◇生きるため(8)
王都ペルシエに到着したのは、とっぷりと日の暮れた時刻であった。まだ子供だって余裕で起きている時間ではあるが、さすがにイリーネもカイもへとへとに疲れている。協会の一階ロビーにはまだハンターが数名おり、受付のアネッサたちも忙しく働いていた。
アネッサはイリーネにすぐさま気づき、驚いたような顔をした。それはそうだろう、通常四日間はかかるはずのトラバス山へ行ったのに、たったの二日で帰ってきてしまったのだから。
カイが持っていてくれた荷物の中からフルーレの薬草を詰めた袋を取り出す。ついでに、カイが摘んでいた赤い花も取り出して受付に向かう。カイは壁際のソファに座って休憩している。
受付に来たイリーネに、アネッサはいつかと同じように仕切りを気にして身を低く乗り出した。
「お、お帰りなさい! めっちゃ速くないですか!?」
「うん、ちょっと楽させてもらっちゃって。はいこれ、フルーレの薬草」
カウンターに乗せた薬草の袋を開け、アネッサは中身を確認する。依頼された三十本を数え、アネッサは頷く。
「はい、三十本頂きました!」
「あ、あとこれも」
美食家に人気だという赤い花の束を見せると、アネッサは大きく目を見張った。そんなに価値があるものだったのか。
「ヴェラの花じゃないですか!? これどこで?」
「トラバス山で、価値があるから換金しようって……」
「すっごい! これ相当珍しいんですよ!」
興奮冷めやらぬ様子で、アネッサは職員室へ駆けこんで行った。戻ってきた彼女の手には、依頼に対する報酬金と、ヴェラという赤い花を換金したお金が入った袋を持っていた。――明らかにずっしりと重そうな予感がする。
「依頼達成お疲れ様でした! ヴェラの花も買い取らせて頂きます。合わせて六万三千ギルです、確認の上お納めください」
「ろ、六万……!?」
大金にイリーネは飛び上がる。これまで千ギルとか二千ギルでほくほくしていたのに、いきなり桁違いのお金だ。しかも昨夜指名手配犯を確保したことで得たお金もあり、一夜にして旅人にしては十分すぎる金銭を手に入れてしまった。
大体フローレンツでは三百ギル前後で宿に泊まれる状況を考えたら、とんでもない額だ。
「この辺りじゃヴェラの花って、一本で一万ギル近い価値ありますからねぇ。もうトラバス山では採れないだろうって言われていたんですけど、まだ自生していたんですね」
そんな貴重な花を、カイは無造作に摘み取っていたのか。恐ろしいことだ。
諸々の手続きを終えて、イリーネはカイと共に部屋に戻った。一日ぶりだが、留守にしていた間も協会職員が掃除はしてくれていたらしい。シーツも新しくなっていて、清潔だった。
荷物を置きながら、さっそくベッドに座って報酬の金勘定をしているカイをイリーネは振り返る。
「お夕食、もらいます?」
「んー……そうだなあ。じゃあ軽く、サラダパスタ」
「ほんとに好きですね……」
正直疲れ果てて食べ物が喉を通る気がしなかったのだが、食べないのもまずい。イリーネは温かいスープだけ頼み、あっさりと夕食を終える。カイは相変わらずちゅるちゅるとパスタをすすっている。
「明日からどうします?」
イリーネは尋ねた。元々ペルシエを目指していたのは『記憶探し』と『資金稼ぎ』のためだ。記憶の手掛かりに目ぼしいものはなく、当面の資金も手に入った今、ペルシエに留まる理由はないのだ。
「あまり長居するわけにもいかないね」
カイは手の中でフォークをくるっと回す。
「今はアネッサが偽名を使ってくれて、俺が化身しない限りばれることはないけれど……どうせ限界は来る。やっぱり、フローレンツは離れるべきだろうね」
「じゃあ、明日発ちますか?」
「まあそう急がないで。さすがに疲れたから、せめて明日の午前中は休んでいようよ」
やや事を急いたイリーネをやんわり制しつつ、カイはフォークを咥えた。
「大体、サレイユとイーヴァン、どっちの国に行くかも決めてないし。俺、フローレンツ以外はあんまり詳しくないから、そこら辺はアネッサにでも聞いて決めたほうがいいだろうし……」
「だろうし?」
「君も、アネッサとちゃんとお別れしたいでしょ」
その気遣いが、たまらなく嬉しかった。
食事を終えるとすぐ、汗を流したらもう寝ようということになった。先に入浴したイリーネが髪の水気を拭き取りながら寝室に戻ると、ベッドにカイが横たわっていた。靴を脱いで足を上げ、完全に寝る態勢である。苦笑しつつ声をかけようとしたところで、イリーネははたと思いとどまった。
そっとカイのベッドの傍に歩み寄り、床にしゃがんで顔を近づけてみる。横になっているだけだと思ったカイは、すっかり目を閉じて寝息を立てていたのだ。
カイの寝顔は初めて見た。いつだって見張り番をするかのように夜中起きていて、それでいてイリーネより先に起きてしまう。だがここまでカイの睡眠時間は一時間とか二時間で、昨日から今日にかけて日中はずっと走っていたのだ。さすがのカイでも限界だろう。
