◇異端の血(1)
王都ペルシエにごく近いケルボの街に到着したのは夕暮れ時だった。この先は渡し船に乗ってシャルム川を横断するのだが、夜間は船を出せないというのでケルボで足止めを食らった。それも当然で、少ない火の明かりでの渡河は危険極まりないことだ。大人しくイリーネとカイはケルボで一泊し、翌日の朝一番に船着き場へ向かった。
シャルム川――トラバス山から発生する、フローレンツ王国の河川。古来からこの川の流域では都市が発展し、現在も王都ペルシエ、エフラ、ケルボ、そして対岸の街ルウィンなど、大型の街が栄えている。
エフラはシャルム川下流付近の支流に囲まれた『橋の街』であったが、いまいるケルボの傍を流れるシャルム川は本流だ。対岸までおよそ一キロ。雄大な川を、一隻の船に乗って横断する。この渡し船にも古い歴史があり、シャルム川を挟んで西側と東側を行き来するには必ず通らねばならない要所だった。
当然、イリーネは船に乗るのが初めてだ。体験するほとんどのことが初体験であるから、何もかもが楽しくて仕方がない。運賃を払うカイに『ご機嫌だね』と突っ込まれるほどである。
渡し船は乗合のもので、五十人ほどを一度に運んでしまうほど大きかった。それを船頭が巧みに操って対岸へ進める。なんとも風情のある光景だ。
渡河には天候条件も重要な要素となるが、この日は快晴、風も穏やかで川は非常に静か。状況としては最高だ。
船の縁に背を預けて座ると、すぐに船頭が舟を漕ぎだす。ゆっくり、水を切り裂いて進む一艘の船。船から手を少し伸ばすだけでそこは水面で、手を差し込んでみれば冷たい水が絡まりつく。透明度が高く、小魚が泳いでいるのがよく見えるほどだ。
目を輝かせて水面を見ているイリーネの耳元に、隣に座るカイがそっと顔を寄せて囁いた。
「この川、人食い魚が棲みついているから気を付けてね」
「えッ!?」
イリーネはぱっと水面から手を出した。カイはそのまま無表情で、
「嘘です」
と囁く。
抗議の意味で軽くカイの肩を叩くと、カイはふふっと少しだけ笑う。無表情だったカイは、最近少しだけ笑うようになっている。声に出して笑うことはなくとも、表情が穏やかになってくれるのがイリーネには嬉しい。
すると、反対側の席に座っている青年が豪快に笑った。彼は巨大なリュックサックを持っており、中身が飛び出すほどの量の荷物が乗船前から目立っていたので、イリーネも覚えている。
「仲良いなあ、あんたたち」
「そ、そうですか……?」
急に話しかけられたことに驚きつつ、イリーネがやんわり微笑む。青年は縁に寄りかかっていた身体を起こした。
「ふたりで旅行?」
「あ、はい。私たち、ハンターで」
「へえ! 若いのにたいしたもんだな。ってことは、そっちの綺麗な兄ちゃんが化身族か」
「見分けつくんですか!?」
「いんや、適当に言っただけ。当たってた?」
若いのにたいしたもんだ、なんていう青年だけれども、見た目はカイとそれほど変わらないので人のことは言えないと思う。とはいえカイも見た目通りの年齢ではないし、お互い様か。
それよりも、やけに人懐っこいこの青年は、へにゃんと笑って見せた。垂れ目の笑顔に妙な愛嬌がある。
「どこに行く途中だい?」
「このまま東へ向かって、イーヴァンに入ります」
「ってことは目的地はトウルか。いやあ、奇遇だね、俺もそっちに行くところなんだ」
「はあ……」
「あっ、そうそう。俺はライル、旅の行商なんだ」
青年、ライルは一枚の名刺を差し出してくる。そこにはフローレンツ王国の行商組合の名が書かれていた。国内の物資の流通を取り仕切る組織のようだ。
カイが欠伸をかみ殺しながら尋ねる。
「行商って、ひとりで?」
「そうだよ。何人かでつるんでいる奴らもいるけど、俺はひとりが気楽なんだ」
ライルは大きなリュックサックの中身を漁る。それだけ物が詰まっていてよく中身を把握できているなと感心した。
「俺、薬を扱ってるんだ。国内だけじゃなくて、サレイユやイーヴァンの薬も仕入れてる。フローレンツの辺境には医者がいないなんてザラにあるから、そういうところに行って薬を売るんだよ」
「素敵ですね」
にっこり笑ったイリーネに、ライルが照れたように頭を掻く。そしてリュックの中からようやく目当てのものを見つけたのか、小さな瓶を取りだした。中には透明な液体が入っている。
「でさ、実はこういうのも扱ってるんだ。これはサレイユ産の化粧品で、髪の毛に塗り込むだけでつやつやにしてくれるんだよ。お姉さんの綺麗な髪、もっと綺麗になるよ」
「へえ……」
