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聖典修復士の私が婚約破棄されたので、損傷した古文書を直したら王家の秘密に触れました

作者: 百鬼清風

 朝の書庫は、いつもわずかに乾いた紙の匂いがした。

 私が好きな匂いだ。湿度に敏感な羊皮紙を守るための換気が行き届いていて、空気は澄んでいる。私は机の上に広げた修復道具を整えながら、今日の作業の段取りを頭の中で確認していた。


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「エリス、話がある」


 私の名を呼ぶ声は、記憶の中より硬かった。

 顔を上げると、近衛騎士の礼装を身に着けたルネ・フォールが立っていた。彼は私の婚約者――いや、正確には“元”と呼ぶべきになるのかもしれない男だ。


「こんな時間にどうしたの、ルネ。持ち場は?」


「……関係ない。すぐに済む話だ」


 歩み寄ってきた彼の眉間には、強く力がこもっていた。私は胸の奥に嫌な予感を覚えた。工具を静かに置き、姿勢を正す。


「落ち着いて話してくれる?」


「エリス・マルタン。俺は今日をもって、君との婚約を破棄する」


 思っていたよりも、冷たい言い方だった。

 私は息を吸い込んだが、驚いて言葉を失ったわけではない。婚約が“形だけ”だったことは、ずっと前から感じていた。


 だが、彼がここまで感情を排して告げてくるとは思わなかった。


「理由を、ちゃんと説明して」


「君とは……釣り合わない。宮廷修復士なんて地味な職にしがみつくより、もっと相応しい立場の者が……」


「それはあなたの言葉? それとも、誰かに言わされた言葉?」


 問いかけると、ルネは一瞬だけ目を逸らした。

 その僅かな反応で、私は十分理解してしまった。


 誰かが裏で動いている。

 ルネの意思ではない。


 私は深く息を吐いた。


「分かったわ。あなたが本心で決めたことではないのなら、私はもう追及しない。でも……」


「でも、何だ」


「仕事は辞めない。今日の作業も続ける。私は修復士だから」


 ルネは私の答えに顔をしかめた。しかし何も言い返さず、踵を返して出て行った。扉が閉まった瞬間、書庫に静寂が戻った。


 私は机の上の工具を見つめた。心の痛みより先に、作業が気になってしまう自分が可笑しかった。

 だが、それが私だ。

 どれほど私生活が乱れても、損傷した羊皮紙は待ってはくれない。


 ルネとの婚約は、今日で終わった。

 だが職は終わらない。


 私は椅子に座り直し、書庫長から預かった包みをほどいた。

 そこに収められていた古文書を見た瞬間、思わず息をのむ。


「……こんな破損の仕方、初めて見る」


 羊皮紙は焼け焦げ、縁が波打っていた。

 部分的に煤が付着している。水濡れも同時に起きている。

 偶然の事故ではない。これは――


 “意図的な破壊”の跡だ。


 私は手袋越しに表面をそっとなぞった。乾燥の進み具合から、おそらく二、三日前に損傷したばかり。傷みが進む前に修復を始めなければならない。


 ページの隅に、かろうじて読める筆跡があった。

 王家の文書に使われる古い記述形式――系譜が書かれていた可能性が高い。


 そのとき、背後で足音が止まった。

 控えめだが、一定の重さがある。近衛ではない。


「ずいぶん酷い状態だな」


 声を聞いた瞬間、私の手が小さく震えた。

 視界の端からゆっくりと姿を現したのは、この国の第二王子――アドリアン・ルヴァン殿下だった。


「で、殿下……どうしてこちらに?」


「修復の進み具合を見に来た。正確には、その文書が“まだ存在しているかどうか”を確認しにだが」


 アドリアン殿下の眼差しは常に柔らかい。

 だが今は、わずかに緊張を帯びていた。


「エリス・マルタン。君に警告しておく」


「はい」


