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目を覚ますと、不思議なことが起きた。
ドアの隙間から、香ばしい味噌の香りがする。いい匂い、きっとみそ汁だ。
「お母さん? それともおばあちゃん?」
二人とも、よく味噌汁を作ってくれた。寒い季節になると「あったまるよ」と言い、熱い季節になると「塩分がとれて熱中症対策になるよ」と言ってくれた。
二人が作る料理は、いつも誰かを思って振る舞われていた。
「……っ」
起きてすぐ泣きそうになった涙腺に喝を入れる。
だけど努力も虚しく、一階に降りて、いちばんに泣いてしまう。
湯気のあがる料理が、これでもかと食卓に並んでいたからだ。
「おはよう明里、よく寝たね!」
「……早く座れ」
睦月とルカが、律儀にエプロンを着けて台所に立っていた。といっても睦月は背が小さいから、椅子の上に立っている。小さな手でお玉を握り、味噌汁を注ぎ分けていた。驚くことにルカは、卵焼きを作っている。
……なんで二人がご飯を作っているの?
頭に疑問符を浮かべながら、急いで涙を拭きとる。その後すぐ、相変わらず胸のはだけたルカが、私へ振り返った。
「昼飯だ。食べてから行け、明里」
「どうして私が昼から仕事だと知っているの? それに名前も」
「……」
ルカは無言のまま前へ向き直った。ヘラを使わず、菜箸で卵焼きを巻いている。悔しい事に、私よりも上手だ。私は不器用なのか、巻ききれずに広がることが多い。今朝も陽太が、風呂敷みたいな私の手作り卵焼きをモソモソと食べていた。
「ルカも睦月も、どうして私を知っているの? まだ名前を言ってなかったよね?」
「私たち妖怪は、力を温存するため石になることがある。形見分けの石がそうだよ。
石になっている間ずっと寝ているわけじゃないから、家で起きていたことはだいたい知っているんだぁ」
「え……」
それって、ずっと見ていたってこと? お風呂上りの姿とか、着替えの姿も⁉
カッと顔を熱くすると、切った卵焼きを皿に並べたルカが、ジト目で私を見る。
「安心しろ。別に何も思わない」
「ぐ……っ」
それはそれでムカつく。というか、やっぱり見ていたんじゃん!
腹が立ったけど、次の仕事まで残り三十分。せいか子ども園の方角へ自転車を十五分こぐ必要があるから、ゆっくりしていられない。
「い、いただきます!」
「火傷しないように気を付けてね~」
うなずきながら味噌汁を口に含む。味噌の良い香りが、鼻を通って頭へ回った。
リラックスする味。肩の力が抜ける匂い。
どうしよう。私、この味噌汁が好きかも。
味噌汁を始め、夢中で昼ご飯を食べる。ルカの卵焼きも甘じょっぱくて、文句のつけどころがないほど美味しい。
「おかわ……いや、ごちそうさま」
おかわり、と言おうとしたけど。そもそも、どうしてこの二人が料理をしているのか?という方が気になった。一宿一飯の恩義かな? でも、まだ泊めてもいないし、ご飯を振る舞ってもいないけど。
「おかわりしないの?」
「……もう、お腹いっぱいだから」
本当は一通りおかわりしたかったけど、止めておく。「おかわり」なんて言ったら、図に乗った二人が夜ご飯も作りそうだから。
そりゃ美味しいご飯は食べたいけど、自分以外の人が作ったご飯を食べたいけど……この二人には家から出て行ってほしい。家族のことを思い出して辛いから。
「行ってらっしゃーい」
「……」
「……ん」
ニコニコ笑顔の睦月、無表情のルカ。対照的な二人を前に、どう返事をしたらいいか分からなくて。結局、返事かどうかわからない吐息を返して自転車に乗る。
「私も優柔不断だな。出て行って欲しいのに、温もりはほしいなんて」
ほかほかご飯の温もり、家に誰かがいてくれる温もり――
考えることは色々ある。だけど、さっき食べたご飯が色濃く頭に残っている。誰かが作ってくれるご飯って、あんなにも有難く、美味しいものだったかな。
「やっぱりおかわりすれば良かったな……なんてね」
心がほっこりする味噌汁。絶妙な甘さがあった卵焼き。それらを思い出すと、自然と顔が綻ぶ。誰かが作ってくれた料理を食べたのは久しぶりで、鼻の奥がツンと痛んだ。
◇
私の中の事務員のイメージって、パソコンと向き合って淡々と仕事をする――だけど意味のない井戸端会議も業務に含まれるのかと疑うほど、現在私は、正社員から熱心に話しかけられている。