イリーネは床に置かれた小瓶を見つめる。ゆっくりと船の振動に合わせ、瓶の中の液体も波立っている。ただの水のようにしか見えないこれが、そんなすごい化粧品なのか。
「出会った記念だ、それあげるよ。良かったら使ってみて」
「いいんですか? それじゃあ……」
気前のいい人だと思いながら小瓶に手を伸ばしたその時、横合いからカイがイリーネの手を掴んで制止した。驚いてカイを見ると、彼は小さく溜息をついた。
「商売人がそんな気前の良いことするわけないでしょ。これで受け取ろうものなら、何かとんでもない見返りを要求されるよ」
「え、えっ?」
戸惑うイリーネの目の前で、ライルが笑う。
「あはは、兄ちゃん、疑り深いねぇ」
「でも事実でしょ?」
「いやさ、そんな大それたことじゃないよ。ただ、奇遇にも行く方面が同じなんだ。どうせだったら一緒に行動したいなあって思っただけだよ」
「わ、私たちとですか……?」
ライルは頷き、小瓶をくるくると手の中で回す。
「この国は治安がよろしくないからな、単独で旅してると色々危険な訳だ」
「それを承知して単独で行商してたんじゃないの?」
「まあ、そりゃそうなんだけどさ。商売はひとりでやるに限るが、移動はひとりじゃないほうが心強い。特にハンターに同行させてもらえば、護身になるしハンターの特権のおこぼれに預かることができるしで、良いこと尽くしなわけ」
「君には良いこと尽くしかもしれないけどね、俺たちになんのメリットもないじゃない。第一、俺たちは急ぎの旅だ。君の商売を待ってやることはできないよ」
朗らかなようで実は一触即発の雰囲気があるカイとライルの舌戦を前に、イリーネがとった手段は『沈黙』であった。残念ながらイリーネには、ライルを言いくるめるほどの知識や話術がない。
「そんなことはないよ。ハンターに特権があるように、行商組合にも特権はある。ずばり、『デュエル回避』だ」
「……なにそれ?」
得意げに胸を張ったライルに、カイが怪訝な顔をする。ライルは「ふふん」と笑う。
「商人ってのは、生産者がつくり出した製品を世界に流通させる重要な要なわけだ。だからデュエルに巻き込まれでもして商品を失ったら、それは甚大な損害になる。特にフローレンツみたいな流通の遅い国だと、世界を練り歩いて品物を売る行商人は生活の基盤を支えてる。実際、デュエルに巻き込まれて行商人が死んじまったせいで、その行商人が届けるはずだった食品が街に届かず、飢餓の被害をもたらしたことがある」
「……」
「そのために、フローレンツの行商組合は狩人協会に対して、『デュエル回避の特権』を申請した。要するに、行商人がデュエルをやめろと言ったら、ハンターたちは争っちゃいけないんだ」
「ふうん」
要するに、望まぬ戦いをしなくていいということか。それはイリーネとカイにしてみれば魅力的なことである。
カイもそれは納得したのか、少し考え込んでいる。そこで今度はライルが首を傾げた。
「兄ちゃんたちハンターなのに知らなかったの? ハンターと行商人は、フローレンツ国内では相互利益のために行動を共にすることが多いんだけど」
「俺たち、ハンターになって日が浅いから。……っていうか、なんで俺が賞金首だって知ってるの?」
その言葉でイリーネもはたと気づく。『デュエル』というのは、賞金のかけられた化身族と、それを狩るハンターの戦いのことだ。一般ハンター同士のデュエルというものは起きないはず。にもかかわらず、ハンターだと名乗っただけでライルはカイが賞金首であることを悟ったらしい。
さすがにイリーネも胡散臭くなってきたところで、ライルが苦笑した。
「だって、オーラが違うんだもんよ」
「は?」
「俺も大勢の化身族見てきたけど、兄ちゃんはなんか特別。やる気なさそうに見えるけど、強いからこその余裕って感じだし」
「へえ……オーラって目に見えるんだ」
感心するところはそこじゃないと思います、とイリーネは内心で突っ込みを入れる。
「あと、商売のことは気にしなくていいよ。俺、急ぎでイヴェールの街まで行かなきゃならないんだ。だから、俺が兄ちゃんたちについていくからさ」
カイがイリーネを見やる。最終決定はイリーネに任せるということだろう。
ライルはイリーネに向かって両手を合わせ、拝むように頭を下げた。
「頼む! 俺、煮炊きもできるしそこそこ役に立つよ。フローレンツの東部には詳しいから道案内もできる」
「じゃ、じゃあ……その、分かりました」
「ほんとに!? ありがとう、助かったよ!」
こんなに気迫のある頼み方をされては、イリーネでなくとも首を縦に振らざるを得ないだろう。心から安堵した様子のライルには苦笑してしまう。
