◇生きるため(6)
それまで一定の速度で駆けていたカイの足が、徐々に緩まっていく。強い風に当てられて目を開けていられなかったイリーネがそっと顔を上げた。ここしばらく、もう諦めてカイの背中に顔をうずめていたのである。
街道から外れてしまったので、いまどのあたりにいるか分からない。前方に常に見えていたトラバス山は確実に近く大きく見えているため、かなりの距離を移動したことは違いない。
ヘベティカの近くと比べると、荒野といえど木や草が多く生えていた。もうそろそろただの平原といっていいかもしれない。
カイはゆっくりと大木の木陰に移動して、草の上に伏せた。降りるよう促されていることは分かったので、慌ててイリーネが地面に降りる。ずっと足が宙に浮いていた――というよりカイにしがみついていたので、足を地につけた瞬間に少しよろめいたのはしかたがない。
イリーネがどくとすぐに豹の姿が揺らぎ、人体になった。だがなんと伏せていたカイは、化身を解いたとき草の上に突っ伏す形で倒れていたのである。力尽きたという態だ。
倒れ伏すカイの傍に、イリーネもまたぺたんと腰を下ろした。
「カイ……大丈夫ですか?」
「……運動不足って怖いね」
ぽつりと呟いたカイは、大きく息を吐いた。
「もうだめだ……」
「す、すいませんっ、やっぱり私重かった……」
「お腹空いて死んじゃいそう。お昼ご飯にしよう。うん」
「……は、はいっ……?」
ぱっと身体を起こして荷物を漁り始めたカイを見て、イリーネは拍子抜けしたのであった。
王都を出る前に買ったパンを二人で食べる。初めての体験で緊張したのか口の中が乾いてしまったイリーネは、水でなんとかパンを飲み込むような状況であった。カイは本当に空腹だったのかさっさと食べ終えると、足を前方に投げ出して空を仰いだ。
「何も言わなかったけど大丈夫だったの、イリーネ?」
「あ、はい……ふわふわで気持ち良かったです」
「ふわふわ?」
「あっ」
思わず本音がこぼれてしまい、イリーネが我に返った。弁解する余地もなく、カイが首を傾げる。
「まあ、豹だから毛はあるよね」
「で、ですよね」
ふわふわで温かく、しがみついていなければならなかったのは辛かったが綺麗な毛に癒された。冬場の寒い時期に化身して寄り添ってもらったら、さぞ暖かいだろうに――。
そんな妄想をしているイリーネの横で、カイは草の上に仰向けに寝転がった。目を閉じて黙っていると涼しい風が木陰に吹き、とても穏やかな気分になる。周りには人の影すら見えず、ひどく静か。カイが『誰も来ないところが好き』と言っていた理由が、少し分かった気がする。
休憩がてらしばらくふたりは涼んでいたが、微動だにしないで目を閉じているカイを見やり、イリーネはぽつりと声をかけた。
「お昼寝しないでくださいね」
「あ、ばれた?」
寝る気満々だったのか。あのまま黙っていれば確実に昼寝モードに入ったのだろう。
カイは身体を起こして伸びをした。ぽきっと肩の関節が鳴る音が聞こえる。
「それじゃあ行きますか。あと二時間くらいでトラバスの街に着くけど、スルーして山に入るからね」
「はい、お願いします」
化身したカイの背中に乗る。カイには申し訳ないが最初ほど嫌ではなくなったのは、背中の気持ちよさを知ってしまったからである。
間近にトラバス山が迫る。低いと言っても山は山、やはり近くに来ると圧巻だ。
右手に住居、あれがトラバスの街だろう。本当に麓に栄えた小さな街のようだ。街からは街道が出ていて、遠目にもちらほら人の姿が見える。カイはそこで進路をずらし、左手のトラバス山へ一直線に向かった。
最初はゆるい上り坂だが、明らかに道ではない場所を駆けあがっている。カイにしがみつきながら少し周りを見ると、背の高い樹木に色とりどりの花や様々な草がたくさん生えている。さすがフローレンツ有数の植物群生地だ。好き勝手に空へそびえる樹木を難なく躱し、さらに高所へ。
次に見えたのは巨大な岩がごろごろと転がる場所だった。足場も悪く、人の足では到底飛び越せないような隙間さえある。落ちたら、一発で奈落の底だ。
カイは駆け抜ける勢いそのまま、強く地面を蹴った。その躍動がイリーネにも伝わる。軽い跳躍に見えて、強靭な足のバネが使われているのだ。
岩場の先は連続して急斜面が待ち構えていた。さすがにカイの足取りもやや重くなったが、それでも獣の肢だ。イリーネだったら確実に座り込んでいただろう坂を一気に駆け上がる。