「その古文書は、触れれば戻れなくなる。修復が進めば進むほど、君の身は危うくなるだろう」


 身の危険――その言葉だけなら、私は引き下がったかもしれない。

 だが殿下の表情には、職さえ奪われかねない哀れみと、止めても無駄だと知っている諦めが混ざっていた。


 つまり殿下は知っている。

 この損傷が偶然でないことを。


「……殿下は、この文書の出所をご存じなのですね」


「知らないと言えば嘘になる。だが、これは私の問題ではない。君が選ぶことだ」


 私は破損した羊皮紙を見つめた。

 修復士としての本能が疼く。

 壊れたものを元の姿へ近づける――そのために私はこの宮廷にいる。


 危険だと言われて、はいそうですかとやめられるほど浅い仕事ではない。


「私は修復します。どれほど危険でも、記録は記録です」


 アドリアン殿下は、わずかに目を細めた。

 呆れではなかった。

 諦めでもなかった。

 むしろ――“覚悟を受け入れた者の視線”だった。


「……君は、言えば止まると思っていたんだがな」


「止まりません。これは、私の仕事です」


「分かった。ならばせめて、誰にも見られないように進めてくれ。君が巻き込まれれば、私も困る」


 その最後の言葉は、思いがけず胸の奥を揺らした。


 私が危険だからではない。

 “私が傷つけば殿下が困る”というのは、人としての関係ではなく……もっと近しい含みがあるように思えた。


 もちろん、思い上がりかもしれない。

 だが殿下がそう言ったのは事実だ。


 私は小さく頭を下げた。


「承知しました。慎重に進めます」


「頼んだ。……エリス、君は本当に戻れなくなるぞ」


「戻るつもりはありません」


 殿下はそれ以上何も言わず、静かに去っていった。

 扉が閉まると、再び静寂が戻る。


 私は椅子に座り直し、古文書を開いた。

 焼け焦げた部分を裏から透かし、残った線を拾っていく。

 細い筆を取り、欠損部分を補強する。


 集中すると、時間は溶けていく。

 だが今回は、心の奥で緊張が絶えず続いていた。


 破損の仕方があまりに不自然だ。

 何かを消すために破られたというより、

 “残り少ない部分を守るための破壊”に見える。


「……まるで、誰かが伝えようとしていたみたい」


 思わず独り言が漏れた。


 作業を進めるうち、文字が一つ、また一つと蘇る。

 そこには――この国の王家の系譜と、百年前に途絶えたはずの分家の名が薄く刻まれていた。


 心臓が静かに跳ねた。


 これは、ただの修復では済まない。


 誰かが意図して隠し、誰かが意図して残した記録。

 その断片を私が読んでしまったことで、もう引き返す道は完全に消えた。


「ああ……これは、本当に危ないわね」


 けれど私は手を止めなかった。

 止める理由は、どこにもなかった。


 婚約破棄の痛みも、書庫の静けさに溶けていく。

 その奥で、新しい緊張と使命感がゆっくり形を成す。


 私は聖典修復士。

 私は、記録を守る者。


 ――そして今日、私は初めて“王家の秘密”の端に触れた。



 翌朝、私は書庫の鍵を開ける前から、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。

 昨夜遅くまで修復した羊皮紙の断片が、頭の中で何度も形を変えて浮かぶ。

 百年前に“消えた”はずの分家。

 その名を私は読んだ。確かに読んだ。


 だが、私が触れたのはまだ断片にすぎない。

 真実でも噂でもない。

 “読めた文字”という、ただ一つの事実だけだ。


 書庫の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れた。

 机の上に残していた資料は、そのままの位置にあった。

 まずは昨夜乾燥棚に置いた羊皮紙を取り出し、繊維の収縮具合を確かめる。


「……うん、悪くないわね」


 慎重に作業を進めていると、背後から静かに扉が開く気配がした。

