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半年連絡ゼロの夫が知らない令嬢と談笑中です

作者: たっこ
掲載日:2026/05/26

 その日、クロエの心は、粉々に砕けた。


 見たことのない、夫の笑顔の横顔が。

 見たことのない、美しい令嬢に向けられていたから。


 令嬢の声は、鈴の音のように可愛らしかった。


「……また、こうしてお会いできて、本当に嬉しゅうございます。あなたがいなければ、わたくし……」


 答える夫の優しい声は、他人の声のように響いた。


「いつでもお呼びください。コンスタンス殿をお助けするためならば、私は力を惜しみませんので」


 クロエは、くらりと目眩(めまい)がした。


(……『いつでもお呼びください』?

 ……『力を惜しみません』?

 妻の私とは、半年間も会っていないのに?

 『仕事だ』と言って、手紙の一通も寄越さなかったのに?)


 倒れそうになるのを、壁に手をついて、なんとか耐えた。

 ここは、王宮。

 迷惑を掛けるわけにはいかない。

 クロエは、物音を立てないようにして、よろめきながら、その場を去った。

 しかし、涙がこぼれるのだけは、どうしても(こら)えられなかった。





 セルジュ・ド・レニエ子爵。

 それが、クロエの夫の名前だ。


 まだ若い。

 それでも、宮廷で一目置かれているらしい。

 しがない男爵家の令嬢であったクロエは、宮廷の事情に詳しくないので、その理由を知らないが。


 とにかく、子爵家と男爵家の身分差婚だ。

 父と母は大喜びし、諸手を上げて、クロエを子爵夫人として送り出した。


 それが、かれこれ一年前。

 結婚生活は……うまくいっているとは、言えない。


 新婚から半年間、ろくな会話が無かった。

 そして、その後の半年間、彼はずっと留守だった。

 『仕事だ』と出ていったきりで。

 手紙のひとつも寄越さずに。


 無口、無表情、筆不精。

 それがレニエ子爵、セルジュであった。


 『白い結婚』。

 そんな言葉が脳裏をよぎるたび、クロエは必死にそれを打ち消した。


(そんなはず無いわ。きっと……お忙しいだけ。

 信じなくては。私は、セルジュ様の妻だもの)


 しかし、半年。

 半年である。

 屋敷でひとり待つクロエの心は、限界だった。


 そんな中、仲の良い貴婦人が、こんな誘いをかけてくれた。


『こんど、王宮の庭園で、薔薇を見る会が開かれるのだそうよ。

 レニエ夫人も、行ってみませんこと?』


 王宮といえば、夫の勤め先だ。

 誰か、事情を知っているかも……。


 クロエは、参加を決意した。


 そして、目撃してしまったのだ。

 庭園の片隅で、夫が知らない令嬢にほほえみかけているところを。


(信じた私が、馬鹿だったんだわ!

 そうよ……初めから、そうだったじゃないの!)


 思い出すのは、新婚当初。

 子爵の屋敷に迎えられたばかりの時、クロエとセルジュの二人で、自宅の庭でお茶をしたことがあった。


 セルジュは、ただ黙々と飲食していた。

 クロエは、夫が不機嫌なのかと不安になった。

 そして、懸命に話しかけた。

 だが。


『このお茶、とてもよい香りですね』


『ああ』


『そ、それにこのスコーン、とってもおいしいです。ジャムも甘酸っぱくて……』


『ああ』


『わ、わあ、(すず)(らん)! このお屋敷、お庭に鈴蘭の花が咲くのですね! 私、この花が大好きで……!』


『そうか』


『……あの、よ、よいお天気ですね……』


『ああ』


『………………』


 何を言っても、『ああ』一辺倒。

 クロエは、あせった。


(わ、私ばかり、話し過ぎなのかしら。

 もしかしたら、セルジュ様にも、お話ししたいことがあるのかも。

 ……おとなしく待っていたほうがいいかしら?)


