◇異端の血(5)
ライルと共にできるのは、今日一日で最後――そんな風に思うとしんみりしてしまったイリーネだったが、当のライルは陽気なもので相変わらずイリーネと雑談を交わし、カイのあとをくっついて回っていた。
ニーナとイヴェール間は徒歩二日半という距離だが、ライルの手違いで昨夜かなり歩いたおかげで、半日短縮してイヴェールに辿りつけそうだ。
それだけライルと過ごす時間も短くなってしまったわけで、そんなことを考えるとまたイリーネは切なくなってくる。出会って数日で、互いの利害が一致したために同行していたに過ぎないはずなのに、どうも自分は情をかけすぎてしまう。
「イヴェールってどんな街ですか?」
物悲しさを払拭するために尋ねると、ライルは首を捻った。
「ただの街だね」
「……た、ただの?」
「特徴らしい特徴はあんまりないかな。名物も観光名所もないし」
「えー、じゃあ何のために行くの?」
「俺は仕事に行くのッ」
カイの突込みにライルが鮮やかに切りかえす。カイはそれをスルーしてイリーネに顔を向ける。
「強いて言えば、イヴェールは国境に近い宿場町だから。イーヴァン人も多いよ、トウルの街ほどじゃないけど」
「そうなんですか」
「詳しいね兄ちゃん。俺より詳しいんじゃないの?」
「この辺、俺の故郷だし」
さりげなく漏れたその一言に、イリーネもライルも目を見張った。フローレンツが故郷だというのは聞いていたが、具体的にどこなのかは知らなかった。
カイは驚いているふたりを見やり、困ったように付け加えた。
「と言っても、俺が故郷にいたのは三十年近く前の話だ。今はどうか知らないよ」
「へえ……」
にこにこと微笑むイリーネに、カイは怪訝な目を向ける。
「なんで嬉しそうなの?」
「いえ、なんでも」
カイのことをまたひとつ知ることができて嬉しい――なんて言ったら、きっとカイはおかしな顔をするだろう。だからイリーネは何も言わなかった。
★☆
夜遅くに、三人はイヴェールに到着した。
カイが言っていた通り静かな田舎町で、夜ということもあって特に人の気配は少なかった。なんとか宿を確保して、夜遅くまで営業している酒場を見つけて食事を摂る。この時間でも浴びるように酒を飲んでいる男たちは多い。店内に一歩入っただけで強い酒の匂いが鼻をついて、イリーネはそれだけで頭が痛くなりそうだ。
「ふう……やっと落ち着けるなぁ」
三人がけの丸テーブルに座って、ライルが息を吐き出した。最初に配られた冷や水を口に含んで、カイが尋ねる。
「その取引相手と会うのっていつなの?」
「明日の夕方だよ。だから明日の午前はこの街で時間を潰すつもり」
そう言ってから、ライルははっと息をのんだ。そしてちらっとイリーネとカイに視線を送る。
「も、もしかして……ふたりは明日になったらトウルまで直行しちゃったりしちゃう?」
彼との約束は『イヴェールの街までの同行』だ。目的地に到着した以上はここでライルと別れ、イリーネとカイは隣国イーヴァンへ向かうのが筋だ。
けれどもここまで来たのだ。最後まで一緒にいてもいいだろう。
「急ぐ旅でもないですから」
イリーネがにっこり笑ってそう言うと、ライルは心から安堵したように胸をなでおろした。
「ありがとー! そうだ、明日の昼はさ、俺のお勧めの店でご飯食べようよ!」
「これから夕ご飯なのに、もう明日のお昼の話ですか?」
「ていうか、お勧めって言ってもお金払うの俺たちでしょ? あ、分かった、食事するお金すらないからたかってるんでしょ」
「違うッつの! 別れ惜しいの! お金ないのはほんとだけど!」
一日歩き通しだったというのに、カイもライルも元気だ。明日でこの兄弟っぽい会話も見納め。最後まで楽しい旅になるように、しんみりするのはお預けだ。
久々に落ち着くことができたということもあり、三人はのんびりと食事を楽しんだ。宿に戻るころにはもう日付が変わる時刻になっており、さすがに眠気も強くなる。
部屋に入るなりベッドにダイブしたカイに、イリーネは声をかける。
「カイ、ちゃんと汗流してから寝てくださいね」
「はーい」
返事だけはしっかりしていたが、カイに起き上がる気配はない。仰向けになって、がさがさとフローレンツの地図を広げている。