「どうして夏木さんって、正社員にならないの?」
「なりたいのは山々なんですがね……」
「じゃあ、ならないと! バイトなんてボーナスが出ない分、損でしょ?」
「そうですね……」
苦笑を返す相手は、同じ事務員で正社員の小堀さんだ。小堀さんは茶髪を編み込みにし、化粧もバッチリ、小柄な自分の魅力を最大限に生かしています!と言わんばかりの出で立ちで、毎日出社している。年は、陽太の担任のあやね先生と同じくらい。
「正社員の募集がかかれば、すぐに希望を出させていただきますよ」
「え~、じゃあ私がいるせいで正社員になれないんだね。ごめんねぇ?」
「……いえ」
分かって言っているのだろうか。分かって、言っているんだろうな。
私と談笑しているというよりは、私と話すことで気持ち良くなっているんだ。私と話せば優越感に浸れるから。生きていく上で必要なカードが、私よりも揃っているから。
「そういえば、どうして若くして働いてるのー?」
「両親が亡くなったので……生活のために」
「えぇ、お気の毒。交通事故とか?」
「いえ、旅行先で」
心を落ち着かせ、淡々と返事する。大丈夫。笑顔で対応できている。
大丈夫、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
「ということはご両親、夏木さんを置いて旅行に行ったの?
それって大事にされてないってことだよね?」
「え?」
「だってご両親は、子供より旅行へ行くことを優先したわけでしょ?」
「!」
悔しいけど、言い返せなかった。むしろ、その通りだと思った。
両親は、私と陽太を置いてまで旅行に行った。旅行といっても、睦月とルカとの約束を果たすためだ。力が弱まり動けない彼らに代わり、一匹妖怪を見つけに行った。
彼らから場所を聞いた時、そこがいかに危ない場所か多少なりとも分かっていたはずだ。両親はかなりの方向音痴で、スーパーでさえ迷子になることがあった。そんな両親が、事前の下調べなしに現地に足を踏み入れるわけがない。
危険な場所だと分かっていた。それでも妖怪を助けに行った。私と陽太を置いてまで。
それは、つまり……私と陽太よりも、妖怪を選んだってことだ。
そうして死んだ。妖怪のために死んでしまった。
「最悪だ……」
気づきたくなかった。気づくべきではなかった。知らない方が、まだよかった。
私と陽太より妖怪を優先したなんて……信じたくない。
「う……っ」
胸焼けがひどい。さっき食べた味噌汁と卵焼きが逆流しそう。
「ちょっと夏木さん大丈夫? 顔が真っ青だよ⁉」
「だい、じょうぶ……です」
だけど「大丈夫じゃない」と小堀さんに判断され、私は早退することになった。
朝のレジ打ちを休み、午後の事務員も早退し……今日の自分はとことんダメだ。
「あれ? お帰り、早かったね」
「……」
家に着くと、睦月が庭に生えた木を見上げていた。桜の木だ。少し旬を過ぎた頃だから、風が吹くたびに花びらがハラハラと舞っている。
あの桜を、家族で見るのが好きだった。祖父母が健在だった頃は、桜が咲く時に必ずこの家に遊びに来ていた。花見が恒例だったからだ。
みんなで見上げる桜は、それはキレイだった。かけがえのない思い出だった。
今年も花見をしたかった。みんなで。
だけど、そう思っていたのは私だけで、両親にとっては些細なことだったのかもしれない。だって〝選ばれなかった〟のだから。春を待ち遠しく思っていたのは、私だけだった。
「妖怪の方が好きなら、そう言ってくれれば良かったのに」
家族を好きなのは、私と陽太だけだった。私たちは両親のことが大好きだったけど、両親は違った。それほど私たちを思っていなかった。妖怪の方が大事で、大好きだったんだろう。私たちよりも。
「ずっと両親から愛されていなかったのかな……」
桜の木を見上げることも辛くなって視線を下げる。すると隣に並ぶ、小さな子供。睦月だ。陽太の服を借りているから人間そっくり。きゅるんと潤んだ瞳が、「かわいそうに」と言わんばかりに私を見つめている。
「やめて、同情しないでよ」
「明里ちゃん……」
「その名前で呼ばないで!」
睦月たちは石になって私たちを見ていた? だから名前を知っている?