 そう思い、試しにクロエは黙ってみた。


 三分待った。

 セルジュは、何も言わなかった。

 さらに五分待った。

 セルジュは、静かに茶を飲んでいた。

 さらに十分待った。

 セルジュは、目を細め、庭の草花を見ていた。


 気まずすぎる沈黙。

 クロエは、耐えきれず、心にも無い事を言った。


『……あの、セルジュ様……』


『……ん?』


『……とても、楽しいですね』


『ああ』


 むなしいこと、このうえなかった。

 結局、クロエはその後ずっと、自分のつま先を見つめていた。


 あのときのクロエは、まだ信じていた。

 あの日はたまたま、セルジュの虫の居所が悪かっただけだと。

 きっと、何かの間違いだと。


 しかし、今のクロエは、もう違う。

 彼女は、泣きながら、心の中で叫んだ。


(セルジュ様は、私に、これっぽっちも関心を持っていらっしゃらないんだわ。

 私は、最初から愛されていなかったんだわ……!)





 クロエは、屋敷に戻ってきた。

 涙に濡れた顔を見て、子爵家の使用人達がみな驚いて声を掛けてきたが、すべて振り切って、クロエは自室に駆け込んだ。

 そして、自分の荷物を鞄に押し込んだ。


(セルジュ様と、あの御令嬢との、不倫のカモフラージュに利用されるくらいなら、出戻りにでもなんでもなってやるわ!)


 巨大な鞄を手にして部屋から出てきたクロエの姿に、使用人達は目をむいた。


「お、奥様、いったいどこへ!」


「わかるでしょう。ここを出ていきます!」


「ええっ!? お、お待ちください!」


「待たないわ。そこをどいて。通してちょうだい!」


 玄関先で、クロエは使用人達と押し問答した。

 そこへ、ちょうどセルジュが帰ってきた。

 使用人達は、みな彼に助けを求めた。


「旦那様! 奥様をお止めしてください!」


「……ん? ただいま、クロエ。

 どうしたのだ、その荷物は?」


「実家に帰らせていただきます。

 今まで大変お世話になりました!

 それではごきげんよう、レニエ子爵!」


「…………なんだと!?

 待て、なぜだ! ようやく、また……」


「理由は、ご自分が一番おわかりでしょう!」


「わからないから聞いている!」


「まあ、あきれた! 往生際の悪い方!

 とてもきれいな御令嬢でしたわね!

 どうぞ、あの方とご結婚なさいませ!」


 クロエは、口では威勢よく(たん)()を切った。

 だが、あの光景が、また思い出された。

 堪えきれず、涙がにじんだ。


 セルジュは、クロエの泣き顔に、うろたえた。

 そして、「御令嬢……?」とつぶやき、はっと目を見開いた。


「……違う! あれは違う!

 君は勘違いしている!

 とにかく、行くな! 行かないでくれ!」


「な、何が勘違いなものですか……!

 あんなに、あんなに楽しそうに……!」


「だから、違う! とにかく、屋敷に戻れ!

 中で詳しく話す!」


「騙されないわ!

 やましいことが無いのでしたら、ここでお話しになったらいかが!?」


「ここでは無理だ! 外に聞こえる!

 ……ええい、悪く思うな!」


「な、何を……きゃっ!

 離して! 降ろしてください!」


 セルジュは、クロエを肩に担ぎ上げた。

 荷物でパンパンの、巨大な鞄ごと。

 どこにそんな力があったのか知らないが、とにかくセルジュは、クロエを担いだまま屋敷の中に入り、夫婦の寝室へ向かい、ベッドの上にクロエを座らせた。


 そして、彼女の両肩を掴み、目を合わせた。

 真剣な表情だった。


「……隠していたことは、謝罪しよう。

 だが、必要なことだったんだ。

 これから君に、私の秘密を明かす」


 クロエは、涙を拭い、うつむいた。


「……もう、わかっていますわ。

 本命は、あの御令嬢なのでしょう。

 何らかの理由で、私を隠れ(みの)に……」


「違う。まったく違う。

 いいか、クロエ。聞いてくれ。

 私は、(おう)(しつ)(かん)(さつ)使()なんだ」


「……え?」


「王室監察使だ」


「おうしつ……かんさつ、し?」


「そうだ」


 セルジュは、深くうなずいた。

 クロエは、真っ赤な目をぱちぱちさせた。


 詳しく聞くと、こういう話だった。


 王室監察使。

 それは、王室から極秘の命令を受けて、高位貴族の不正や腐敗を調べ、暴き出す役職。

 つまり、クロエの夫、セルジュ・ド・レニエ子爵は、王の腹心中の腹心だったのだ。


「任務の性質上、家族にも危害が及ぶことがある。

 宮廷でも、誰が監察使なのかは、表向き伏せられているほどだ。

 君を危険に晒したくなかった。

 だから、今まで明かせなかった」


「……では、あの美人の御令嬢は……?

