◇最果ての地で出会いしは(1)
頭痛がする。
ずきずきと、頭の後ろの方が痛い。まるで殴られたような痛みだけれど、そんな記憶はない。
うっすら目を開けると、まず目に入ったのは白っぽい砂だ。まったく栄養分のない、痩せた土地の砂。風に煽られた砂が目に入り、思わず目を閉じてしまう。
なんとか身体を起こす。すぐ後ろには、破壊された木の箱があった。これは何の箱だろう。この土地にはまるで似つかわしくないほど、真新しい木材だ。
改めて周りを見る。かつての人の繁栄の名残だけしかない、廃墟の街。この風化具合は、数年という単位ではないだろう。
ここはどこだ。どうしてこんなところにいるのだろう。必死に思い出そうとするが、その都度後頭部の痛みが増してくる。
手を持ち上げる。白くて細い、けれども傷だらけの手。女の手だ。
視線を下げる。青いドレスに汚れた形跡がなく、非常に綺麗なまま。
肩にかかるものがあるので触れてみる。さらさらとしたそれは髪の毛だった。赤みを帯びた茶色の髪が、背の半ばほどにまで伸びていた。いまは砂塵を浴びたせいか、どこかパサついている。
だれ――?
言葉を発したつもりが、声は掠れて音にならなかった。乾いた砂の上にぺたんと座り込んだまま、ゆっくりと空を仰ぐ。
青い、空。雲一つなくて、鳥も飛んでいなくて、とても穏やか。
――命がない世界は、こんなにも静かなんだ。
静寂に満ちた世界。それがたとえ『死』によってもたらされたものだとしても、心地よいことに変わりはない。そのまま目を閉じ、そよぐ風だけに意識を集中させた。
そんな静寂を破る音が、唐突に聞こえる。
この瓦礫の向こうから。何かが倒れる音と、液体の音だ。
誰かいるのだろうか。
ゆっくりと立ち上がり、辺りを見てみる。と、やはり、目の前にある瓦礫の向こう側に、白い何かがあった。動いているから、生き物だろう。
砂に埋もれている煉瓦の破片を避けつつ、近づいてみる。生き物の姿を隠している瓦礫は、住宅の壁か何かだろう。そこに手をついて瓦礫の向こう側を覗いてみて――思わず、「ひっ」と喉の奥で引きつった悲鳴が出た。
白い生き物。四本の肢を持つ、真っ白な獣だった。華奢ともいえる優美な肢体が、地面に横たわっている。それが果たして豹なのかチーターなのか、はたまたジャガーなのか、乏しい知識では判別ができない。ただその中のどれであろうと、こんな綺麗な獣が存在するのかと思うほど、それは美しかった。
白ではない。白銀と評すべき長い毛に覆われた姿。あるべきはずの斑点模様はなく、白銀一色だ。尾の先だけが僅かに黒く染まっており、ゆらゆらと揺れている。
けれども、この豹の腹部の毛は真っ赤に染まっていた。ぽたぽたと地面に落ち、乾いた砂に吸収されていく血。先程聞いた液体音は、鮮血が吹き出す音だったようだ。
怪我をして、動けないのだ。そう思って一歩踏み出した瞬間、ぴくりと豹の小さな耳が動いた。首がこちらを向き、凝視してくる。その瞳は金色に輝いている。
豹は地面に横たわったまま、牙を剥いて低く唸った。その様子に、思わず立ちすくんでしまう。
(怖い……)
恐怖は強い。しかし、豹の腹部の傷から目を背けることができなかった。斬撃傷ではない、銃弾の貫通痕だ。しかも真新しい。――この辺りに、武器を持った誰かがいるのか。
気付けば横たわる豹に向けて一歩、また一歩と足を踏み出していた。相変わらず唸り声をあげる豹だったが、逆に言えば唸ることしかできないほど衰弱しているのだ。
血だまりも気にせず、豹の傍に膝をついた。ただ、この傷をどうにかしなければと――思っていたのはそれだけだ。
豹もまたそんな気配を察知したのか、牙を剥くのをやめ、じっとこちらを凝視していた。
★☆
火の爆ぜる音がした。目を開けてみると、少し離れた場所に焚き火の炎が揺らめいていた。あたりはすっかり夜だ。
ばっと身体を起こす。一体いつの間に眠ってしまっていたんだろう。傷ついた豹の傍に歩み寄ったところで記憶は途切れている。あのあと、自分は何をしたのだろう。
辺りを見回すと、そこは先ほどと変わらぬ廃墟の中だった。ただ、周囲に血の跡や木箱がないことから、誰かが移動させてくれたらしい。すぐ後ろにある壁の残骸が、いい具合に冷たい風から守ってくれている。
誰がここへ移動させて、火を焚いたのか。
