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ルカのお母さんが死んでいるかもしれない――そう思ったら怖くて、無意識のうちに自分の手を強く握りしめていた。その時、さっきルカから脱がせたクマのポンチョを握っていることに気づく。
「……そうだ」
隣に立つルカを見ると、胸が痛くなるほど顔が青くなっている。少し前の私とよく似た表情だ。希望がなくて、絶望している時の顔。だけど、そんな私を救ってくれたのはルカだった。だったら、私までルカと同じ青い顔をしていてはダメだ。
励ますんだ。
私が、ルカにそうしてもらったように。
「ルカ、お母さんを家に連れて帰ろう」
「家に? でも母上は……」
「きっと大丈夫だから」
耳を垂らしたルカの頭を撫で、ポンチョを広げてお母さんに近づく。ちょっと長さが足りないけど、うまくくるむことができた。口元に耳を近づけると「ハッ、ハッ」と短い呼吸をしている。状態は良くないかもしれないけど、ちゃんと生きている。まだ間に合う。ルカのお母さんの命、何が何でも救うんだ。
「睦月たちと合流しよう、ルカ」
「……わかった」
ルカはお母さんを見上げながら、四本の足を動かした。そのまま四人は合流し、帰路を急ぐ。だけど雨のせいで塗装されていない道はぬかるんでしまって歩きにくい。体力が削られる割に、なかなか家につかない。すると睦月が「えぇい、まどろっこしい!」と叫び、空飛ぶ絨毯のように大きくなる。そのまま本当に空を飛んで、私たちは速く家へ帰ることができた。
◇
とりあえずお母さんは、私の部屋で寝てもらうことにした。本当はルカの部屋に寝かせる予定だったけど、ルカが「母上が目を覚ました時に、俺が視界に入ると悪いから」と、自ら辞退した。だけど容態は気になるのか、人間の姿になったルカは私の部屋に入りっぱなし。さっきより楽に呼吸するお母さんの横に座り、じっとしている。
「それにしても、睦月が薬草に詳しくて良かったね。ただの風邪だから、一日一回薬を飲んでしばらく安静にしていれば治るって」
「……あぁ」
家に帰った時。睦月が、自前の薬をお母さんに飲ませてくれた。
『私もおばあちゃんだから、何かと体のガタがきていてね。いちいち医者に診てもらうのも面倒だから、自分に合った薬を自分で作っているんだよ』
そう言って専用の薬箱から取り出したのは、粘土を小さく丸めたような、団子のような、薬にしては大きい茶色の塊。効能は人間でいう風邪薬と一緒で、大体の病気に効く万能薬らしい。
「妖怪は風邪を引かないと言っていたけど、こういう薬があるってことは、普通に引くんだね?」
すっかり信用していただけに、睦月からいろんな薬が出てきた時は驚いた。てっきり病気知らずだと思っていたから。
ルカは「妖怪の全盛期であれば病気知らずだ」と、横たわるお母さんを見つめる。
「俺も睦月も、昔は怪我も病気に縁がなかった。睦月が薬を作り始めたのは、ここ最近だ。もう俺たちは、土へ還る準備をしているようなものだからな」
「土へ……」
そういえば、初めてルカたちと会った時に聞いたっけ。
『私たち妖怪は、無限に生きられるわけではない。人よりも生きる時間が長いだけで寿命がある。寿命が近づけば、使える力も限られてくる。今の私たちみたいに』
ほのぼのした日常を過ごしていると忘れるけど、ルカと睦月にも寿命があって、そう長くない。近いうちに、いなくなってしまうんだ。
長くない寿命って、どれくらい?
近いうちにいなくなるって、いつ?