そうやって一気に登山したが、途中で急にカイは歩調を緩めた。目的地が近いのだろうかと思ったのだが、歩みを止めることはなくゆっくりと先へ進んでいる。そして時折カイは首をひねり、イリーネを振り返ってくるのだ。まるで『大丈夫か』と尋ねるような黄金色の瞳だったが、何のことかさっぱり分からない。
結局カイが完全に足を止めたのは、日が傾きはじめる前だった。斜面の多かったトラバス山の中で比較的平らな場所。辺り一面は草で覆われ、切り立つ斜面に生える木の向こうに、トラバスの街が小さく見える。シャルム川は山の反対側から流れ出ているらしく、見ることはできなかった。
山頂付近、採取目的であるフルーレの薬草の群生地についたのだ。
化身を解いたカイは立ち上がり、手についた草を払いながら真っ先にイリーネに尋ねた。
「気分悪くない?」
「え?」
「一気に高いところに行くと、気持ち悪くなったり頭痛くなったりするから。一応身体慣らすようにゆっくり登ってきたつもりなんだけど」
俗に言う高山病である。それでゆっくりだったのか――そんなに気遣ってくれたのかと思うと嬉しくなってしまう。イリーネは微笑んで頷いた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「ん」
カイはどっかりと草はらに腰を下ろす。イリーネは鞄からアネッサに渡された依頼書を取り出し、そこに書かれた薬草の図を見る。濃い緑で、茎は長く、葉脈は網状。今の時期は白い小さな花を咲かせているという、小さな草だ。
「フルーレの薬草は……」
「これでしょ」
胡坐をかいているカイは少し手を伸ばし、生えていた草を無造作に摘み取った。図と見比べるまでもなく、それがフルーレの薬草だった。そういえばカイは最初からこの草を知っていたようだったか。
「医者もよく使う、強い痛み止めの薬草だよ。高地に生えて、フローレンツじゃこの辺りにしか生えてないから、希少価値は高いんだ」
「詳しいんですね」
「俺が住んでたところにも生えてたからね。化身族には医者なんていないし、原始的に薬草を塗り込むくらいしか治療はなかったから」
カイが住んでいたところ。どう考えてもオスヴィンではないが、だとしたらどこかの山の中だろうか?
一度見つけてしまうと、この辺りにはまるで雑草のようにフルーレの薬草が生えていた。依頼されたのは三十本だったが、少し余分に集めておく。ものの数分で目的は達したが、カイは何か別のものを摘んでいるようだ。フルーレの薬草を袋に詰めたイリーネが、しゃがみこんでいるカイの傍に歩み寄る。
「何しているんですか?」
「ちょっと珍しいものがあって……」
カイの手には、大きな赤い花が数本握られていた。
「花弁を煎じて飲むと健康に良いんだって、美食家とかいう人たちが大騒ぎする花なんだけど……なかなか珍しいものなんだ」
「カイ、健康気にしてるんですか? そうですよね、お肉食べないと力つきませんものね」
「何言ってんの俺は健康だよ。そうじゃなくて、集めてあとで売りさばく」
もう一本花を摘んで、カイは別の袋に花を入れた。
「狩人協会で珍品買取もしてるんだってアネッサが言ってた。価値あるもの持って行けばお金になるよ」
「け、堅実ですね……というか、いつの間にそんな話を」
「楽してがっぽり稼ぎたいじゃない。せっかくこんなところまで来たんだから」
その顔には『ここで稼いでしばらく働きたくない』と書いてあるような気がしたのだが、イリーネは見なかったことにした。
フルーレの薬草と赤い花を集めて下山し、麓のトラバスの街へ到着したとき、もうあたりは真っ暗であった。少し離れた場所で人の姿に戻ったカイとふたりで街に入ったが、出歩いている人はいない。だが住居に灯りはついているので、それだけは一安心だ。大きな都市でなければ、夜に出歩くなどということはないのである。
とりあえずふたりは狩人協会のトラバス支部へと向かった。できれば赤い花を換金し、ついでに宿の場所でも尋ねようと思ったのである。
トラバス支部の看板が見えてきたところで、カイとイリーネの目の前を黒づくめの人間が駆け抜けて行った。何だろうとその姿を目で追っていると、黒づくめを追うように若い青年が姿を見せた。
「あ、あいつを捕まえてくれ! 空き巣だ!」
空き巣という言葉に真っ先に反応したのは、カイ。
