◇異端の血(3)
すぐ横の窓辺で小鳥のさえずりが小さく聞こえる。イリーネはそっと目を開け、カーテンに差す強い日差しから今日の晴天を知った。
身体を起こすと、隣のベッドでカイが寝ている。寝相は良いらしく、きちんと仰向けだ。
最近昼行性に転向してきたというのは本当らしく、イリーネはカイの寝姿を見る機会が多くなっていた。
ベッドに座ったまま、イリーネはサイドボードに置いてある本を手に取った。カイが昨夜買って来てくれた魔術書だ。革製の重厚な表紙には文字が刻まれている。
ぱらぱらと中を見てみると、紙とインクのにおいが鼻をつく。けれどもそこに書かれている文字はイリーネが見たこともないものだった。現在使われている文字よりやたら線が多く、一見ごちゃごちゃして見えてしまう。
けれどもカイはあっさりこれを読んでいたようだし、きちんとした文字なのだろう。魔術書とは、一体どんなものなのだろう――。
と、むっくりカイが身を起こした。徐々に目覚めるなんて過程をすっ飛ばして唐突に覚醒したようだ。それでいて寝ぼけた様子がないのがすごいと思う。
「カイ。おはようございます」
「おはよ。朝から読書?」
「読書っていうか、眺めていただけなんですけど……」
カイは大きく伸びをする。イリーネは表紙に再び視線を落としながら尋ねる。
「この本で、魔術を覚えられるんですか?」
「うん。この文字が読めて、意味が理解できて、暗記できたら」
「……道が遠そうです」
一体どれだけの時間がかかることやら。気が遠くなりそうだ。
「カイは読めるんですよね?」
「まあね」
「じゃあ、同じように魔術書を暗記して魔術使えるようになったんですか?」
「違うよ」
「違うんですか!?」
カイは肝心なことを答えてくれないので、話が一向に進まないではないか。それを悟ったのか、カイはやっと本格的に口を開いた。
「普通の化身族は魔術書から学ぶけど、ごく一部は違う。要するに、口伝だ」
「口伝……」
「俺の場合は、俺の父親から」
初めて登場した、カイの父親。やはりカイと同じ雪豹なのだろうか。同じように強いのだろうか――。
けれどもカイはそのことについて詳しく語るつもりはないらしい。イリーネから魔術書を受けとり、一ページ目を開く。イリーネも書面を覗き込んだ。しばらく文面を見つめていたカイは、やがて口を開いた。
『――、――』
「……!?」
カイの口から飛び出したのは、理解不能の言葉だった。真似して発音しろと言われても決してできない。そもそも、「言語」だったのかすら分からない。
目を丸くしているイリーネを見てカイは頭を掻く。
「今のは『古語』で、ずっと昔に使われていた言葉ね。魔術書は全部古語で書かれているから、イリーネにも覚えてもらわなきゃいけないんだけど」
「は、はい……」
カイは魔術書をぱらぱらとめくる。
「魔術は女神エラディーナによって完成された技術なんだよ」
「女神が?」
「そう。今は一人につき一属性使うのが限界だけど、女神って化け物みたいな人でさ。火、水、風、地、雷、氷、光、闇、そして神……世の中にある九属性の魔術を全部使うことができたんだって」
女神を化け物呼ばわりするなんて、とイリーネは少々呆れて笑ってしまう。
「で、何を思ったのか女神は魔術をヒトに伝えようとした。それがこの魔術書に書かれている言葉だよ。女神は魔術を、『願いと祈り』によって使っていた。その『祈りの文言』がそのまま呪文になってる」
「祈りの文言……」
「女神が、言葉にどんな願いを込めて魔術を使ったのか……それを正しく理解できれば、すぐ使えるようになるよ」
魔術書をイリーネに返して、カイは部屋のカーテンを開けた。眩しい光が部屋の中に差し込んで、少しカイは目を細めた。
「化身族は長命だから、学ぶ時間はいくらでもあるんだけど……イリーネには頑張って古語を覚えてもらわないといけないんだよなぁ」
「そういえばカイ、もう五十年近く生きているんでしたっけ……」
「人間にすれば、まだ二十代だよ。俺たち、百五十年近く生きるから。トライブによっては千年とかざらに」