あの豹がいない。どこへ行ってしまったのだろうか。
と、背後で土を踏む足音がした。ざっざっとこちらへ近づいてくる。思わず身をすくめたところで、ひょいっと人が姿を見せた。
「……目、覚めた?」
若い、男の人だ。シャツにズボンにブーツという組み合わせはいたって普通で身軽そうだが、それでは少し寒くなかろうかといったところ。背はひょろりと高く、左耳には紫色の飾りが光っている。
だが何よりも目を引くのは、その頭髪。
闇の中でもうっすら光ってさえ見える少し長めの銀髪が、夜風に揺れている。瞳は穏やかな紫色だったが、その顔に表情らしいものは何も浮かんでいない。
作り物かと見紛うほどの、絶世の美青年だ。その中性的な顔立ちも、女性の目を惹きつけるだろう。
青年はその手に二匹の魚をわしづかみにしていた。色々と驚きすぎて声も出ないこちらには構わず、彼は隣に腰を下ろし、長い棒で魚を頭から尾まで貫き通した。そして淡々と焚き火の傍に棒を突き立てていく。
何も言わない。言葉は最初の「目、覚めた?」という一言だけだ。魚が焼けるのを、隣に座ってじっと見守っている。
気まずさに耐えきれなくなり、そっと青年の顔を窺いながら声をかけた。
「……あの?」
「なに?」
「貴方はその、どういう……?」
「……カイ」
「カイ?」
「名前。俺の」
カイは短くそう告げて、くるりと魚の向きを変える。すでに片側はこんがり美味しそうに焼けていた。空腹なんて感じていなかったはずなのに、それを見た瞬間にお腹がきゅるきゅると鳴った。恥ずかしくて俯いたが、カイはなんら反応を示さない。
「あ、貴方が助けてくれたんですよね。どうもありがとう」
「そっちが先に助けてくれたんだよ」
「え?」
「怪我」
カイの怪我を診た覚えはない。あるのは、あの白銀の豹だ。
「じゃあ、さっきの豹は貴方のお友達?」
「俺が、さっきの豹」
さらりと告げられた真実。その言葉をよく吟味して咀嚼してみたものの、そう簡単に納得できるわけもない。
「……え!?」
「なんでそんなに驚いてるの?」
「お、驚きますよ。だって、貴方はどうみても人間……」
そう呟いた途端、カイは怪訝な顔をしてこちらを見やった。じっと目を合わせて、首をひねる。
「化身族を知らないの?」
「化身、族……?」
「人間でもなく、獣でもない。そういう狭間の者のこと」
世界には二種類のヒトが存在する。人間族と、化身族だ。
人間族は言わずもがな、人間の姿で生活を送る者たちのこと。世界の人口の八割が人間族で、種族の中で人種の差はあれど国家を形成し、国という単位の中で生活を送っている。世界の覇権を握っているのは、人間族である。
化身族は人間の姿も獣の姿もとれる存在。人間から獣へ、獣から人間へ姿を変えることを「化身」と呼ぶ。彼らは同じ種ごとに群れて生活することが多いが決して大規模なものではなく、中には人間の街で生きる化身族もいる。
そんな話を、カイの口からぽつりぽつりと聞いた。彼は口数が少なく説明不足なので想像で補ったが、大体は正しいであろう。
化身族は普通に街の往来を歩いているという。ならば、誰もが「化身族」という存在を知っていてなんらおかしくない。
だけれども、どれもこれもが初めて知ることだった。だから納得した、最初にカイが怪訝な顔をしたことに。常識が欠如しているのだから、当然の反応だ。
「じゃあ貴方は、化身族の『豹』さん……」
「正確には、『トライブ・【レパード】』だけど。焼けたよ」
焚き火の傍に突き立てていた魚の棒を地面から引き抜いて、カイは焼き魚を差し出してくる。原始的なその食事に戸惑いつつも、魚の身をかじった。調味料など振っていないはずのそれは、脂ものって非常に香ばしかった。
空腹だったこともありしばらく食事に専念していると、カイは立てた膝に肘を乗せ、そこに頬杖をついた。
「にしてもなー……まさか化身族を知らないなんて、もしかして記憶喪失だったり? そういえば君、名前は?」
「え?」
「名前」
名前と聞かれ、少し黙る。普通ならばすんなり出てこなければならないそれが、かすりもしなかった。名前だけでなく、自分がどういう経歴を持った人間なのか――自分の顔さえ、思い浮かばない。
カイを見つける前に心を支配していた空虚。束の間忘れていたその気持ちが、また胸に広がっていく。けれども、先程と違うのは、傍に人がいてくれること。
