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ルカと睦月が来て二週間が経った。
私も陽太も、四人の生活に少しずつ慣れて来ている。陽太なんてこの前、ルカに肩車してもらっていた。ルカは華奢なのかと思いきや、隠れ筋肉マッチョで、腕一本で陽太をぶらさげているのを見たこともある。
「そう言えばルカ、私のことをからかわなかったな」
ルカが狐に化けているとは知らず、自分の本音をポツリと漏らした、あの日。
――睦月とルカに会えて良かった。二人には感謝しなくちゃ
あの言葉を聞いたルカから何を言われるかと焦ったけど、何日経ってもルカは何も言ってこなかった。ただ静かに、いつもご飯を作ってくれている。
「ねぇ陽太。ルカって、どうして無表情なのかな。何も考えてないのかな?」
ルカがあまりにも何も言わないから、最初こそ「ルカって紳士だなぁ」と思っていた。だけど、あの銅像のように無表情な顔を見て、そうではないと気づく。
きっと関心がないのだ。私の話に。
例え私が失言をしようが、ルカにとっては面白くもおかしくない。だって関心がないのだから。
風が吹かないと、桜の花びらは舞わない。
それと同じで、ルカが興味を持たなければ、私の発言なんて雑音と一緒なのだ。
「それはそれで良かったような。でも少しだけ虚しいというか」
こども園に送るため、今は自転車をこいでいる。
そろそろ五月がやって来る。容赦ない日照りが連日、肌をさす。
しまった。朝バタバタしていたから、日焼け止めを塗り忘れた。
でも汗をかくから塗ったところで落ちちゃうか、なんて思っていると。後ろから陽太が口を開く。
「ルカお兄ちゃん、ちゃんとお顔があるよ?」
「え……あ、顔ね。うん。顔があることは知っているよ。でも表情がね……」
「表情?」
「泣くとか、笑うとか、怒るとか、悲しむとか。そういう気持ちが顔に出ることを表情って言うの。ルカが自分の気持ちを表に出しているところ、見たコトないなって」
すると陽太が「え」と、素頓狂な声を出す。
「僕、見たことあるよ?」
「え」
あのルカが表情筋を崩したの⁉
一体どんな顔をしたんだろう。気になりすぎて、必死に耳を後ろへ傾ける。
陽太が話してくれた内容は、今朝の出来事だった。
「卵焼きを失敗したって言っていたよ」
「た、卵焼きぃ?」
睦月ほど料理が上手ではないルカは、もっぱら卵焼き係だ。毎朝、四本の卵焼きをせっせと巻いてくれる。狐なのに器用なんだよね、あと美味しい。
「確かに今日はいつもより形が崩れていたけど、でも美味しかったよ?」
「僕もそう思う。でもルカお兄ちゃん、しょんぼりした顔してた。ぼくが何回も『美味しいよ』って言ってもダメだったんだぁ」
「そうなんだ……」
ルカは、私の大昔の祖先を知っているほど長生きしている化け狐だ。何百年と生きている妖怪が、卵焼きを失敗してしょんぼり?
「ふふ、意外と繊細なんだね」
バカにした笑みじゃない。
ただ単に、妖怪っぽくないなと思った。
逆を言えば、なんて人っぽいんだろうとも。
「お姉ちゃんは、お料理失敗したら落ち込む?」
「もちろん凹むよ」
「味は美味しいのに?」
「食べた時に〝美味しい〟って言ってくれるのも嬉しいけど、料理を見た時に〝美味しそう〟って言ってくれるのも嬉しいんだよ」
すると陽太は「ぼくも、自分の描いた絵が褒められるのは嬉しいな」と言った。確かに、それに近いかも。出来る過程も大事だけど、完成した物をストレートに褒められたらうれしいよね。
「それにしても、あのルカが落ち込んでいたんだ」
私もちょっとだけ見たかったな、なんて失礼なことを思ってしまう。
どんな風にしょんぼりしたんだろう? 眉が八の字になったとか?