「見た目の成長は緩やかなんですね」
「二十歳くらいまでは人間と同じように成長するんだけどね。ある日ぴたっと止まっちゃって、百二十を過ぎたあたりからまた急速に老いていくんだよ」
百五十年。カイはあと百年も生きるのか。どんなに頑張っても、イリーネがカイより長く生きることはできなさそうだ。
カイはどれだけの人々と出会って、別れてしまうのだろう。
「それにしても……」
おもむろにカイがシャツを脱いで着替え始めたので、慌ててイリーネは背を向けた。まったくそういうことに頓着しないカイは良いかもしれないが、イリーネはまったく良くない。
「君は記憶を失う前から古語が読めなかったみたいだね」
「そうなんでしょうか?」
「だって、現代の言葉は記憶がなくたって普通に読み書きできるでしょ? つまり古語は学んでなかったってことだと思うんだけど」
カイはもぞもぞと新しいシャツのボタンを留めている。
「……要するに君は、感覚だけで治癒術を使ってたってことか」
「感覚……よく分からないですけど、確かに私、治癒術を使おうと思って使っているわけじゃないかも」
「治癒術は神属性の魔術だ。当然詠唱が必要なのに、それをすっ飛ばしてるってことは……相当強力なんだね」
イリーネは自分の掌に視線を落とした。傷に触れると手から溢れる光。瞬時に傷を癒すような力が、自分のどこにあるというのだろう。
着替え終わったらしいカイが、部屋にある水差しから少量の水を口に含んだ。朝から空気はからからに乾燥していて、口も渇いている。
「……くどいようだけど、治癒術を人前で使わないでね」
「はい、分かってます……でも、どうして?」
傷を治す奇跡のような術だ。人助けにはきっと役に立つだろうに。
するとカイは苦い顔をした。
「使う人が少ないから、驚かれちゃうんだよ」
「けど、化身族の人は普通にデュエルで使ってますよね」
「化身族で魔術の素養がある奴は多いんだけど、人間族は少ないから。化身族に間違われたら、イリーネも賞金首になっちゃうでしょ」
そういえばそうか。そういう危険があるのなら人前で魔術は使えないだろう。
イリーネは納得したが、カイはやはり苦い表情だ。頭を掻いて振り返る。
「そろそろ朝ご飯だろうし、ライルと合流しよう。今日からイヴェールまで歩き通しになるだろうから、しっかりご飯食べるんだよ」
「おはよう、イリーネちゃん、カイルの兄ちゃん! 今日もいい天気だな!」
「そうだね、元気だね」
相変わらず会話する気ゼロのカイの横で、イリーネはライルと朝の挨拶を交わす。
完全自炊制のこの宿の一階にある調理室で、早くもライルは朝食の用意をしていた。広い室内に調理台がいくつも設置され、何組もの宿泊客が調理にいそしんでいる。
壁際の調理台を陣取っていたライルは、ベーコンを焼いてスクランブルエッグを作り、パンを盛って果物をカットするマメさを発揮していた。カイとイリーネがふたりだとまず自炊などできないので外食になってしまうが、こうやって手作りの朝食を食べられるのも嬉しいものだ。
「さあて、いっちょあがりぃ。二人とも、配膳よろしく! 俺は洗い物済ませちゃうから」
「はい」
てきぱきと指示を出すライルに従って、調理台のすぐ横にあるテーブルへ皿を運ぶ。フォークがなかったので共用スペースから三本持ってきてくれるようカイに頼むと、カイは頷いて歩いていく。
調理室の奥に大きな食器棚があって、宿側が貸し出してくれる食器や器具、調味料などが一通りそろえられている。頼んだはいいがそういうことを知っているのか今になって心配になったイリーネだったが、真っ直ぐカイはそこに向かってくれたので安堵する。
フォークを持ってカイが戻ってくる。差し出された三本のフォークを礼と共に受け取ろうとしたその瞬間――。
カイの目が黄金色に輝いた。イリーネが手を引くと、カイがひゅっとフォークを持つ腕を振るった。目の前を通過した銀色の光に思わず目を閉じたが、次いで響いた金属音に目を開ける。
カイがフォークで撃ち落としたもの――鋭いナイフだった。