 私はすぐには振り返らず、筆を静かに置いた。


「何かご用でしょうか、殿下」


「……気づいていたのか」


 アドリアン殿下は、わずかに苦笑して近づいてきた。

 今日は護衛も連れていない。軍靴ではなく、静かな革靴の足取り。

 この人が書庫へ来るときは、いつもそうだ。


「昨夜、無茶をしていなかったか」


「無茶はしていません。必要な作業をしただけです」


「必要……か」


 殿下は古文書の断片に目を落とす。

 その眼差しには焦燥が一瞬だけよぎった。

 私を案じるというより、記録そのものの重さを知っている者の反応。


「殿下。正直に言います。私は……読んでしまいました」


「何を、だ」


「分家の名です。百年前に絶えたとされている家の」


 殿下は目を細め、わずかに呼吸を止めた。

 その沈黙は驚愕でも怒りでもなく、

 “ようやくここまで来たか”という諦めに似ていた。


「その名を、誰かに話したか」


「話す相手がいません」


「……そうか。それならまだ、間に合う」


「間に合うとは?」


「エリス。君が読んだ名は、本来なら誰の耳にも届いてはならないものだ。王家正史は百年前に一度改ざんされている。父上すら知らない」


 私は思わず殿下を見上げた。


「では、殿下はなぜそのことをご存じなのですか?」


「私が王家に生まれたからだ。……正確には、“王家の本当の継承者が誰かを知っていた血筋に生まれた”からだ」


 殿下の声は静かだったが、同時に痛みを抱えていた。

 私は言葉の裏を考える。


 ――殿下の“目的”は何なのか。


「エリス。君に頼みがある」


「何でしょう」


「その文書の修復を進めるなら、最後までやり遂げてほしい。中途半端な状態で暴かれると、国が分裂する」


「……最後まで?」


「そうだ。だが、最後まで読めば君は標的になる。分家の名を知る者は、必ず狙われる」


 殿下はそう言って、机に片手を置いた。

 細い指先にわずかに力がこもっているのが分かった。


「殿下は、私に修復をやめてほしいのですか?」


「やめてほしい。だが、それでは何も変わらない。だから頼んでいる」


 私は心がゆっくり落ち着いていくのを感じた。

 殿下の言葉は矛盾しているようで、実は正直だった。


「殿下。私は、この作業を途中で投げ出すことはできません」


「……君は本当に頑固だな」


「職能を貫くのは頑固とは違います。誰かの命令で動くべきではないからです」


「だからこそ、君に頼んでいる」


 殿下がこちらを見る眼差しには、昨日より明確な温度があった。

 “自分が抱えてきた問題の中心へ踏み込んでくる者”への戸惑いと、期待。


 恋ではない。

 まだ恋ではない。

 だがその“直線の視線”は、確かに私に向けられていた。


 そのとき、書庫の扉が勢いよく開いた。


「エリス!」


 聞き慣れた声――ルネだった。


 彼は息を荒げて駆け込んでくると、殿下の姿を見て一瞬で青ざめた。


「で、殿下……申し訳ありません、私は、その……」


「構わん。何の用だ」


「エリスに伝言がありまして……いえ、その、上からの命令で……」


 ルネの声はいつもより震えていた。

 “命令”という言葉に、私は胸が冷えた。


「どんな命令だ、ルネ」


「し、書庫にある“破損文書の修復を即刻中止せよ”。

 エリスが扱うのは危険すぎるから……とのことです」


 私は殿下に目を向けた。

 殿下は表情を変えず、ただ静かにルネを見つめていた。


「フォール。君はその命令を誰から受けた?」


「そ、それは……お答えできません……」


「答えないのではなく、答えられないのだろう」


 殿下の口調は穏やかだったが、拒絶を含んでいた。

 ルネはたじろぎ、一歩後ずさる。


「エリス……本当に、中止したほうが……」


「やめないわ」


 はっきりと言った。

