルが優先だ。『旅の約束その三』を破ったことは、あとで存分に反省する。
だから、今は。
「イリーネっ!」
一瞬の隙を突かれたカイが慌てて駆け出す。だがイリーネは迷わずライルの下に駆け寄ってその傍に膝をついた。
ライルは固く閉じていた目をうっすら開けて、荒い息の中でイリーネを認めて名前を呼ぶ。
「い、イリーネちゃん……」
「ライル、すぐ治しますから……」
カスパーがずっと押さえていたガーゼを取ると、無残な肩口の傷が露わになる。イリーネは意を決してその傷にそっと触れる。
指先から淡い光が零れる。一瞬のうちに傷を消していくその術を見て、ライルとカスパーは大きく目を見張った。
その驚きが、傷が治っていくことへの驚きだけではないということを、このときのイリーネはまだ分からなかったのだ。