けれども、そんなにハンターと一緒に旅をしたかったのだろうか――? そんなことを考えていると、カイが片膝を立ててぐいっと前に身を乗り出し、ライルに顔を寄せた。
「……金欠で困ってたんでしょ」
「うげっ」
ズバリの一言にライルが一気に真っ青になる。
金欠――ハンターの特権とは、協会傘下の商店や宿屋での値引きサービス。ライルは金銭的な問題でハンターを探していたのか。急いでいるというし、どこかの街で店を開いて稼ぐこともできなかったようだ。そして金がないから、馬車に乗ってイヴェールに行くこともできない。まさに八方塞がりだったらしい。
カイの指摘は図星だったらしく、ライルは妙な汗を浮かべながら愛想笑いを浮かべている。カイはやれやれと溜息をついた。
「まあ、いいけどね。俺たちいま、お金に困ってないし」
「さ、さっすが兄ちゃん! 太っ腹!」
ほんの数日前まで金欠で必死に職探しをしていたとは思えないカイの口ぶりに、イリーネは沈黙したのだった。
ライルが目指しているイヴェールは、国境のトウルのひとつ手前の街だそうだ。
そこに至るまで、シャルム川東岸の街ルウィンを通過し、そこから少し南下してニーナの街、そこからさらに日数をかける必要がある。特にニーナとイヴェール間の街道は、あのヘベティカとエフラ間並みかそれ以上の距離があった。必然的にライルとはそう短くない付き合いになるだろう。
目的地までの先導、食事の用意はライル。その他宿の確保や物資補給などの金銭的な面はイリーネとカイが負担した。自負していた通りライルはフローレンツ東部の地理に詳しく、市場の様子などは熟知していた。この宿は協会傘下だから特権が利く、食材を買うならこの店だ、夕飯にはこの店で有名な料理を食べよう。このようにライルは一貫してイリーネらの旅を引っ張ってくれて、大助かりだ。
なんといっても彼は料理上手だった。食堂が併設されていない宿では自炊か外食をするしかなく、イリーネらは常に外食をしていた。けれどもライルは安い食材を仕入れ、宿の調理室を借りて食事を作ってくれたのだ。
「じゃーん、本日の夕食はこちら! シャルム川から直送、魚の一匹丸ごとホイル蒸し!」
鍋から取り出した銀色のホイルを手早く皿に乗せ、ライルはそれを破った。中にあったのは柔らかくほぐれている魚と、付け合わせの野菜やキノコ類だ。イリーネが目を輝かせる。
「美味しそうです……!」
「だろ? カイルの兄ちゃんが肉嫌いだって言ってたんで、魚にしてみたよ」
どうやらカイは事前に根回しをしていたらしい。これでは当分の間食事は魚なのではなかろうか。別に特別肉が好きというわけではないが、さすがにイリーネもたまには食べたくなる。
「そうそう、一緒に鶏肉も焼いてあるから、よければイリーネちゃんも食べて」
「あ、ありがとうございます」
もう一つ鍋から取り出したホイルの中には鶏肉。ライルという商人は、とても気の利く青年のようだった。
部屋はふたつ取っていたが、部屋割りはいつものごとくカイとイリーネで一部屋、ライルに一部屋である。それを告げたときライルは「えっ、イリーネちゃんが一部屋じゃなくて?」と驚いた顔をしていたが、あとになってにやにやしながら部屋に引き取っていった。
彼らは今現在、シャルム川の渡河を終えて対岸のルウィンを通過し、そこから一日半ほどの日数をかけてニーナという街を訪れていた。ここは丁度トラバス山を挟んでトラバスの街と対極に位置しているため、キノコやら山菜やらが豊富だそうだ。
窓からニーナの夜の街並みを見つめていたイリーネの背後から、カイが声をかけた。
「イリーネ、俺ちょっと出かけてくるね」
「え?」
イリーネは驚いて振り返る。カイが今までひとりで出かけたことなどない。しかもこんな夜半にだ。
「どこに行くんです?」
「買い物。夜の間しか営業していない店っていうのがあってね」
カイは財布を上着のポケットに突っ込んだだけの軽装だ。
『夜の間しか営業していない』というだけで怪しく思ってしまうのは偏見だろうか。
「用を済ませたらすぐ帰ってくるから、休んでていいよ。何かあればライルが何とかしてくれるだろうから」
「……待ってますから、早く帰ってきてくださいね?」
「了解、了解」
そう言ってカイは出かけてしまった。溜息をついてまた窓の外に視線を送ると、少し経って宿の玄関からカイが出てきた。そのままのんびりと歩いて敷地を出て、市街の方へ向かっていく。
カイの姿が見えなくなってからイリーネは窓を閉じた。少し寒くなってきた。
ひとりになったのは久々で――少し心細かった。