そうだとしても呼ばないで。「あかり」なんて、今の私に最もふさわしくない名前だ。いま私の心は真っ暗で、少しも明るくない。まさに一寸先は闇。生きる希望の芽を摘まれたようだ。
「私は、何のために生きているの」
足元に落ちた花びらに心を寄せる。その時だった。
「分からないか?」
この場に凛とした声が響く。恐ろしいほど澄んだ声は、私の嗚咽を次々に飲み込んだ。
「分からないかって、何が?」
「お前の両親が一匹妖怪を見つけに行った理由だ」
玄関から出て来たルカが、水色の瞳に私を映す。その瞬間、体が強ばった。
だって、きっとルカには見えているのだろうから。私の心に潜む、真っ黒な影が。
「一匹妖怪を見つけに行った理由、分かるよ」
「言ってみろ」
「私たちよりも妖怪が好きだから、それで」
「違う」
ピシャリと否定された。今までで、一番力強いルカの声。
「一匹妖怪はいずれ悪鬼になる。それは人を襲いかねない、危険な存在だ」
「それは、前に聞いたけど」
「子供には危険のない世界で幸せに暮らしてほしい――これがお前の両親の口癖だった」
「え……」
つまり悪鬼を生まないために、両親は危険な場所へ行ったの?
生まれた悪鬼が、私と陽太を襲わないために?
私たちの幸せを願って?
「確かに両親は一匹妖怪を守っていた。だけど、それ以上に。
お前たちのことを守っていたよ、ずっと」
ルカは桜の木を見上げる。彼が切れ長の瞳をスッと伏せた時、口が笑っているように見えた。その周りをはらりと舞う、二枚の花びら。
「俺は人間のことには疎いが……あれは、そうだな。
偽りのない愛だった」
「あ、い……?」
「お前たちは愛されているよ。一匹妖怪の場所を伝えに行った時、口を開けばお前たちのこと。俺がお前たちの名前を覚えたのは、両親から何度も話を聞いたからだ。
これだけ話しても不安か? 明里」
「っ!」
ルカが名前を呼んでくれた時、私は初めて泣き崩れた。
両親が死んだと聞いて陽太は泣きじゃくった。だけど私は泣けなかった。
だって「私が陽太を支えなくちゃ」と思ったから。悲しかったけど、泣く暇はなかった。陽太を幸せにするために足を止めるなと、自分に言い聞かせた。
その思い一つで、がむしゃらに動いてきた。
だけど今日、初めて自分の生き方に疑問が生まれた。
――ご両親は、子供より旅行へ行くことを取ったわけでしょ?
まるで立ち方を忘れたように、体の重心がグラグラした。同時に見失った。
人生のゴールってどこだっけ? 私は、何のために生きているんだっけ?
生きる意味が分からなくなった。同時に、両親から愛されていないと分かった。
こんな私、生きていても無意味じゃない?
地面に落ちた桜の花びらを見て絶望しかけた。
だけど……違った。
私は、両親によって大事に生かされていたんだ。
「う~っ」
感謝の気持ちが溢れて止まらない。
愛されるって、なんて幸せなことだろう。
「……睦月、後はたのむ」
「あ、もう。ルカってば」
怒ったような言い方をしたけど、睦月は「仕方ないか」とルカの背中を見送った。
水道栓が壊れたように泣き続ける私を縁側に座らせ、二人して桜吹雪を浴びる。
「ねぇ明里。私たちがココにいたら、やっぱり邪魔かな?」
「え……」
直球に聞かれた。確かに「出て行ってほしい」と思っていた。だけど今は、ちょっと気持ちが削がれている。ルカから両親の話を聞いたせいかもしれない。
「ずっと夏木家と組んでいたということは……睦月とルカは私の両親だけじゃなく、おじいちゃんおばあちゃん、更にはその先のご先祖さまとも会ったことがあるってことだよね?」
睦月は「そうだね」と頷いた。頭の中で一人一人思い出しているのだろうか。桜を見ているはずなのに、その瞳は違う物を写している気がした。
「だったら聞かせてほしい。私が知らないお母さん、お父さんのこと。おじいちゃん、おばあちゃんのこと。ご先祖さまのこと。きっと陽太も喜ぶから」
すると睦月は「うん」と笑い、私を見る目を細めた。持ち上がった頬がもちもち膨れて、まるでリスみたい。
「そもそも『出て行け』と言われても残る気だったけどね!」
「え」
そうだったんだ。
「じゃあ、どうして『邪魔?』なんて聞いたの?」
「気持ちは知っておきたいじゃん。どう思われても一緒に住むと決めているけど、嫌がられながら住むのはやっぱり気まずいからさ」
「〝一緒に住む〟と決めているのは、どうして?」
しかも、けっこう強引に。
すると睦月の右手が、私の心臓あたりをさす。
「ここから一匹妖怪と同じ音がした。深い穴に雨水が落ちるような、虚空の音」
「雨水が落ちる……」
その音には覚えがあった。
両親の事故死を聞いた日。自分の感情が心の奥底に落ちた音だ。
「孤独な妖怪と、孤独な人間は、一緒に暮らすことで寂しさを打ち消しあえるって話したよね」
「う、うん」
「だから明里と一緒に住もうと思った。今まで夏木家には長きにわたり約束を守ってもらってきた。だから今度は私たちの番。私たちが、明里の孤独をとってあげる」
「!」
じゃあ「一緒に住む」と言ったのは私のため?