これは滅多にない機会だ。ちょっと嬉しくなって、イリーネはじっとカイの寝顔を観察する。――相変わらず、綺麗で整った顔立ちだ。イリーネより肌は白いような気がするし、手入れなんてしていないはずの銀髪の艶は女の自分でも羨ましいほど。細くて華奢な身体のどこに、あんな身体能力があるのだろう。
こんなに間近にいて目を覚まさないとは、相当な熟睡具合だ。イリーネは部屋のクローゼットの引き出しに予備の毛布が入っていたことを思い出し、それを引っ張り出した。カイは上掛けの上にそのまま寝てしまっているから、毛布を掛けてやりたくてもできないのだ。
予備の毛布をそっとかけてやって、イリーネは部屋のランプを落とした。いつもそうしてくれていたのはカイだ。それを今日は自分がやっていると思うと、なかなかに不思議な気持ちがある。
おやすみなさい、と小さく呟いてイリーネも自分のベッドに潜り込んだ。
★☆
「さすがに寝すぎたなあ……」
固まってしまった肩をほぐすため、ぐるぐるとカイは腕を回している。イリーネもブラシで髪を梳かしながら苦笑した。
連日の疲れが出たのか、カイもイリーネも熟睡した。それはそれは気持ちの良い眠りで、浅く覚醒したときにイリーネはカーテン越しに日光の明るさを見たのだが、見なかったことにして二度寝してしまったほどだ。
結局、ふたりして昼まで爆睡である。最初にカイが目を覚まして、イリーネも程なくして起床したというわけだ。
「でも俺、ちゃんと明るいうちに目が覚めたよ。昼行性になりつつあるってことかな」
「慣れてきたんですね」
カイは少し嬉しそうだ。生活リズムの違いで、どうしてもカイの睡眠時間は削られがちだった。いくら体力があって眠らずとも平気と言っても、限度はある。夜眠れるようになるのはカイにとっても嬉しいことだろう。
朝食なのか昼食なのかよく分からない食事を摂った後、二人は荷物をまとめた。結局午前中は何もできないままこの部屋を引き払うことにしたのである。
受付ロビーのアネッサのもとへ向かうと、すっかり旅装を整えたカイとイリーネに彼女は目を見開いた。けれども同時に旅立ちを悟ったのだろう、優しく微笑んだ。
「もう行かれるんですか?」
「うん。短い間だったけど、ありがとう」
「いえ、こちらこそ楽しかったです。このあとどちらへ向かわれるんですか?」
「まだ決めてなくて」
イリーネの視線を受けてカイが話を継ぐ。彼はカウンター上に世界地図を広げた。
「とりあえずフローレンツを出ようとは思ってる。ペルシエからだと西のサレイユが近いと思うんだけど、大丈夫かな?」
西にあるサレイユ王国。豊かな緑と水に恵まれた、フローレンツとは似ても似つかぬ大地だ。
けれども予想に反してアネッサは難しい顔をした。
「サレイユはやめたほうがいいかもしれません」
「そうなの?」
「先日このペルシエで、各国の首脳が集まる会議が開かれたというのをイリーネさんにはお話したんですけれども」
その言葉にイリーネは頷く。アネッサと出かけた丁度その日に、その会議が行われていたはずだ。
「その会議に出席したサレイユ王国の第一王子が、どうも帰路の途中で行方不明になったそうなんです。なのでいま、フローレンツとサレイユの国境には厳しい検問が敷かれて、ハンターであろうと簡単には通り抜けできないんです」
「行方不明って、穏やかじゃないねぇ」
「まあもともと、ちょっと変わり者の王子らしいというのは噂に聞いているんですけどね。自分で行方をくらました可能性が高いそうですよ」
アネッサは苦笑する。サレイユ王国第一王子の消息不明は、このあたりでは日常茶飯事らしいというのをイリーネは感じ取った。
「なので、ペルシエからは少々遠いですが、東のイーヴァン王国へ向かわれるのが良いかと」
東のイーヴァン王国。大陸最高峰ニム大山脈を擁する、切り立った山岳の大地。
ということはつまり、起伏の激しい大地を旅することになるということか。平地続きだったフローレンツとは大違いだ。
「イーヴァンか……トラバス山を迂回しなきゃならないから、確かに遠いね。シャルム川を渡らなきゃならないし……」
「シャルム川の渡河なら、ハンターの証明書を提示すれば格安で渡し船に乗せてくださいますよ!」
そりゃまた便利で、とカイは呟く。フローレンツの地図を見ながら、日数を数えているのだろうか。国境のニム大山脈に到達するまで、かなり街を経由することになりそうだ。
「よし、じゃあイーヴァンに行こう」
カイが決定を下し、イリーネも頷いた。するとアネッサが「あっ」と声をあげ、ペンをとって何かを急いで書きはじめた。イリーネが首を傾げる。
「どうしたの、アネッサ?」