「ここから国境までは大した距離じゃないな……明日の夕方にライルと別れた後出発しても、すぐ到着できそう」
「トウルの街で、フローレンツ王国とはお別れなんですよね」
そう言うと、カイは身体を起こした。
「イーヴァンは山岳国家だ。平地を歩くことは殆どなくなるから、足腰には気を付けてね。何せ四千メートル級の山がそこかしこにあるから」
「ニム大山脈……ですね」
イリーネの呟きにカイが頷く。
世界最高峰、ニム。フローレンツとイーヴァンの国境であり、領土としてはイーヴァンが所有している山だ。北東から南西へ向けて一直線に、数百キロにも及ぶ広大な尾根。標高は五千メートルを越え、旅の要衝として待ち構えている。
その姿はだいぶ前からイリーネの視界に入っていた。トラバス山も大きかったが、それとは比較にならない圧倒感。国境の街トウルに到着したら、その威圧感はいかほどのものだろう。
――そういえば、とイリーネは我に返る。
高地に群生するフルーレの薬草を摘みに行ったとき、カイは「自分が住んでいたところにも生えていた」と言っていなかったか。どこかの山だろうかと、推測したものだったのだが――。
「カイって、もしかしてニム大山脈に住んでたんですか?」
それを聞くと、ぴくりとカイの指が反応した。こういうところだけ、カイは素直だ。仕草にすぐ動揺が表れる。
「……よくお分かりで。山の中に集落があって、俺はそこで育ったんだ」
「やっぱり! どんなところだったんです?」
「化身族だけの集落だ。自給自足が基本で、山の中で採集をしたり狩りをしたり、畑を作ったり……とにかく、閉鎖的なところだよ。だからこその平穏っていうのもあるけどね。ろくな場所じゃない」
採集と狩り。極めて原始的なその生活に、思わずイリーネは思いをはせる。そうか、だからカイは健脚で、薬草や山に詳しくて、旅慣れているんだ。自給自足ってとても楽しそう――そんな風に思う。
「寄らないんですか? お家に」
だから、そうやって尋ねたことに深い意味はなかったのだが。
「嫌だ」
「……え?」
そんなにきっぱり拒否されるとは思わず、イリーネはぽかんとした。カイはすっと視線を逸らす。
「帰らない……」
悲痛な声。今までに聞いたどんな声よりも真剣で、物悲しい声だった。
「こればっかりは、君が行きたいって言っても、俺は止める」
「カイ……」
「俺の、わがままだけどさ……もしそんなことになったら、俺」
「カイ! もう、言いませんから……! だから、そんな、泣きそうな顔しないで」
そう声を張り上げると、カイはぷっつりと黙り込んだ。
今にも泣きそうで、まるで迷子の仔犬みたいなカイ。ここまで感情を露わにしたのは、初めて見た。
多分、触れてはいけない禁忌の言葉だったのだ。イリーネはそれに触れてしまった。思い出したくないことを、思い出させてしまった。
カイに、酷いことを言った――?
固く目を瞑ってこらえようとしたけれど、眦に涙が滲んだ。するとベッドに座っていたカイが立ち上がる気配がして――ぽん、と頭にカイの手が乗った。その瞬間に身体の震えが止まり――イリーネは自分が震えていたことに気付いた。
目を開けてみると、目の前に困ったような表情のカイが立っている。
「……なんで君が泣くのさ」
「カイに悲しい顔させたの、私だから……」
「そんな重く考えないでよ。ほら、笑って笑って」
カイはイリーネの涙を親指で弾き飛ばし、柔らかい頬を軽くつねった。「痛いです」と抗議すると、カイはあっさり手を放した。
「ほんとに君は……君といると、忘れたはずのものを思い出すよ。……ふふ」
どこか楽しそうにカイは笑っていた。イリーネはおそるおそるカイを見上げて、首を傾げた。
「な、なにがおかしいんです?」
「こんな風に笑ってる自分がおかしいの」
奇妙なことを言いながらカイはベッドに座り、広げたままの地図を折りたたみ始める。
「人ってね、深夜になるとテンションがおかしくなったりするんだって」
「え……?」
「こんな遅くまで起きてるのって初めてでしょ? 俺も君も、ちょっと変なテンションになってるんだよ。だから気にしないのが一番」
故郷のことで感情を出した自分もおかしければ、それを見て罪悪感を募らせたイリーネもおかしい。きっぱりとしたその言葉が励ましや慰めの意味を持つなど、誰が分かるだろう。
