聖典修復士の私が婚約破棄されたので、損傷した古文書を直したら王家の秘密に触れました
朝の書庫は、いつもわずかに乾いた紙の匂いがした。
私が好きな匂いだ。湿度に敏感な羊皮紙を守るための換気が行き届いていて、空気は澄んでいる。私は机の上に広げた修復道具を整えながら、今日の作業の段取りを頭の中で確認していた。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「エリス、話がある」
私の名を呼ぶ声は、記憶の中より硬かった。
顔を上げると、近衛騎士の礼装を身に着けたルネ・フォールが立っていた。彼は私の婚約者――いや、正確には“元”と呼ぶべきになるのかもしれない男だ。
「こんな時間にどうしたの、ルネ。持ち場は?」
「……関係ない。すぐに済む話だ」
歩み寄ってきた彼の眉間には、強く力がこもっていた。私は胸の奥に嫌な予感を覚えた。工具を静かに置き、姿勢を正す。
「落ち着いて話してくれる?」
「エリス・マルタン。俺は今日をもって、君との婚約を破棄する」
思っていたよりも、冷たい言い方だった。
私は息を吸い込んだが、驚いて言葉を失ったわけではない。婚約が“形だけ”だったことは、ずっと前から感じていた。
だが、彼がここまで感情を排して告げてくるとは思わなかった。
「理由を、ちゃんと説明して」
「君とは……釣り合わない。宮廷修復士なんて地味な職にしがみつくより、もっと相応しい立場の者が……」
「それはあなたの言葉? それとも、誰かに言わされた言葉?」
問いかけると、ルネは一瞬だけ目を逸らした。
その僅かな反応で、私は十分理解してしまった。
誰かが裏で動いている。
ルネの意思ではない。
私は深く息を吐いた。
「分かったわ。あなたが本心で決めたことではないのなら、私はもう追及しない。でも……」
「でも、何だ」
「仕事は辞めない。今日の作業も続ける。私は修復士だから」
ルネは私の答えに顔をしかめた。しかし何も言い返さず、踵を返して出て行った。扉が閉まった瞬間、書庫に静寂が戻った。
私は机の上の工具を見つめた。心の痛みより先に、作業が気になってしまう自分が可笑しかった。
だが、それが私だ。
どれほど私生活が乱れても、損傷した羊皮紙は待ってはくれない。
ルネとの婚約は、今日で終わった。
だが職は終わらない。
私は椅子に座り直し、書庫長から預かった包みをほどいた。
そこに収められていた古文書を見た瞬間、思わず息をのむ。
「……こんな破損の仕方、初めて見る」
羊皮紙は焼け焦げ、縁が波打っていた。
部分的に煤が付着している。水濡れも同時に起きている。
偶然の事故ではない。これは――
“意図的な破壊”の跡だ。
私は手袋越しに表面をそっとなぞった。乾燥の進み具合から、おそらく二、三日前に損傷したばかり。傷みが進む前に修復を始めなければならない。
ページの隅に、かろうじて読める筆跡があった。
王家の文書に使われる古い記述形式――系譜が書かれていた可能性が高い。
そのとき、背後で足音が止まった。
控えめだが、一定の重さがある。近衛ではない。
「ずいぶん酷い状態だな」
声を聞いた瞬間、私の手が小さく震えた。
視界の端からゆっくりと姿を現したのは、この国の第二王子――アドリアン・ルヴァン殿下だった。
「で、殿下……どうしてこちらに?」
「修復の進み具合を見に来た。正確には、その文書が“まだ存在しているかどうか”を確認しにだが」
アドリアン殿下の眼差しは常に柔らかい。
だが今は、わずかに緊張を帯びていた。
「エリス・マルタン。君に警告しておく」
「はい」
「その古文書は、触れれば戻れなくなる。修復が進めば進むほど、君の身は危うくなるだろう」
身の危険――その言葉だけなら、私は引き下がったかもしれない。
だが殿下の表情には、職さえ奪われかねない哀れみと、止めても無駄だと知っている諦めが混ざっていた。
つまり殿下は知っている。
この損傷が偶然でないことを。