「……えっと、分からないです」
「あらま」
カイのリアクションはそれだけだった。変に驚くことも、気を遣ってくることもない。ただ黙って、木切れを焚き火の中へ放り込む。今気づいたけれど、その木切れはあの木箱を解体したものだった。草一本見当たらないこの大地で火を焚くのは、並大抵のことではなかっただろう。
焼き魚を綺麗に平らげたのを見て、カイはもう一本差し出す。
「まだあるよ」
「でも、貴方は……?」
「俺は平気。魚一匹じゃ身体もたないよ」
確かにその通りだったので、有難くもう一匹頂戴することにした。
「傍に、海あるんですか?」
「五キロくらい向こうに」
「……随分遠いですね」
「豹の肢なら、すぐだよ」
豹が海で魚を獲ってきたのか。それを想像すると、少し笑みが浮かんでしまう。
二匹目の魚も食べ終えると、それなりに満腹感も得られた。そうこうしている間にすっかり辺りは真っ暗になり、焚き火の炎だけが頼りになっていた。
「あの、そういえば怪我……大丈夫ですか?」
ちらりとカイの腹部に目をやる。そこには汚れ一つない白のシャツがあって、傷なんてどこにもない。豹のカイの腹部にはひどい貫通痕があったものだが、大丈夫なのだろうか。無意識に治療したにしても、歩ける怪我ではないはずなのに。
カイは腹に右手を添えた。
「君が治してくれたんだよ」
「私が?」
「覚えてないの?」
「はい……」
傍に置いてある木切れを、カイはまた持ち上げる。くるくると手の中で回しているから、焚き火に放り込むのかと思いこんでいた。いや、そう思うのが普通だろう。
だがカイは予想をはるかに裏切る行動に出た。木切れを掴むと、勢いよく自分の左手の甲に向けて突き下ろしたのだ。
「!?」
カイは顔色一つ変えずに木切れを抜いた。手の甲から血があふれ出し、地面へと流れていく。
「なにしてるんですかっ」
慌てて血を止めようと、カイの左手を握る。その瞬間、光が発生した。
それは自分の手から発せられる淡い光だった。光がカイの手を包み込み、一瞬の後には傷ひとつない手へと戻っていた。
カイは左手の甲をさすりつつ、呆然としているこちらに目線を向けた。
「こうやって、治してくれたんだよ」
「……い、いまの、なに……」
「魔術だよ。それも高度な治癒術」
「魔術?」
地に濡れた木切れを、闇の向こうへ放り投げる。
「超能力みたいなものだよ。誰でも使えるわけじゃない、使えるのは世界でもほんの少しの人だけだ。君は、そのほんの少しの人のひとり」
「私に、そんな力が……」
「俺は君のその力に救われた。感謝してる」
感謝を伝えながらも、やはりカイは無表情のままだ。けれども余計に真面目さが伝わってきて、ちょっぴり嬉しい気持ちもある。
触れただけで傷を癒す奇跡の力。そんな特別なものが自分に備わっているという実感は全く湧かないが、これが『自分』を『自分』たらしめる大きな要素であることに違いはない。失った記憶を取り戻す、重要な手がかりだ。カイの話では魔術を扱えるのは一握りで、治癒術はその中でも特に少数だという。ならば、誰か自分のことについて知っている人がいるかもしれない。
記憶を取り戻す――どうやって? ここがどこで、どんな世界かも分からない自分が、どうやって生きていくというのだ。
焚き火の炎が揺れている。カイも沈黙してしまったので、火が爆ぜる音以外がまったくしなかった。答えの見えない『どうやって生きていくか』という思考の渦に嵌りかけたところで、ぽつりとカイが呟いた。
「難しいことは、ゆっくり考えればいいよ」
「え……」
「もう休んだら。火の番はしてるから」
カイの綺麗な銀髪は、炎の色を受けて赤く染まって見える。呆然とそのさまを見ていると、カイはちらりとこちらに視線を向けた。
「……心配しなくても、取って食ったりしないよ」
何か誤解させてしまったらしい。慌てて首を振って、カイの言葉に甘えることにした。今頼りなのはカイだけだ、カイの言葉には従おうと決めていた。
固い地面に身体を横たえる。毛布も敷かずに横になるのが初めてなのかそうでないのかは分からないが、寝心地は良くはなかった。それでも文句など言えない。カイが隣に座っていてくれるのが背中越しに伝わってきて、それだけでなぜか安心した。
やがて眠気が襲ってきて、意識はゆっくりと揺らいで行った。