 ルネは顔をゆがめ、悔しそうに唇を噛んだ。


「……どうしてだ。お前は、ただ巻き込まれてるだけだろ……」


「違うわ。私は職能者として、記録に向き合っているだけよ。誰の命令で動いているわけでもない」


「そんなこと言って……お前は、そんなに殿下を……!」


 その瞬間、殿下が一歩前に出た。

 だが怒ったのではなく、静かな声で告げた。


「フォール。エリスは私の指示で動いているわけではない。

 だが、君が彼女を止めたい理由が“自分の保身”からなら、ここから先は引き下がれ」


 ルネは目を見開いた。

 殿下の言葉は優しく聞こえるが、逃げ場を与えない。


「……分かりました」


 僅かな沈黙のあと、ルネは俯き、静かに書庫を出ていった。

 扉が閉まる瞬間、彼の足音には迷いが残っていた。


 殿下は小さく息を吐いた。


「君の元婚約者は、まだ完全に敵ではない。だが、あのままでは危うい」


「分かっています。……でも、私がやめる理由にはなりません」


「その言葉を聞いて安心したよ」


 殿下は机に残された羊皮紙を手に取り、慎重に裏側を眺めた。


「この破損……切り取りではなく“隠して残すため”の破壊だ。誰かが最後の部分だけ守ろうとした痕跡がある」


「やはり、殿下もそう見えますか」


「見える。……そして気になることがある。

 この文書には、分家の名だけでなく“血統がまだ生きている”と読み取れる箇所があるはずだ」


 私は指が止まった。

 昨夜確かに読んだ断片の一つ。


 分家は絶えたのではなく――“生き延びている”。


「殿下。……もしその推測が本当なら、誰が?」


「私には一つだけ心当たりがある。

 だが、それを証明できるのは、君の修復だけだ」


 殿下はそう言って、私をまっすぐ見つめた。


「エリス。君に頼めるか。

 ――真実を、最後まで読んでくれ」


 私はゆっくりと息を吸った。

 心拍が静かに速まる。


「はい。最後の文字まで、必ず」


 殿下は安堵したように目を伏せた。

 その仕草が妙に脆く見えて、胸が痛くなった。


「ありがとう、エリス。君がいてくれて、助かった」


 その言葉は甘いものではない。

 だが確かに距離を縮める何かだった。


 私は筆を握り直し、焦げ跡の縁にそっと触れた。

 断片の向こう側に、まだ誰も知らない真実がある。


 私は修復士。

 この国にとって、私は今や“記録を開く鍵”になってしまった。


 そして――

 殿下はその鍵を、手放すつもりがない。



 それから三日間、私は書庫に籠もり続けた。

 朝は羊皮紙の乾燥具合を確認し、昼は欠損部分の補強を進め、夜は焦げ付いた文字を一つずつ拾い上げた。


 緊張と集中が途切れず、時間はほとんど実感を残さない。

 殿下は毎日一度だけ訪れ、質問も干渉もせず、ただ進行を見守った。


「急がなくていい。君の精度でなければ読めなくなる」


 そう言う殿下の声は穏やかで、私を焦らせることはなかった。

 逆に、殿下がこうして静かに支えているという事実が、私の集中を支えていた。


 だが四日目の昼過ぎ、書庫の扉を叩く音がしたとき、私は嫌な予感を覚えた。

 扉を開けたのは、書庫長だった。


「エリス……少し、来なさい」


 書庫長の顔は青ざめていた。

 私は作業を中断し、工具を布で覆ってから後を追った。


 書庫長は廊下を歩きながら、声を潜めて言った。


「宮廷兵が来ている。お前を連れていけとの命令だ」


「私を……連れていく? 何の理由で?」


「“機密文書の不正閲覧”だと」


 意味の分からない言葉だった。

 そもそも、あの古文書は書庫長を通じて正式に依頼されたものだ。

 それを“機密文書”と呼ぶなら、依頼自体が罠だったことになる。


「書庫長。誰が命令を?」


「王太子派の大臣だ。……ルネ・フォールの家と繋がっている」


 胸の奥が冷えた。

 ルネが関わっている――予想はしていたが、ここまで早いとは思わなかった。