「……殿下は、この文書の出所をご存じなのですね」
「知らないと言えば嘘になる。だが、これは私の問題ではない。君が選ぶことだ」
私は破損した羊皮紙を見つめた。
修復士としての本能が疼く。
壊れたものを元の姿へ近づける――そのために私はこの宮廷にいる。
危険だと言われて、はいそうですかとやめられるほど浅い仕事ではない。
「私は修復します。どれほど危険でも、記録は記録です」
アドリアン殿下は、わずかに目を細めた。
呆れではなかった。
諦めでもなかった。
むしろ――“覚悟を受け入れた者の視線”だった。
「……君は、言えば止まると思っていたんだがな」
「止まりません。これは、私の仕事です」
「分かった。ならばせめて、誰にも見られないように進めてくれ。君が巻き込まれれば、私も困る」
その最後の言葉は、思いがけず胸の奥を揺らした。
私が危険だからではない。
“私が傷つけば殿下が困る”というのは、人としての関係ではなく……もっと近しい含みがあるように思えた。
もちろん、思い上がりかもしれない。
だが殿下がそう言ったのは事実だ。
私は小さく頭を下げた。
「承知しました。慎重に進めます」
「頼んだ。……エリス、君は本当に戻れなくなるぞ」
「戻るつもりはありません」
殿下はそれ以上何も言わず、静かに去っていった。
扉が閉まると、再び静寂が戻る。
私は椅子に座り直し、古文書を開いた。
焼け焦げた部分を裏から透かし、残った線を拾っていく。
細い筆を取り、欠損部分を補強する。
集中すると、時間は溶けていく。
だが今回は、心の奥で緊張が絶えず続いていた。
破損の仕方があまりに不自然だ。
何かを消すために破られたというより、
“残り少ない部分を守るための破壊”に見える。
「……まるで、誰かが伝えようとしていたみたい」
思わず独り言が漏れた。
作業を進めるうち、文字が一つ、また一つと蘇る。
そこには――この国の王家の系譜と、百年前に途絶えたはずの分家の名が薄く刻まれていた。
心臓が静かに跳ねた。
これは、ただの修復では済まない。
誰かが意図して隠し、誰かが意図して残した記録。
その断片を私が読んでしまったことで、もう引き返す道は完全に消えた。
「ああ……これは、本当に危ないわね」
けれど私は手を止めなかった。
止める理由は、どこにもなかった。
婚約破棄の痛みも、書庫の静けさに溶けていく。
その奥で、新しい緊張と使命感がゆっくり形を成す。
私は聖典修復士。
私は、記録を守る者。
――そして今日、私は初めて“王家の秘密”の端に触れた。
翌朝、私は書庫の鍵を開ける前から、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
昨夜遅くまで修復した羊皮紙の断片が、頭の中で何度も形を変えて浮かぶ。
百年前に“消えた”はずの分家。
その名を私は読んだ。確かに読んだ。
だが、私が触れたのはまだ断片にすぎない。
真実でも噂でもない。
“読めた文字”という、ただ一つの事実だけだ。
書庫の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
机の上に残していた資料は、そのままの位置にあった。
まずは昨夜乾燥棚に置いた羊皮紙を取り出し、繊維の収縮具合を確かめる。
「……うん、悪くないわね」
慎重に作業を進めていると、背後から静かに扉が開く気配がした。
私はすぐには振り返らず、筆を静かに置いた。
「何かご用でしょうか、殿下」
「……気づいていたのか」
アドリアン殿下は、わずかに苦笑して近づいてきた。
今日は護衛も連れていない。軍靴ではなく、静かな革靴の足取り。
この人が書庫へ来るときは、いつもそうだ。
「昨夜、無茶をしていなかったか」
「無茶はしていません。必要な作業をしただけです」
「必要……か」
殿下は古文書の断片に目を落とす。
その眼差しには焦燥が一瞬だけよぎった。
私を案じるというより、記録そのものの重さを知っている者の反応。