そう考え始めると急に怖くなった。
「……」
「どうした、明里」
「えっと……うん、何でもない」
私は今、家族を作り直そうとしている。私と陽太、ルカと睦月の四人で。だけど、その先に待っているのは、また別れだ。せっかく紡いだ絆も、また綻んで千切れてしまう。また私と陽太だけの世界になる。今まで二人でも楽しかったし、普通に過ごせていたけど……賑やかな家を知ってしまった今、「私も陽太も耐えられるだろうか」と、そんな漠然とした不安が生まれる。
「疲れたなら、お前も休め」
「……ううん、大丈夫だよ」
せり上がってくる悲しみをこらえる。
今は自分のことじゃない、お母さんが元気になることだけを願おう。大変な思いをしているルカに寄り添うんだ。
ちゃんと私が支える。今度は、私が優しさをあげる番なのだから。
不思議そうに私を見ていたルカだったけど、見ていてくれるならと、水の入ったボールを持って立ち上がる。
「すっかり手ぬぐいがぬるくなってしまった。水を変えてくる」
「うん、ありがとう」
熱が下がるようにと、狐の姿をしたお母さんの頭に冷たい手ぬぐいを置いていた。キンキンに冷やしていたのに、お母さんの熱が高いから、もうぬるくなってしまったんだ。
「少しは熱が下がっていればいいのだけど……」
触れると、さっきより低い体温が手から伝わってくる。薬の効果もあるんだろう。外にいた時より穏やかな表情だ。
「ルカのお母さん、がんばってね。あなたが元気になるのを、ルカが待っているよ」
頭をなでながら声をかける。
だけど同時に、ふと違和感を覚えた。
「ルカのお母さんがご健在なのに、どうしてルカの死期が近いの? 明らかに早すぎない?」
人の親子だって、大体三十歳ほど年が開いているはずだ。寿命が長い妖怪なら、その差がもっと開いていてもいいものなのに……ん?
その時、どこからか視線を感じた。元を辿ると、ルカのお母さんと目が合った。瞳を細く開けて、ジッと私を見つめている。
「る、ルカ! ……あれ?」
ルカを呼ぶ間もなく、お母さんは再び目を閉じてしまった。どうやらまた眠ったらしい。耳のいいルカは、例の如く階の離れた私の声を拾ったらしい。ボールに入った冷水がこぼれる勢いで戻ってきた。
「どうした、明里」
「今、一瞬だけどお母さんが目を覚ましたよ!」
ルカは上がった肩をストンと落とし、目に見えて安心した。
「そうか。一度でも目が覚めれば、あとはそう心配することはないと睦月が言っていた」
「じゃあ、とりあえず安心だね」
「……あぁ」
ルカは相変わらず表情が乏しいけど、どことなく嬉しそうだ。しばらく親子水入らずの時間も必要だよね。ルカが座ると入れ違いに、今度は私が腰を上げる。
「お母さんが目を覚ました時に食べられるように、軽く食事を作っておくね」
「……明里」
パシッと腕をつかまれた。太くたくましい腕を辿ると、少し照れたようなルカの顔がある。
「その……感謝する」
「ふふ、おやすい御用だよ。何かあったら知らせてね。みんな下にいるから」
少し耳を赤くさせた後、ルカは素直にうなずいた。お母さんがそばにいるからか、いつものルカより子供っぽくてかわいい。それだけ母が子に与える安心感は絶大なのだと、少しの間、昔を懐かしんだ。
階段を下りていると、甘い香りが鼻腔を抜ける。これはブルーベリーの匂い? 台所を覗くと、陽太と睦月が協力してジャムを作っていた。火にかけた鍋に木べらを突っ込み、交代で混ぜている。あぁ、懐かしいな。おばあちゃんが作ってくれたブルーベリージャムと同じ香りだ。
「あ、お姉ちゃん。ルカお兄ちゃんのお母さん、元気になった?」
「さっき目を覚ましたよ。またすぐに寝ちゃったけど」
