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 空気が冷たい。


 外は煌々とした闇を湛えて、規則正しい木目をそろえた床のうえに優雅な月光を突き刺す。埃にくもる窓は黄金色の刃物を透きとおし、ひび割れた鉄格子が錆色の反射をあたり一面にまき散らしている。夜の体育館は、痺れるほどに空虚だった。


 僕の腕のうえで、彼女が頭を動かす。起きているわけではないらしい。柔らかな感触の髪の毛が腕をこすった。ほんの少し茶色を帯びている彼女の髪は、水にたらした一滴のインクのように床に大きく広がって溶けている。


 寝息が聞こえる。熟睡しているようだ。


 僕はほほえんで、彼女の前髪をかきわけ、眠るお姫様の額にゆっくりと口づけをする。


 それを感じたのか感じていないのか、彼女は一瞬目をぴくりとだけ動かしてから、少しして再び安らかな寝息をたてはじめた。


 ……ああ、愛しい。


 愛しさとはこういうものだったんだと、初めて実感させられる。


 彼女に出会わなければ、きっと一生感じることのできなかったであろう、不思議な感情だ。


 ――ふと、この学校に愛着がわく。


 彼女は卒業だと言っていたけれど、時期はまだ秋になりたてだ。ただ単に、先生たちがみな向こうの世界に行ってしまうから、という理由だけで、この学校と僕たちは捨てられた。


 ……捨てられた、なんて言い方は、よくないと思うけれど。


 君も一緒なんだね、と。一言でも、声をかけてやりたくなる。


 僕らの城。


 僕と彼女だけの、秘密のお城。


 さしづめ、僕は王子様にでもなるのだろう。


 彼女は王女様。わがままで気ままで、誰よりも優しくて、いつだって僕を受け入れてくれる、聖母みたいな人。


 ここは、二人だけの城。召使も、兵士たちもいない。襲われることもないし、壊されてしまうこともない。たった二人だけの、永遠の城なんだ。


 …………。


 ……そうだ。


 このままずっと、城の中に住み続けてしまおう。


 僕らだけの城に、このままずっと、こもり続けてみよう。


 もう、誰も心配しない。僕らのことをとがめる人は、誰もいないんだ。


 だからこのまま、彼女と一緒に。


 僕らだけの時間を、飽きるまで過ごしてみようかな。


 …………。


 …………。


 僕にはまだ、睡は訪れない。








 彼女は、気づいているんだろうか。


 両親を失くして、親戚のところに預けられ、掴みようのない悲しみと痛みを負い、それでもなお歩くことを決めた悲劇のヒロイン。


 それはすべて虚だったんだと、彼女はもう、気づいているんだろうか。


 保健室で彼女の寝顔を見ていたとき、僕は初めて、それに気づいた。


 整った顔立ち。少し垂れ下がった目元。控えめな鼻に、表情のある唇。耳は広く大きくて、白々とした肌はふんわりとした独特の雰囲気を持っている。


 一目でわかった。


 これは、父さんの顔だ。


 あの日、僕の目の前で殺された父の顔が、僕の脳裏に強くよみがえってきた。


 推測は、真実になった。


 両親が死んでしまった、という彼女の話を聞いたとき、もしかして……と思っていたこと。


 それがあの時まさに、現実となって僕に降りかかってきたんだ。








 まだ父さんが生きていたころ、僕はある話を聞かされた。


 双子の姉の話。


 物心つかないうちに、姉はこの家を離れて、遠い親戚の家に住んでいる、という話。


 どうして姉が家を出たのか、僕は疑問に思った。


 父さんはその理由を、簡単に話してくれた。




「……僕はね、楓。命を狙われているかもしれないんだ」




 今になって、あの言葉はやっぱり真実だったのだと、よくわかる。


 父さんは科学者として、さまざまなものを開発してきた。それはときに便利なもので、どうでもいいもので、危険なもので……ありとあらゆる発明を、生まれてすぐのころから私と姉は見ていた。


 ……しかし、名声は時として、怨恨にも変わる。


 父さんはそのことをよく理解していた。そして、覚悟もしていた。


 自分の命が奪われてしまうのは、まだいい。しかし……子供たちの命だけは、なんとしてでも守りたい……。


 僕の両親は、苦渋の決断を迫られた。


 ――そして姉だけが、家族のもとを離れた。


 子供を危険にさらしたくない。でも、自分たちの手で、子供を育ててあげたい……。頑なな二人の想いと、現実とのすれ違い。


 選ばれた答えは、不運にも、二人の子供の存在を引きはがした。








 彼女はもう、気づいているのだろうか。


 僕らがこうして、磁石のように惹かれあった、その真の理由を。








 ……眠が、僕の頭を襲ってくる。


 ああ、駄目だ。そろそろ僕も……疲れてしまった。


 彼女の寝顔は、ゆっくりとほほえんだまま、ぴくりとも動かない。


 絵画の中の聖母のように、優しく、眠っている。


 冷たい床に、もう片方の腕を広げる。


 じわじわと広がる清涼感が、幸福で溢れた心を満たす。


 ――幸せだ。


 今の僕はきっと、世界で一番幸せなのだろうと思う。


 偽物だらけの、歪んだ世界の中で。


 僕はたった一つ、本物を見つけることが出来た。


 この想いはきっと、偽物なんかじゃない。


 この温もりはきっと、偽物なんかじゃない。


 胸が暖かい。


 きっとこれが、幸せってものなんだ。


 そうだろう、父さん。


 僕は、あなたが大好きでした。


 でも許してほしい。


 あなたの創った世界を、愛してあげられなくて。


 僕のわがままで、あなたの命を奪ってしまって。


 でも僕は、この世界にとどまりたい。


 あなたが生を終えた、たった一つの世界の中で。


 あなたが残してくれた、たった一つの本物と一緒に。


 幸せって、きっとそんなものだ。


 そうだろう、父さん。


 僕は幸せだよ。


 ありがとう。









 いつまでも続くだなんて、思わない。


 明日になれば、彼女はいなくなるのかもしれない。


 彼女もまた、向こうの世界へと旅立ってしまうのかもしれない。


 僕には、何もできない。


 神様、あなただって、そうでしょう?


 でも、それでいいんだ。


 今だけでも、彼女が僕の傍にいてくれるなら、それでいいんだ。


 夢だろうが現実だろうが、どうだっていい。


 ここが僕らの、「空想ヴァーチャのような現実リアル」。


 僕らが見るのは、未来じゃない。


 途方もなく向こう側へと続いていく、現実いまだけ。


 幸せだろう?


 いつかすべてはいなくなる。


 幸せじゃあ、ないか。


 忘れられるなら、それも。


 失ってしまうのなら、それも。


 僕はもう、眠たいよ。











 睡眠が、僕の目を撫でる。


 ほら、もう。


 時計の針は、明日を刻んでいるよ。


 さあ、寝よう。寝てしまおう。


 王子様も、王女様も。


 お城もみんな、ぐっすりと。


 おやすみなさい。


 また明日。


 昨日の現実いまに、さよならを。







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