「拒否したら?」


「連行される。お前を守りたいが、私にはどうにもできん」


 書庫長は震えていた。

 その様子が私の背中を押した。


「……分かりました。行きましょう」


 私は深く息を吸い、覚悟を決めた。

 だが歩き出してすぐ、背後から別の足音が響いた。


「エリス、こちらへ」


 振り返ると、アドリアン殿下がいた。

 護衛を連れず、ただ一人。

 殿下は書庫長に軽く会釈し、私に近づいてきた。


「君を連れていかせるつもりはない。こっちへ」


「で、殿下……しかし、命令が――」


「命令があるのは知っている。だが、それは“王太子派による越権行為”だ。

 私の名前を出せば、彼らも無理はできん」


 殿下は私の腕を軽く引き、別の廊下へ導いた。

 書庫長は何も言わず、深く頭を下げた。


 足音だけが廊下に響く。

 殿下は歩きながら短く言った。


「……予想より早かったな」


「殿下は、この事態を想定していたのですね」


「想定というより、確信だ。君が読んだ文字は、彼らにとって致命的なのだろう」


「分家の名……ですか?」


「それだけではない。“生存者”だ」


 殿下の声は低く落ち着いていたが、その奥にある緊張は隠せていなかった。


「エリス。君が読んだ断片には、“血筋が続いている”と明記されていたか?」


「はい。……ただ、名までは読めませんでした」


「名は後半にある。そこを読ませたくない者がいる」


 私は息を呑んだ。


 そのとき、殿下が急に私の腕を強く引いた。

 次の瞬間、角を曲がった先から兵士たちが現れた。


「第二王子殿下、そちらの方をお預かりいたします!」


 殿下は歩みを止めず、冷静に言った。


「命令書を見せろ。

 “書庫係を拘束せよ”という命令が、どの権限のもとに出されたのか」


 兵士たちは顔をこわばらせた。

 殿下が相手では迂闊に動けない。


「……我らは大臣より、書庫の調査命令を――」


「“調査”と“拘束”は違う。

 私が連れていく。以上だ」


 殿下の声は静かで、だが誰より強かった。

 兵士たちは道を開けるしかなかった。


 私たちは王城の奥へと進み、殿下が普段使う研究室に入った。

 扉を閉めると、殿下は深く息を吐いた。


「……危なかった。エリス、大丈夫か」


「はい。殿下のおかげで」


「君を守るためではない。国家の安定のためだ」


 殿下はそう言ったが、その目は明らかに私を気にかけていた。


「殿下。私が読んだのは、まだ断片だけです。でも、それだけでこんな――」


「十分だ。君が読んだという事実だけで、王太子派は君を排除しようとする。

 “真実を知る者”を処分する。それが彼らの手段だ」


 殿下は机に置かれた地図を広げ、羊皮紙の層ごとに指で辿った。


「彼らは、百年前に絶えたとされる分家の血筋が“今も宮廷内にいる”ことを恐れている。

 もし証拠が出れば、王太子の正当性が疑われるからだ」


「……つまり、分家の生存者は、殿下が心当たりを持っている“その人物”ですか?」


 殿下はしばらく黙り、そしてゆっくり頷いた。


「エリス。君が読んだ断片をもとに、私も数年前から調べていた。

 ――結論から言うと、その人物は……君が知っている人だ」


「私が……?」


 誰だろう。

 王家の血筋が続いているというなら、宮廷に関わる者なのだろうか。


「まだ名は言えない。証拠が必要だ。

 だが、もう一つ確認すべきことがある」


 殿下は机の引き出しから、昨夜私が修復したばかりの断片を取り出した。


「この文字。“血統”の後に続く単語を読めたか?」


「いいえ。焦げ跡が深すぎて、まだ……」


「そこには“隠遁”と書かれている。

 分家は絶えたわけではなく、“隠された”のだ」


 私はその言葉の意味を反芻した。

 隠遁――誰かが、血筋を守るために隠した。