 王宮の庭園で、笑顔でお話しされていた……」


「コンスタンス・ド・ヴァランタン殿のことだな。

 今回の任務の協力者で、内部告発者だ。

 ヴァランタン侯爵家の養女だ」


「侯爵家の、養女……」


「平民出身の才媛だ。

 汚職にうんざりしたのだそうだ。

 だが、立場が弱いので、侯爵家の者たちから害されないよう、一定期間守る必要があった。

 この度、新たな庇護者を得られたそうなので、私は無事お役御免だ」


「そう、でしたか……」


 クロエの疑念に、セルジュの説明は、ぴたりと嵌った。

 誤解を解くには、じゅうぶんだった。


 ……だが、怒りを解くには至らなかった。


 クロエは、「でも!」と、夫に食ってかかった。

 襟首を掴んで、揺さぶった。


「セルジュ様は、あの方にはあんなに笑顔で!」


「……クロエ?」


「わ、私には、にこりともしなかったくせに!」


「く、クロエ」


「何を言っても、『ああ』しか言わないくせにっ!」


「いや、その、クロエ」


「こ、この半年間、私はずっと待っていたのに……、手紙の一つも送ってくださらなかったくせにっ!」


 クロエは、顔を真っ赤にして、涙まじりに叫んだ。

 自分でもわけがわからなかった。

 とにかく、あまりにも悲しかった。


 セルジュは、どうしたらよいかわからない顔で、おろおろとクロエの肩を抱いた。

 そして、ぼそりと、こう答えた。


「いや……。

 用事があれば、誰が相手でも、会話はする。

 笑顔ぐらい作れと、上官にも言われている」


「わ、私に用事はないのですか?

 私のために作る笑顔はないのですかっ!」


「なぜわざわざ、作り笑顔を、君に……?

 本心から愛しているのに……」


「伝わるわけないじゃないですか!」


「な……け、結婚しているんだぞ!?」


「え!? 関係ないでしょう!」


「いや、しかし……!

 そうだ、それに、手紙と言うが。

 用事が無いのに、いったい何を連絡するんだ。

 仕事の内容は書けない。家のことは、君と使用人達がいるのだから、問題が無いのはわかりきっている。書くべきことなど何も無いぞ。

 中身の無い手紙が来ても、迷惑だろう……?」


「中身なんて、何だっていいじゃないですか!

 元気でやっているとか、そちらはどうかとか!」


「そ……それだけのことで、手紙を……?」


「そ、そうですよ……!?

 えっ、そうですよね?」


「いや……」


「え……?」


 夫婦は、顔を見合わせた。

 二人とも、理解できないものを見る顔をしていた。


 クロエは、恐る恐る、質問を重ねた。

 セルジュも、慎重にそれらに答えた。


 そして、二人は、同じ結論に至った。

 考え方(プロトコル)が違うのだ。


 クロエの考え方は、こうだ。


 人間関係の基本は、交流だ。

 連絡、気遣い、お祝い、贈り物。愛情や友情とは、そうしたこまめなメンテナンスで維持すべきものだ。

 連絡ゼロ、会話ゼロは、フェードアウトの合図。


 一方、セルジュの考え方は、こうなのだ。


 便りが無いのは、良い便り。

 沈黙には、他意も気まずさも無い。

 一度結んだ愛情や友情は、そう簡単に朽ち滅びることなど無い。

 (いさか)いが起きない限り、五年後も十年後も、絆は同じように続いていく。


 クロエには、とても信じられなかった。

 だから、思わず、こう言った。


「……でも!

 セルジュ様は、私のために、手紙を送ろうとか、何か話そうとか、お思いにならないのでしょう?

 それは……私を愛していないということではありませんか!」


「そんなことはない。私は君を愛している!

 ……これがその証だ!」


 セルジュは、懐から小箱を取り出した。

 そして、それをクロエに捧げた。


「……これは……?」


「開けてみてくれ。

 君のために用意したんだ」


 クロエは、涙を拭い、箱を開けた。

 そして、思わず息をのんだ。


 それは、美しいブローチだった。

 白真珠をいくつも連ねた、鈴蘭のブローチだ。


「……きれいです、とても……。

 でも……どうして、これを私に……?」


「言っていただろう、鈴蘭が好きだと。

 喜んでほしかった。

 工房に発注していたものが、ようやく完成した。

 早く君に渡したかった」


(まさか、あのお茶会の時の……?)


