◆最果ての地で出会いしは(10)
寝室の壁を一枚隔てた向こう側から、水音がする。イリーネが湯を使っている音だ。
壁も厚く、普通は聞こえないと思うが、カイの耳は獣のそれなので音を拾うには十分すぎる。
カイには「入浴」などという習慣もなければ、それの良さも知らなかった。たまに川を見つけたら水浴びもしたが、まさか湯を被ることになるとは。だがどうやら人間族の間でそれはごく一般的なことであるようだし、イリーネも特に何も思っていないらしい。価値観の記憶まで失っていない彼女がそうなのだから、多分間違いない。
通常化身族は人と共に生活する。だから街中にいる時は基本的に人体を取り、デュエルにでもなれば化身して獣体を取る。けれどもカイは長いこと野生で暮らしてきたために、これだけ長い間人の姿のままでいたのは久々だった。夕方の騒ぎで豹の姿になれたのは正直楽だったのだが、やはり極力化身は避けた方が良さそうだ。
人間が獣へ姿を変える術を見つけたのか。それとも獣が人間になったのか。どちらなのかは、当の化身族たちにも分からない。確かに人間らしい思考もできるので前者の説が有力かもしれないが、結局自分たちは「人であり獣である」者たち。どちらにもつけない『狭間の者』だ。
昔――幼いころのカイは好奇心の塊で、よく人の姿になって単独で街を出歩いては、集落の仲間たちに叱られたものだ。ある時を境にそんなことはしなくなったが、その頃からカイは『変わり者』だった。
人と群れて暮らすのが世の常だというのに、あえてそれを避ける化身族の集落フィリード。そこに生まれたというのに、自分から人間に近づこうとする愚かな変人。そう呼ばれ続けてきたが、別にカイは気にしたことがない。
けれど集落を抜け出して、手痛い失敗をした。それから故郷に近いこのフローレンツに戻ってきたが、故郷のフィリードに戻ることもできず、ふらふらと放浪していたのである。
そこで、イリーネを見つけた――。
イリーネの問いには「否」を返したが、実際には人間とつるむのが嫌だという化身族も、ちゃんといるのである。フィリードという集落は、そんな化身族を受け入れる場所だった。
いつの間にか水音は聞こえなくなっていた。それに気づくとすぐに、寝室にイリーネが入ってくる。ただでさえ長い彼女の赤みのある髪は、湿ってさらに長く見える。重そうだ。
「お湯、空きましたよ。どうぞ」
にっこりと微笑むイリーネを見て、カイはベッドに起き上がる。
――彼女といると、調子が狂う。カイは湯を使うなんて一言も言っていないのに、さも当然のように湯浴みを促す。イリーネは純粋な善意からそう言っているのであって、そのことを何も疑っていないのだろう。
それにイリーネは、当たり前の『人間族と化身族の関係』を知らない。そんな彼女が今の世界の在り方に疑問を持つのは、ある意味当然なのかもしれない。だからそういう話をしていると、「ああこういう人間もいるのか」とカイは感心を通り越して感動すらする。
化身族の権利。人間も化身族も同じ人なのだから、対等であるべきだ。
きっと、イリーネはそのうちそんなことも言い出すのではないだろうか。
そんなことを考えていると、カイも無邪気だった昔を思い出して――つい饒舌になる。イリーネの話はとても理想的なのに、なぜか口は意思に反して彼女の意見を否定しようとする。我ながらひねくれている。
イリーネに促されて浴室に入る。お湯の蒸気が室内を蒸していて、ひどく息苦しい感じがする。ついでに何の匂いであろう、甘ったるい。匂いの発生源は石鹸らしい。これではさらに息苦しいではないか。
適当に湯を頭からかけてタオルで拭く。壁に鏡がついていたので、ふと蒸気越しに自分を見てみる。――まったくイリーネの治癒術はすごいもので、出会ったときあの銃撃痕以外にもちらほら生傷があったのだが、それすらすべて消してくれたのである。魔術の使い過ぎでイリーネはぶっ倒れてしまったが、本当にあれは感謝している。
素晴らしい魔術だとは思うが――魔術とは基本、化身族しか使えないものだ。何せ『化身』というそれ自体が魔術のようなものなのだから。
イリーネがそれを使えるということは、考えられることはひとつしかないが――化身族とはまた違った意味で『狭間の者』は、えてしてどちらの種からも疎まれるものだ。
彼女の責任ではないというのに、なんと理不尽なことであろう。
だからできれば、彼女にはそれを知られたくない。
おそらく入浴時間は三分にも満たなかっただろう。さっさと夜着に着替えて寝室に戻ると、どこにもイリーネがいない。おや、と視線を巡らせると、彼女はベッドに横になって眠っていた。布団にも潜らず、上掛けの上にそのままだ。
そんなに疲れたのか。本当に寝つきが良い。というか、こんな短時間で眠れるのか。もしかして気絶してないか?
少々心配になって顔をイリーネに近づけると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……風邪引いちゃうよ、お嬢さん」
軽く声をかけても起きる気配はなし。
仕方なくイリーネを抱き上げてベッドに寝かせ、毛布をかけてやった。他人をそんな風に丁重に扱ったことがなかったので、少し骨が折れた。彼女は軽くて、細くて――壊れてしまいそうだ。
「やれやれ……何やってるんだろ、こんなところで俺は」
誰ともなく呟いて、カイは自分のベッドに腰を下ろす。すっかり夜も更けてきた。ちらっとカーテンを開けて外を見る。窓の下にある路地に、人影はない。
まさか寝込みを襲うハンターなどいないだろう。おそらく、だが。
いつものように眠気などまったくないので、暇つぶしにと荷物を漁る。鞄の一番上にあったのは財布。巾着の口を開いて中身をベッドの上に出す。じゃらじゃらと貨幣が落ちてきたが、その音はどこか心許ない。
一ギル銅円が八枚、十ギル銅板が九枚。
百ギル銀円が四枚に、千ギル銀板が一枚――。
しめて、一四九八ギル。
「……うわ、お金ない」
カイが元々持っていた額はたかが知れているし、あの時殺した男たちから取り上げた金額も多くはなかった。旅装を整えるためにどうしても金は必要だったため、思いの外早く減ってしまったようだ。
「さすがに仕事探したほうがいいか……」
銅貨と銀貨を財布に戻しながら呟く。
仕事の当てはある。というより、他に選択肢がない。イリーネは嫌だと言うだろうが、こればかりは仕方がなさそうだ。
エフラと王都ペルシエ間は、そこまで距離がない。おそらく明日の夕方には王都に到着できる。
そうなったら、彼女に説明しよう――。
「……働くって、嫌だなぁ」
心からの呟きが漏れた。勿論働いた経験はないが、『仕事』という言葉の響きだけで嫌な予感がする。
願わくば簡単で、がっぽり稼げる仕事に出逢えるようにと――少々情けないことを、カイは本気で模索しているところだった。