「殿下。それを隠したのは誰なのでしょうか」


「百年前の王弟家だ。

 そして……おそらく最後に残ったのは一人だけ。

 ――その人物が、写しを残して逃げた」


「では、あの破損は……」


「“守るために破壊された”のだ。

 読める場所だけ残し、他は燃やされた。

 危険を知りながら、後世へ繋いだ者がいる」


 私は指先が震えた。

 目の前の断片が、ただの古文書ではなくなった。


「殿下……もしその写しが残っているとしたら、どこに?」


「地下庫だ。王家の歴史が封じられた場所。

 だが、そこには王太子派の監視がある。

 君一人では行けない」


 殿下の視線が、強く私を捉えた。


「だから――私が同行する」


 その言葉は、淡々としていた。

 だが私の胸に、深く響いた。


「殿下が……危険です」


「危険なのは君だ。私は君を利用しているわけではない。

 君が読んだ記録は、この国を揺るがす。

 そして君は、それを放棄しない。

 だから、私が守らなければならない」


 私は殿下の言葉に胸が熱くなった。


「殿下……ありがとうございます」


「礼はいらない。だが、覚悟してくれ」


 殿下は机の鍵束を取り、私に一つ渡した。


「今夜、地下庫へ行く。

 ――真実の写しを取りに」


 私の指先はその鍵を強く握った。

 たった一つの鍵が、国の運命を決める。

 殿下と私が、今夜その扉を開く。


 そして――

 誰かが私たちを止めようとしている。



 夜の城は静まり返っていた。

 外灯の光が石畳に落ち、廊下の影を細長く伸ばしている。

 私はマントの襟を握り、アドリアン殿下と共に裏階段を下りていた。


「ここから先は、王家の許可がなければ入れない。だが、私は第二王子だ。鍵は持っている」


 殿下は静かにそう言い、重い鉄扉の前で立ち止まった。

 鍵を差し込む音が響き、扉がわずかに軋んだ。

 内部から流れ出す空気には、古い石の匂いと紙の乾いた香りが混ざっていた。


「ここが地下庫……」


「この国の歴史の心臓部だ。改ざんされた記録も、隠された真実もすべてここにある」


 殿下が灯した明かりが棚を照らし、無数の文書が影を揺らした。

 私たちはその間を慎重に進んだ。


「写しは一番奥だ。急ごう」


 殿下が歩を速めたその瞬間、金属が擦れる短い音が聞こえた。

 殿下が私の腕を引き、前に出る。


「エリス、後ろに」


 棚の影から一人の男が現れた。

 松明の光が照らした顔を見て、私は息を飲んだ。


「……ルネ?」


 近衛騎士の礼装姿のルネ・フォールが、剣の柄を握りしめていた。

 表情は苦しげで、怒りとも悲しみともつかない歪みだった。


「エリス……悪かった。でも、俺はもう戻れない。命令を無視したら家が潰れるんだ」


「ルネ。剣を下げて。私はあなたに何もしないわ」


「……どうしてだ。お前は巻き込まれただけだろうが」


 殿下が静かな声で言った。


「フォール。お前がここにいる理由は分かる。だが、その命令の本当の目的を理解しているのか」


「分かってます……殿下が危険だからだ。殿下が“正当性を揺るがす存在”だから……!」


「違う。君が利用されているだけだ。

 王太子派は、自分たちの立場を守るために君を動かしている。

 分家の生存者が明らかになれば困るのは、君ではなく彼らだ」


 ルネは目を見開き、剣先を揺らした。


「殿下は……都合よく言っているだけだ!」


「君が信じたくないだけだ。

 命令に従えば家が守られると思っているが、君が倒れれば彼らはまた別の者を使うだけだ」


 沈黙の中で、ルネの手が震えた。

 私は殿下の背越しに一歩前へ出た。


「ルネ。

 あなたは私の仕事を一度も否定しなかった。

 宮廷修復士の役目を誇りだと言ってくれた。

 だからこそ……こんな命令であなたが壊れていくのを見たくない」


「……エリス」


 ルネの顔が揺らぎ、迷いが浮かんだ。