 あの、夫婦のお茶会。

 沈黙を埋めるために、クロエが必死に連ねた言葉。


 セルジュは覚えていたのだ。

 適当に聞き流していたのではなかったのか。


 「クロエ」と、セルジュは彼女の手を取った。

 クロエの胸は、どきりと鳴った。

 セルジュの瞳は、真剣だった。


「不安にさせて済まなかった。

 君のことを、きちんと理解できていなかった。

 私は、自分のやり方を改める。

 約束しよう。今度からは、どんな任務中でも、二ヶ月に一度は必ず連絡する。用事が無くても」


「……せ、せめて、毎月……」


「わかった。毎月連絡する」





 こうして、レニエ子爵家の離縁騒ぎは収まった。


 任務明けのセルジュは、しばらくは屋敷でゆっくり過ごすことができる。

 この日の二人は、いつかのように、また庭でお茶をしていた。


「……それでね、ミュラ夫人ったら、結局そのタヌキという動物のことを、犬だって言い張って育てることにしたのですって」


「そうか」


「犬にしては、ずいぶんお腹が丸かったわ。でも、目も丸くて、尻尾も丸くて、夫人はたいそう可愛がっていて……」


 言いかけて、クロエははっとした。

 また、自分ばかり話している。

 セルジュは、静かに過ごすのが好きだというのに。


(……セルジュ様は、私のために、自分のやり方を変えてくださった。

 私も……合わせたほうがいいわよね……?)


 クロエは、曖昧に語尾を濁して、話を区切った。

 そして、静かにお茶に口をつけた。


 クロエは、沈黙が苦手だ。

 黙っていると、相手の気持ちがわからない。

 だから、不安になってしまう。

 でも、我慢して、静けさを守った。


 すると、珍しく、セルジュが口を開いた。


「……君も、タヌキが欲しいか?」


「え……? いえ、私はそれほど……」


「そうか。……犬は?」


「いえ、犬は少し苦手です。猟犬に吠えられたことがあって」


「そうか。……猫は?」


「猫は好きです。でも、お屋敷で飼うと、壺を割ったり、柱を引っ掻いたりしてしまうかも」


「そうか。……鼠は?」


「鼠!? い、いえ、鼠は……」


「そうか。……鳥は?」


「あの、セルジュ様、先ほどからいったい……?

 ……尋問のようで、怖いのですが……」


「いや、その……」


 セルジュは、少しうつむいた。

 心なしか、目の下が赤かった。


「……君は、沈黙が苦手だというから。

 話題が、必要なのだと思って……」


「あ……。

 あの、ありがとうございます……」


「いや……すまない。慣れなくて……」


 恥じらうセルジュの姿に、クロエは思わず「ふふっ」と笑った。


 それから、二人は静かに過ごした。

 吹き抜ける風が爽やかで、心地よい。

 気まずさのない、穏やかな時間だった。


 クロエは、セルジュがほほえんでいることに気がついた。

 とても幸せそうに。

 いつかの任務で御令嬢と談笑していた時とは比べ物にならないほど、自然に、やわらかに。


「……セルジュ様」


「ん?」


「どうして、ほほえんでいらっしゃるのですか?」


「……幸せだからさ」


「幸せ?

 ……何も、話していなくても?」


「ああ。何も話していなくても。

 君と同じ場所で、同じ時を過ごしている。

 こんな幸せなことは、他に無いよ」


「え」


「私は、このまま、こうしていたい。

 十年でも、百年でも。

 いつまでも。

 君の隣で、風に吹かれていたいと思うよ」


 セルジュは、クロエを見つめて、目を細めた。

 まぶしそうに。


 クロエの心臓は、撃たれたように跳ねた。

 みるみるうちに、顔が熱くなった。

 あわてて、目を伏せた。

 これ以上見つめたら、燃えてしまいかねない。


(あ、こ、こういうことなんだ。

 セルジュ様、本当に私を愛しているんだ。

 セルジュ様の愛って、こういうことなんだ。

 わ、私……。

 私、この人の妻なんだ……)


 時間が流れ、風が流れる。

 涼しい静けさが二人を包む。


 クロエは、暴れる鼓動を聞き、頬の熱を冷ましながら、無口な夫・セルジュの横顔を、何度も何度も見つめ直した。

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