「イーヴァンに向かわれるなら、国境のトウルの街に行きますよね!」
「アネッサの故郷の街だよね?」
「はい! お手数でなければですが、これを私の家族に届けてくださいませんか」
書き終えた紙を畳んで、封筒に入れたものを差し出してくる。
「小さな街ですから、聞けばすぐ分かるはずです」
「え……でも、お手紙なら配達人に頼んだほうが速いよ?」
もっともな指摘をしたのだが、アネッサは微笑んで首を振るだけだ。
「イリーネさんに届けてほしいんです」
そこまで言われてしまうと、断ることはできない。封筒を受け取ると、アネッサは礼を言った。
「ありがとうございます。では、イリーネさん、カイルさん。このペルシエ支部が、貴方たちおふたりのホームです。何かあれば戻ってきてくださいね。では、いってらっしゃいませ!」
「うん。またね、アネッサ」
元気よくアネッサは手を振って、イリーネとカイを送り出してくれた。イリーネたちの所属する支部はこのペルシエで、アネッサはペルシエ支部の受付嬢だ。ここに来ればいつでも会える。そしてまた、アネッサもヘベティカのヘラーのように、去りゆく者を見送ることに慣れていたのである。
協会の外へ出る。少し視線を上げると、眩いばかりの光を放つフローレンツ王宮が遠目に見えた。白い外壁が、日光を浴びて反射しているのだ。
賑やかな通りを抜けていくカイの後を、イリーネは地図を畳みながら追いかける。
「まずはケルボの街に行こう。で、そこで渡り船に乗ってシャルム川を越える。あとは国境まで一本道だ」
ケルボという街までは数時間という距離で、たいしたことはない。もう昼もいい時間だが、このまま出発することにした。
地図を鞄にしまったイリーネだったが、その時ふと世界地図が目に入る。大陸北部の国フローレンツの、西にサレイユ、東にイーヴァン。
南に、もうひとつ国境があるのだ。先程のカイとアネッサの話では、そんな国の名は一度として出てこなかった。
「フローレンツの南はどういうところなんですか?」
そう問いかけると、カイは『ああ』と呟いて若干視線をあげる。
「ギヘナ大草原だよ」
「大草原……?」
「この大陸の中央部は、どこの国家にも属さない草原地帯だ。ギヘナ自体も国家を形成してはいないから、国としては認められていない」
「人は住んでいないんですか?」
「いや、いるよ。遊牧民だ。複数の人間が集団になって、狩りをしながら草原中を移動して暮らしている」
狩り、と聞いてすぐにハンターが思い浮かんでしまうのは不可抗力だ。それを察したのか、カイは「狩るのは野生の獣だ」と答えてくれた。
「言うなればあそこは野生の獣の聖地。ただし、狩猟される危険もあるけどね。まあ、世界で最も原始的な地域だよ。街がひとつもないどころか猛獣も多いから、そうそう一般人はギヘナには行かないよ」
「危険なんですね……」
「うん。……でも」
カイは言葉を切った。イリーネがカイを見上げると、カイは眩しそうに目を細めた。
「人間が嫌いな化身族は、安息の地を求めてギヘナ大草原に行くことが多いんだ。狩って狩られる……ごくごく自然な弱肉強食の摂理。人間に飼われることもなく、生きるも死ぬも自分次第。そういうのが、安心するらしい」
「……」
「そんな生き方をするくらいだ。大体の化身族が賞金首で、それを追ってハンターも大草原に入る。そこでハンターは返り討ちに遭う――ギヘナはね、世界で唯一、人間族と化身族の力の向きが逆になる場所なんだよ」
世界で唯一、人間族と化身族の力の向きが逆になる、無法地帯。
対等であるべき力は、必ずどちらかに偏っている。イリーネにはそれが不思議でならない。化身族の力は人間の比ではなく、彼らが本気を出せば人間などどうにでもなるだろうに。
「カイは、大草原に行こうと思ったことがあるんですか?」
「……俺には、彼らの考えが理解できない」
断言こそしなかったが、カイは否定した。それは少し意外な気もする。
「だって、美味しいものが食べられないじゃない」
「……そ、そういうことなんですか!?」
「そりゃあ俺は獣らしく生活してきたけど、人間の姿でいるのは嫌いじゃないし。街とか国とか見るの、好きだし」
カイはそう言って、上着のポケットに手を突っ込んだ。
「それに何より、俺には『約束』があった」
「約束?」
「その約束を果たすまで、人間味を忘れて本物の獣に成り下がるのだけは嫌だったんだ」
誰との、どんな約束なのだろう。
無性にそれを聞きたくなったけれど、カイの言葉はまるで独り言のようで、質問するのは憚られた。けれどもカイがそんなに守ろうとする約束だ。とても重いものなのかもしれない。
カイは肩越しに振り返り、イリーネを見やった。
「……さ、行こうイリーネ。ケルボで面白い体験ができるよ」
いつか教えてくれるかな。淡い期待を抱いて、イリーネはカイの後を追いかけた。