 殿下が静かに告げる。


「剣を置け。フォール。

 君が敵になる必要はない」


 短い沈黙のあと、ルネは剣を握り直し、そして力なく下ろした。


「……俺は……何を守ればいい……?」


「君自身が決めればいい。命令ではなく」


 ルネは目を伏せ、道を開けた。

 私は小さく微笑み、彼に言った。


「ありがとう、ルネ。あなたが下がってくれたおかげで進めるわ」


「……気をつけろ。大臣は本気でお前を消す気だ」


 その言葉を背に、私は殿下と共に奥へ向かった。


 地下庫の最深部には、一つだけ異なる木箱が置かれていた。

 殿下が蓋を開け、中から薄い冊子を取り出した。


「写しだ。百年前、最後の王弟家が残した記録だ」


 私は羊皮紙に触れた。

 保存状態は悪くない。焦げ跡はあるが、文字は十分読める。


「殿下……開いても?」


「頼む。君の手で開いてくれ」


 私は深く頷き、写しを開いた。


 最初に目に入った文字が、私を縫いつけた。


 “生存者、アドリアン”


 視界が揺れ、呼吸が止まる。

 殿下は私の反応を静かに受け止めていた。


「……そうだ。

 百年前の王弟家の血筋は絶えていない。

 私がその末裔だ」


「殿下が……分家の……」


「私は現王家の正統ではない。

 王弟家の血を引く者として、影のように扱われてきた。

 父上は知らず、大臣たちだけが知っていた」


 殿下は写しの文字を指でなぞり、低い声で続けた。


「王太子派は、私が“王位継承の正統性を奪う存在”になると恐れている。

 だから、君が真実に触れたと知り、焦り始めた」


 私は震える声を抑えた。


「殿下が私を守ろうとしたのは……」


「国を守るためだ。

 そして――」


 殿下は私の手に触れた。

 その指先は温かく、静かに震えていた。


「君自身を守るためだ」


 私の胸が強く脈打った。

 殿下の声には嘘がなかった。


「エリス。君がいなければ、この写しは誰にも開けなかった。

 君の技術と眼が、この国を救った」


「殿下……私はただ、職能を――」


「君が職能を貫いたから、たどり着けた真実だ。

 だから……」


 殿下は私の手を包み、まっすぐな視線を向けた。


「エリス・マルタン。

 私と共に歩んでほしい。

 真実を守り、国を支える役割を……私と共に担ってほしい」


 求婚だった。

 驚くほど静かで、そして誠実な。


「……殿下……私は……」


「君の答えは急がなくていい。

 だが一つだけ言わせてくれ」


 殿下は手を離さず、優しく微笑んだ。


「君を必要としているのは国だけではない。

 私もだ。

 私は……君に惹かれている」


 胸が熱くなり、涙が滲みそうになった。

 私は迷いなく答えた。


「……はい。

 殿下と共に歩みたい。

 私が選んだ記録の道が殿下へ続いていたのなら……私は迷いません」


 殿下はゆっくりと息を吐き、安堵のような微笑みを浮かべた。


「ありがとう、エリス。

 本当に……ありがとう」


 私は写しを胸に抱き、殿下と共に地下庫を後にした。

 その瞬間、国の歴史は静かに書き換わり始めた。


 後日、写しは正式に保管され、王太子派の大臣たちは処分された。

 殿下の血筋が公にされることはなかったが、国王には全てが伝えられた。

 殿下の言葉で、断罪ではなく“記録の修正”として扱われた。


 そして、私は書庫の前で殿下と向き合った。


「エリス。これからも、隣で記録を守ってくれ」


「もちろんです。……アドリアン」


 アドリアンは静かに微笑み、私の手を取った。

 その瞬間、私の人生は新しい頁へと進んだ。


 私は誓った。

 聖典修復士として。

 そして彼の隣に立つ者として。

 真実を守り続けると。



完。

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