想像を膨らませていると、子ども園に到着した。陽太を預け、すぐUターンする。急いでレジ打ちの仕事に行かなくちゃ。
「それにしても暑いなぁ。セミの声が聞こえないのが不思議なくらい」
この暑さだと自転車もしんどいな。真夏に耐えられるように、今からしっかり体力をつけておかないと。
ペダルを踏み込む足に力を入れる。その時、以前にもすれ違ったお母さんと目が合った。やっぱり視線を逸らされちゃったけど、今日はさほど傷つかない。あの視線を、以前ほど鋭く感じない。
「ルカのおかげかもしれないな」
卵焼きを失敗したルカには悪いけど、その時の彼の表情を考えるだけで少しワクワクする。
自分じゃない、誰かのことを考える。
すると心は少しだけ軽くなる。
◇
五月に入った。まだ梅雨でもないのに、よく雨が降る。
睦月とルカは、ずっと人間の姿でいると力を消耗してしまうらしく、家のことをする以外は動物の姿でいる。
現在、睦月はタヌキの姿で、縁側に座る私の太ももに乗っている。屋根があるから、足を伸ばしても濡れなくて快適だ。
桜の花びらが落ちて、青々とした葉に雨粒が当たる。ポチャン、ピチャン。雨粒の大きさや当たる葉の箇所によって音階が変わるのか、まるでプチ演奏会だ。
「いい音だねぇ」
睦月が目を細める。私は静かにうなずいた。
雨音は、尖った心を撫でてくれる。匂いだって、まるで清流のそばに立っているように爽やかだ。心の窓を開け、大掃除をしている感覚になる。自転車に乗る時は苦労するけど、だからといって雨を嫌いになれない。膨れっ面した睦月は、どうやら違うみたいだけど。
「雨音は好きだけど、雨は嫌い!」
「どうして嫌いなの?」
睦月の背をなでる。すると答えを聞く前に、雨を嫌う理由が分かってしまった。
毛が、いつもよりモフモフしている。モフモフというより、ボフボフ?
「人は湿気で髪がうねったりするけど、動物もそうなんだね」
「ふさふさが私の自慢なのに……。これだから雨は嫌い!」
そういって睦月はフランクフルトのような尻尾(といっても今はタワシのよう)を恨めしそうに見た。タヌキもタヌキで大変だ。
「狐も、こんな風にボフボフになるの?」
「たぶんね。でも雨の日のルカは、部屋から出て来ないからなぁ」
「そういえば……」
「ま、無理ないことだけど」
「……」
私は勝手に〝ルカは晴れの日が好き〟と思っていた。雨の日は部屋にこもっているから、単純に「雨が嫌いなんだろうな」と思っていた。
でも今の睦月の言い方だと、違うのかもしれない。
雨の日にルカが部屋にこもるのは、何か特別な理由があるのかも。
その時、お昼寝から陽太が起きた。
今日は土曜日。お昼ご飯を食べた陽太は、満腹になって眠っていたのだ。
「おはよう陽太。いい夢を見られた?」
「うん……ねぇ、お姉ちゃん」
まだ眠いのか、陽太は目をこすっている。庭に水たまりを作る雨を見て「今日ではないけど」と前置きをする。
「いつかお友達と外で遊んでいい?」
「え……」
雨の音が耳に響く。風が吹き、大きな雨粒が顔を直撃した。それはまつ毛にぶら下がり、私の視界を曇らせる。
「……ダメ」
「え?」
「外はダメだよ」
「な、なんで?」
今にも泣きそうな陽太の顔。私はグッと、握りこぶしに力を入れる。
「まだ早いから」
「じゃあ、いつならいいの?」
「……」
答えない私を見て、陽太は唇を噛み締める。だけど「もういい!」と背を向け、階段を駆け上がる。直後にバタンと、自室のドアを閉める大きな音が響いた。
ケンカなんて、したことなかったのに。
組んだ指の上に額を乗せる。背を丸めると睦月が押し出されたものの、「陽太を見てくるよ」と二階へ行ってくれた。
「……はぁ」
さっきまで心地よかった雨が、容赦なく心を濡らしていく。
あぁ、やっぱり雨なんて嫌いかも。