調理室内に悲鳴とどよめきが充満した。カイがくるりと手の中でフォークを回す。戦闘モードに入った金色の瞳が見詰める先に、ナイフを二本持った男がいる。ハンターらしい。
だがナイフを投げたその男も、カイがいることはまったく予想だにしなかったらしい。驚きの混じった表情で、薄く笑う。
「ま……まさかこんなところで【氷撃】に遭遇できるなんて……ついてるなぁ、俺」
「……確信もなくナイフ投げたの? 相手が俺で良かったね」
カイはイリーネを背後に庇って進み出る。ハンターは再びナイフを振りかぶった。
「へ、へへ……いいじゃねえか、結果的に確信できたんだから」
ナイフが投じられる。カイは再びそれをフォークで弾き落とす。カイはイリーネをさらに背後に押しやる。
「ちょっと……俺、まだ化身すらしてないんですけど」
「あんたを化身させたら勝ち目ないからな、生身のうちに倒してやる……!」
カイが以前言っていたが、人の姿の化身族というのは、生来生まれ持った聴力や視力の良さを除けば人間のそれと同じだという。カイも規格外の跳躍力や夜目を持つというだけで、刃物が肌に当たれば血が出るし、骨も折れてしまう。
だからこそ化身させる暇を与えずに戦おうという卑怯なハンターもいるらしいが――カイは生身でも十分強かった。
ハンターはナイフを投げ切ってしまった。次にとるべき手段は――ないようだ。どうやら相棒の化身族が席を外しているらしく、時間稼ぎのつもりらしい。
カイがいよいよ本腰を入れて戦闘態勢に入ろうとした、まさにその時。
「はいはいちょい待ち! 調理室で暴れたら埃が舞うだろ!」
緊張感に満ちたカイとハンターの間に割り込んだのは、ライルである。ライルは猛獣を制するように「どうどう」とカイを抑え、ハンターに向けて一枚の名刺を向ける。
「俺はフローレンツ王国行商組合のライル! 行商の『デュエル回避』の特権において、この場の戦いの停止を宣言する!」
その言葉は、フローレンツ国内でしか通用しないものの、国内のハンターにとってはかなり重い一言らしい。相手のハンターはすごすごと引き下がり、カイも頭を掻きながら瞳の色をすっと戻した。
ライルは名刺をポケットにしまいつつ苦笑する。
「いやー、ごめんごめん。名刺なかなか見つからなくて、デュエル止めるのに時間かかっちゃったよ。怪我ない、ふたりとも?」
「は、はい。すごいんですね、行商人の特権って……」
「そりゃ、逆らったらブラックリストに追加されて一定期間商品の売買禁止って罰を受けるからね。行商人の情報伝達力は半端じゃないからさ、すぐ国中に知れちゃうし」
それより、とライルは前に進み出て、落ちたナイフをご丁寧にも拾っているカイに声を投げかける。
「兄ちゃん! なんだよ【氷撃】って、あんた『カイ・フィリード』だったのか!?」
「うん」
「そんなあっさり。カイルって偽名だったのかぁ、そうかぁ。俺もとんでもない人と出会っちゃったもんだなあ」
ライルは驚いてはいるが、どこか嬉しそうだ。それはそうか――ハンターによる護衛を望む行商人からすれば、強い化身族に同行できるのは願ったりかなったりだろう。
一緒に旅をする以上、ライルにばれないなんてことは不可能だ。むしろここまで誰もデュエルを申し込んで来なかったことが驚きである。
「ささ、朝ご飯食べちゃおう! 今日からイヴェールに向けて出発だから、たくさん食べて頑張ろうな!」
さっきまでの緊迫感などなかったかのように、ライルは朗らかだ。イリーネとカイを食卓に座らせ、にこにこしながら食事を始める。イリーネより年上のはずなのに、どうしてかライルは少年の面影が濃い。だからだろうか、見た目より幼く見えて弟のような感じがしてしまうのは。
このニーナの街から目的地イヴェールまでは、ひたすら街道を東へ進むことになる。およそ三日、今までにない長丁場だ。カイもライルも言っているように、しっかり食べてしっかり歩かなければ。食事を摂ったら宿を引き払い、食料や消耗品などの物資調達。気温が高くなって暑くなる前に、出発だ。