私と陽太が孤独にならないようにするため?
嬉しい、だけど少し複雑だ。
「でも、そこまでしてもらう義理は……。それに両親がいなくなってから、約束は果たせていないし」
何気に不安に思っていたことを尋ねる。だって一匹妖怪を放っておくと悪鬼になるというのに……私、何もしなくていいのかな?
そんな私の不安が伝わったのか。睦月はくしゃりと表情を崩して笑う。
「大人ぶっているけど、私から見たら明里はまだまだ子供だよ。
一匹妖怪を探せとは、もう言わない。子供にそんなことさせられないしね。こっちのことは何とかするから、心配しないで」
睦月はふわりと宙に浮き、私の頭を撫でる。
「今までよく頑張ったね。これからは私たちがいる。どうか存分に頼ってほしい」
微力だけど、と力なく笑う睦月。だけど家に誰かがいてくれるだけでも、心に行火を灯したよう。一寸先が闇ではなくなる。
気付けば、また私は泣いていた。子供のようにしゃくりあげた。
「今日のお味噌汁と卵焼き、美味しかった、嬉しかった……ありがとう」
「いーえ! また晩も作るね」
「うんっ」
両親がいなくなった後、私が陽太を照らす太陽になろうと思った。そうすれば、きっと何もかもが上手くいくと思ったから……自分の心は、孤独でまっ黒だというのに。
だけどその黒さは、睦月たちが作ったお昼ご飯が吹き飛ばしてくれたように思う。
あの美味しさは、確かに私を救ってくれた。私は今まで、この温もりを求めていたんだ。
「これからよろしくね、睦月。同い年くらいの子がいてくれたら、きっと陽太も喜ぶから。同じ男の子だし、話も合うと思う」
ただし刀は没収させてね――と言うと、睦月は眉間にシワを寄せた。そんなに大事な刀だったのかと聞けば、「違う」と首を横へ振る。
「私は女の子だよ?」
「おん、なのこ?」
「といっても女の子の姿をしているだけで、中身はおばあちゃんだけど!」
「おばあちゃん⁉」
目を凝らして睦月を見る。よく見ると女子特有の可愛い顔つきをしているし、何より自分のことを「私」と言っていている。どうやら間違いないらしい。
「ほ、本当に女の子だぁ⁉」
ひえ、とひっくり返る。その時、目に入ったのは和室にかかる時計。
「しまった、陽太のお迎え!」
足をバネにして飛び起きると、視界の端でこちらに手を伸ばす睦月の姿があった。
「どうしたの、睦月。まだ用がある?」
「な、慰めようと思って……」
不自然な物言いに、首を傾げる。言い逃れできないと思ったのか、睦月は「実は」と両手の指さき同士を合わせる。
「もう一つ話すことがあったんだけど、それは帰って話すよ」
「今じゃなくていいの?」
「うん!」
何の話だろう? でも睦月の様子からするに、急ぎではないみたい。
「じゃあ……先に陽太のお迎えに行ってくるね?」
「はーい、いってらっしゃい」
「!」
いってらっしゃい――それは、この三か月、聞かなかった言葉。
そんな一言が、何気ない挨拶が、こんなにも心に沁みる。
日々を過ごしていると挨拶は当たり前で、特別でも何でもない。だけど、それこそが「何にも変え難い幸せだった」と、全てを失ってから気づく。
でも私は見つけた。挨拶を、何にも変え難い幸せを。だから再び紡ぐ。
この幸せな行為を後悔のないよう、一つ一つ大事に紡いでいく。
「い、行ってきます!」
涙を拭いて、自転車のカゴに入った桜の花びらと共にペダルをこぐ。
勢いよく車輪が回った時、地面に落ちた花びらが、空高く舞い上がった。