そう言うと、睦月は「だいぶ回復したようだね」と木べらを持ったまま私へと振り向く。粘り気のある紫色の水分が、ボタリと床へ落ちそうになるのを、陽太が急いでティッシュで受け止めた。
我慢できなかったのか、ティッシュに乗るジャムを陽太はペロリとなめた。目に見えない速さで、両端の口角がギュンと上を向いた。
「甘くておいしい~!」
「もう少し煮詰めれば完成だね!」
この前、陽太は睦月とルカに火の使い方を教わった。睦月が「教えてもいい?」と聞いてきた時は反応に困ったけど、椅子の上に立ち睦月と背を並べ、一生懸命コンロの前に立つ陽太を見ると、お願いしてよかった。
最近は陽太もご飯の手伝いをすることが多くなった。だけど火には決して近づこうとしなかったし、私もそれでいいと思っていた。それなのに、今はあの至近距離だ。あんなに怖がっていた火を、いつの間にか「怖い」と言わなくなった。
火の回りに物を置かない、エプロンの裾や紐が燃えないようにも気を配る、熱くなったフライパンに手を触れない、などの注意事項を完璧にマスターしている。最初はひやひやした目で見守っていた私も、今では安心して任せられる。もちろん一人だと危ないから「私か睦月かルカ同伴で」という条件は、引き続き必要だけど。
「一歩を踏み出すって大事だなぁ」
何でも経験させることの大切さを知れたように思う。危ないからと、遠ざけるだけではダメなんだ。危ないものに対して、きちんとした対処法を知らせる。そうやって生きる力をつけていく。囲うだけでは守ることにならないと、改めて痛感する。過去に、ルカに気づかせてもらって本当に良かった。
「何事も経験、か。ねぇ陽太、おかゆを作ったことある?」
「そもそも、おかゆって何?」
「調子が悪い時に食べる物なんだよ。一緒に作ってみよう」
「うん!」
だけど「おかゆって狐にも有効な食べ物なの?」と自分で提案しておいて、あとから疑問を抱く。睦月を見ると困った顔をしている。どうやら狐はおかゆを食べないらしい。そりゃそうか、狐はスプーンを持てない。「えっと」と、持ったはいいものの行き場のなくなった鍋を持つ私を見て、睦月は「でも」と人差し指を伸ばす。
「ルカが化け狐ってことは、お母さんも化け狐のはずだよ。化けるか化けられないかは遺伝だからね。だからお母さんに、人間へ変化してもらえばいいんだよ。そうしたらおかゆを食べられるし!」
「なるほど」
両手をパンと鳴らす。そうして三人でおかゆを作り始めた。その途中、あまりにも二階が静かだから、ルカとお母さんの様子を見に行った。こっそりのぞくと、お母さんは眠っていて、ルカは座ったまま頭を揺らして舟をこいでいた。緊張の糸がほどけたんだろうな。起こさないよう、静かに扉を閉めた。
「ルカお兄ちゃんたち、どうだったー?」
「家族水入らずだったよ」
「そっかぁ。ルカお兄ちゃんにはお母さんがいたんだね、良かったね」
無邪気な陽太の言葉は、陽太の本音そのもの。そこに「僕にはお母さんがいないのに」と、私が勝手に陽太の言葉に付け足してしまう。陽太は一言も、そんなことは言っていないのに。だけど「陽太は心の底ではルカを羨み、寂しがっているのでは?」と思わずにはいられない。
ジャムとは別の鍋に、水とお米を入れた睦月。チチチというコンロの音を立てながら「ごめんね」と呟いた。睦月とルカに代わり、孤独な一匹妖怪をつかまえにいったせいで、私の両親は命を落とした。言い方を変えれば、睦月とルカのせいで私の両親は死んだ。もちろん、陽太には口が裂けても言えないけど。
二人のせいじゃない。それは私も分かっている。両親は「私と陽太が悪鬼に襲われないようにするため」自分たちの意志で一匹妖怪を探しに行ったんだ。たとえ睦月とルカにお願いされたとはいえ、行くと決めたのは両親だ。だから睦月が謝ることじゃない。