一目散に黒づくめの男を追いかけ、あっさりカイは追いついてしまった。男の腕を強く引くと、空いている手に握られていたナイフがカイめがけて振るわれる。顔の横を掠めたそれを手ではたき落とすと、ひょいと男の足を払い、転倒させてしまう。そうして後ろ手に取り押さえたところで、イリーネと青年が駆けつけた。
「大丈夫ですか!?」
「うん、平気」
カイは息を切らした様子もない。地面に俯せに取り押さえらている男は呻き声を漏らしていた。
空き巣だと叫んだ青年が溜息をついた。
「ありがとよ……帰ってきたら俺の家からこいつが飛び出て行ったから、追いかけたんだけどさ。あんたたちがいなきゃ捕まえられなかったよ。こいつめ、協会に突き出してやる!」
警察組織が存在しないフローレンツでは、基本的にその業務も狩人協会が受け持っている。そのため、青年と一緒に男を連行して行くと、支部の職員から丁重に礼を告げられた。少し調査があるから待機していてほしいと言われたので支部内で待っていると、何やら興奮した様子で職員が戻ってきた。曰はく、
「奴はサレイユ王国から指名手配されていた大罪人だったよ! まさかこんなところまで逃げてきていたなんてねぇ。ありがとう、おかげで助かったよ!」
ということだった。
つまり知らないうちに追跡任務である『指名手配犯捕獲』をこなしてしまったというわけだ。まさかそうだったとは思わず、カイもきょとんとしている。
どうやら隣国であるサレイユで罪を犯したあと不法に国境を越え、こんな辺境まで逃亡してきたはいいが金もなくなり、盗みに入ったらしい。そこに家主である青年に見つかり、逃げたところでカイに捕まった。なんとも残念な末路である。
ともかく賞金首を捕まえた訳なので、莫大な賞金を一夜にして手に入れたのだ。さすがにカイの賞金額九八〇〇万には遠く及ばないが、カイとイリーネなら半年くらい何もせずとも食っていけるだけの額だ。
さらに支部からも礼として一夜の宿と食事を無料で提供してくれたものだから、イリーネは拍子抜けである。
トラバスは観光地だけあって宿も多く、高級志向な場所が殆どだった。その宿の部屋を貸してもらったのだが、イリーネはまだ実感が湧かない。
「ほ、本当に良かったんでしょうか……」
「まあいいんじゃないかな。偶然遭遇しちゃったんだから仕方ないし」
すっかり重くなった財布を揺らして、カイは肩をすくめる。
「やっぱり追跡任務のほうががっぽり稼げるよね。俺は今からそっちに転向しても構わないんだけど」
「いえ、でも……」
「……分かってるよ、冗談だ」
カイはそう言って、部屋のテーブルに置いてあった茶菓子の包みを開けて口に放り込む。小さな焼き菓子だ。
「何もしていない化身族をただ強いからって理由だけで狩るのは、俺も理不尽だと思うよ。俺だって狩られる側だから、理不尽だと思ってる。でも犯罪者は……そいつのせいで誰かが確実に不幸になったんだ。そいつはちゃんと捕まえて、罰するべきでしょ。じゃなきゃ報われないよ」
意外な言葉にイリーネは目を見張った。カイは菓子の包みを丸めてくずかごに放り込み、椅子に腰かけているイリーネを見やる。
「――ってことにしておこう」
「はい、そうしておきます」
もぐもぐと口を動かしながらカイはベッドに腰掛けた。
「まあ、奇しくも大金を手に入れた訳だ。さっきどさくさで換金できなかった赤い花もあるし、明日には納品した分の報酬ももらえる。しばらく仕事しなくていいかも……」
「またそんなことを……」
「お金持ちすぎてると、目つけられるからね」
それは真理かもしれない。今回は幸運に恵まれて金銭を手に入れたに過ぎないが、それでも大金は大金。持ちすぎても心が荒むだけか。
もう少し仕事に慣れたら――いや、旅の資金を得ることができたら、王都を出てまた旅を再開する。イリーネたちはハンターではなく、旅人だ。ハンターになったのは資金を手に入れるためであって、本格的にその活動をするつもりはない。いつかは別の場所に旅立つのだ。それはすなわち、せっかく仲良くなったアネッサとの別れを意味するが――彼女は王都ペルシエの協会にいるのだ。それが分かっていれば、いつでも会える。
記憶の手掛かりになりそうなものは、王都にはなかった。ただ大聖堂と王宮に見覚えがある、ここに来たことがありそうだというそれだけだ。
けれども、記憶なんてなくてもいいのではないかとイリーネは思い始めている。知らないことばかりなのは不便だけれど、新しいことを知る楽しさはある。何より、カイと作っていく思い出がかけがえのないものだと知ったから。