「早くお湯使っておいで。それで、さっさと寝よ」
「は、はい……!」
カイに促されてイリーネはぱっと踵を返した。ベッドルームを出て、洗面室に隣接する浴室へ飛び込むように入る。宿の人にあらかじめ頼んであったから、お湯はまだ熱いくらいだ。
蒸した浴室に入って、自分の心臓がうるさいくらい早鐘を打っていることに気付く。足から力が抜けてタイル張りの床にしゃがみこんだ。室内は暑いのに、床だけはひんやり冷たい。
どうしてカイの辛そうな顔を見て、自分が泣きそうになったのか。どうして血の気が引いたのか。
謝罪の気持ちと、もうしないという固い決心だけが胸に残って――。
……ああ、そうか。
私は、カイに嫌われたくなかったんだ。
カイの気に障ることを言って、嫌われて、離れて行ってしまうのが怖かったんだ。
★☆
「おっはよー!」
翌朝になって宿のロビーで合流したライルの第一声を聞いて、カイはあからさまにげんなりした顔をした。
「朝から元気だね……」
「人の顔見た瞬間にげんなりするなよ!」
「うんうん、元気が一番だよね」
「絶対そんなこと思ってないでしょ」
噛みあわない会話はもう恒例の光景だ。イリーネはくすくすと笑って、二人と一緒に朝食を摂るために宿の外に出る。
少々出遅れたためか、手近な店はどこも混雑していた。それでも何とか席を見つけ、お手軽な朝食セットを注文する。そうして運ばれてきた食事のスープの中に小さくカットされた鶏肉が入っているのを目ざとく見つけたカイは、ひょいひょいとスプーンですくって隣のライルの椀に移動させていく。イリーネと二人だった時なら無理にでも食べたであろうそれを、ライルが加わってからは徹底的に食べないのである。
ちゃんと食べろよ、と文句を言われているカイを、イリーネはちらりと観察した。――あれから、カイはすっかりいつも通りだった。カイの故郷の話題を出すこともなければ、機嫌を悪くした様子もなく、何事もなかったかのように平然としている。カイがそうしていてくれたおかげで、イリーネも普段通りに話せている。
なんでもないふりをして、その実、色々考えているヒト。
カイは、優しすぎます。
不意にそう言ってやりたくなったのだが、やめておいた。
「まったく、どこかの誰かさんのせいで朝からお腹いっぱいだよ」
食事を終えて店を出ると、ライルは恨みがましそうな目を背後に向けた。ライルの後ろに立つ『どこかの誰かさん』は素知らぬ顔だ。
会計を済ませたイリーネがふたりの後を追いかけて、布財布の口を閉めながら微笑んだ。
「それで、今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」
今日は一日、ライルがイヴェールの街を案内してくれるらしい。そういえば先を急いでいたので、観光は何一つしてこなかった。最後の時間だけはゆっくりできるだろう。
ライルはぱっと笑顔を見せた。
「やっぱ市場だよ! イーヴァンからの輸入品も多いし、楽しいんだ。イリーネちゃんたち、これからニムを登るんだろ? 入用になるものも多いだろうから、ここで買っちゃうと良いよ」
「そういう買い物はトウルでもいいんじゃないの?」
カイの言葉に「甘いな」とライルは胸を張る。
「トウルは田舎街だし、国境の関所と宿がいくつかある以外は廃れてるんだよ。物資は明らかにイヴェールのほうが多いんだぜっ」
「そうなんですか」
「そう、だから行こうぜイリーネちゃんっ、色々案内するよ」
ライルに手を引かれて、イリーネは速足にそのあとを追いかける。弟が姉を急かすような光景だ。興奮しきったライルの様子に思わず笑みをこぼしたその時――。
イリーネの腕を引いていたライルの手がぱっと離れた。何事かと目を見開くと、ライルの手をカイがはたき落としているではないか。
「か、カイ……?」
思わず声をかけると、カイは憮然として指で頬を掻いた。
「……なんか、気に食わない光景だったから」
「……?」
意味を理解できずに沈黙していると、ライルが耐えかねたように吹き出した。カイにはたかれたはずなのに、何がそんなに楽しいのだろう。
「兄ちゃん、分かりやすっ……!」
腹を抱えて笑うライルに、カイは憮然とした目を向けてそっぽを向いたのだった。