誰も悪くないのだから、謝らなくていいんだよ――そう言いたかった。だけど唇にテープが張られたように思うように動かない。大丈夫、その一言が出てこない。
「む、睦月は、おかゆの作り方を知っている? 私、見様見真似でしかできなくてさ」
混乱する頭で、とっさに絞り出した言葉は、話の腰を折るような、どうでもいい話。私がそう言った時、一瞬だけ睦月が傷ついた顔をした。そうして察したんだ。「自分たちは許されていない」と。睦月の顔に「申し訳ない」って書いてある。
違うのに、本当は「大丈夫だよ」って言いたかったのに。謝らなくちゃ、今すぐ訂正しなきゃ。
そう思っているのに、やっぱり口は「大丈夫」も「気にしないで」も言えなくて。私と睦月は、危険な場所で綱渡りをしている最中のような、そんな緊張感のなか、おかゆを作ることしかできなかった。
「ねぇお姉ちゃん、お塩を入れすぎじゃない? って、これ砂糖だよ!」
「え……あ、ごめん」
「もう~、ジャム作りと間違えちゃダメだよ」
三人で料理ができるからか、楽しそうに会話をする陽太に、私と、きっと睦月も救われた。笑顔で会話をする反面、心の中は、固まった砂糖を崩す時の喪失感が漂っていた。家族だ、絆だ、といって必死に固めてきた私たち四人の関係。それがボロボロと崩れているような気がして、どうしようもなく胸が苦しくなった。
睦月とルカの寿命は短い。そう遠くない未来に、二人はいなくなる。だから仲たがいをしている場合ではない――そう思っているのに素直になれない自分が嫌で、味見をしたおかゆは何の味もしなかった。
◇
ふと目が覚めた時。部屋の中も外も真っ暗で、今が深夜であると気づく。あれからおかゆを作った私たちは、粗熱がとれたジャムを瓶に詰め替えた。意外にも多くできちゃったけど、陽太も睦月も「たくさん食べよー」と言っていたからすぐなくなりそうだ。
横を見ると、ルカのお母さんが眠っていた。あれから起きることなく、ずっと眠っている。喉が渇くだろうな。清潔な布に水を含ませようか。それを口に垂らせば飲んでくれるかも。
用意をしに台所へ入った時、お昼に三人で作ったジャムの瓶が目に入る。その横には、小皿に入ったジャム。実は「もしかしたらルカのお母さんが食べてくれるかも」とあらかじめ分けてもらったのだ。
「一応、もっていこうか」
水とジャムをお盆に乗せて、階段を上がる。家の中は静かだ。もちろん、ルカの部屋も。ずっと私の部屋にいたルカだけど、夜はさすがに居づらいと思ったのか自室に戻った。私は気にしないと言ったけど、ルカが良しとしなかった。「女性が気軽にそういうことを言うな」と、ジト目で見られたのだ。だから仕方なく、部屋を出る背中を見送った。本当はお母さんと一緒にいたいだろうに、私に遠慮してくれたんだ。ルカらしい、優しい気遣いだ。
「結局、睦月とは気まずいままだったな」
お盆を持って自分の部屋に入った時、つい本音が漏れてしまった。あの瞬間から、申し訳ないという思いが心から消えない。明日は謝れるだろうか。いや、もう掘り返さない方がいいかも。こういう時、どうしたらいいか分からなくなる。
「お母さんに相談できたらいいのに……」
言ってしまった後、すぐ自己嫌悪に陥る。すぐに答えを求めてしまうのは、私の悪い癖だ。少しは自分で考えないと。陽太だけでなく、私だって強くならないといけないのに。
「私で良ければ、相談に乗りましょうか?」
「……え?」
慌てて声がした方を見ると、一人の女性がいた。
ルカのお母さんが人間に化け、体を起こして私を見つめている。