「殿下。正直に言います。私は……読んでしまいました」
「何を、だ」
「分家の名です。百年前に絶えたとされている家の」
殿下は目を細め、わずかに呼吸を止めた。
その沈黙は驚愕でも怒りでもなく、
“ようやくここまで来たか”という諦めに似ていた。
「その名を、誰かに話したか」
「話す相手がいません」
「……そうか。それならまだ、間に合う」
「間に合うとは?」
「エリス。君が読んだ名は、本来なら誰の耳にも届いてはならないものだ。王家正史は百年前に一度改ざんされている。父上すら知らない」
私は思わず殿下を見上げた。
「では、殿下はなぜそのことをご存じなのですか?」
「私が王家に生まれたからだ。……正確には、“王家の本当の継承者が誰かを知っていた血筋に生まれた”からだ」
殿下の声は静かだったが、同時に痛みを抱えていた。
私は言葉の裏を考える。
――殿下の“目的”は何なのか。
「エリス。君に頼みがある」
「何でしょう」
「その文書の修復を進めるなら、最後までやり遂げてほしい。中途半端な状態で暴かれると、国が分裂する」
「……最後まで?」
「そうだ。だが、最後まで読めば君は標的になる。分家の名を知る者は、必ず狙われる」
殿下はそう言って、机に片手を置いた。
細い指先にわずかに力がこもっているのが分かった。
「殿下は、私に修復をやめてほしいのですか?」
「やめてほしい。だが、それでは何も変わらない。だから頼んでいる」
私は心がゆっくり落ち着いていくのを感じた。
殿下の言葉は矛盾しているようで、実は正直だった。
「殿下。私は、この作業を途中で投げ出すことはできません」
「……君は本当に頑固だな」
「職能を貫くのは頑固とは違います。誰かの命令で動くべきではないからです」
「だからこそ、君に頼んでいる」
殿下がこちらを見る眼差しには、昨日より明確な温度があった。
“自分が抱えてきた問題の中心へ踏み込んでくる者”への戸惑いと、期待。
恋ではない。
まだ恋ではない。
だがその“直線の視線”は、確かに私に向けられていた。
そのとき、書庫の扉が勢いよく開いた。
「エリス!」
聞き慣れた声――ルネだった。
彼は息を荒げて駆け込んでくると、殿下の姿を見て一瞬で青ざめた。
「で、殿下……申し訳ありません、私は、その……」
「構わん。何の用だ」
「エリスに伝言がありまして……いえ、その、上からの命令で……」
ルネの声はいつもより震えていた。
“命令”という言葉に、私は胸が冷えた。
「どんな命令だ、ルネ」
「し、書庫にある“破損文書の修復を即刻中止せよ”。
エリスが扱うのは危険すぎるから……とのことです」
私は殿下に目を向けた。
殿下は表情を変えず、ただ静かにルネを見つめていた。
「フォール。君はその命令を誰から受けた?」
「そ、それは……お答えできません……」
「答えないのではなく、答えられないのだろう」
殿下の口調は穏やかだったが、拒絶を含んでいた。
ルネはたじろぎ、一歩後ずさる。
「エリス……本当に、中止したほうが……」
「やめないわ」
はっきりと言った。
ルネは顔をゆがめ、悔しそうに唇を噛んだ。
「……どうしてだ。お前は、ただ巻き込まれてるだけだろ……」
「違うわ。私は職能者として、記録に向き合っているだけよ。誰の命令で動いているわけでもない」
「そんなこと言って……お前は、そんなに殿下を……!」
その瞬間、殿下が一歩前に出た。
だが怒ったのではなく、静かな声で告げた。
「フォール。エリスは私の指示で動いているわけではない。
だが、君が彼女を止めたい理由が“自分の保身”からなら、ここから先は引き下がれ」
ルネは目を見開いた。
殿下の言葉は優しく聞こえるが、逃げ場を与えない。
「……分かりました」
僅かな沈黙のあと、ルネは俯き、静かに書庫を出ていった。
扉が閉まる瞬間、彼の足音には迷いが残っていた。
殿下は小さく息を吐いた。
「君の元婚約者は、まだ完全に敵ではない。だが、あのままでは危うい」
「分かっています。……でも、私がやめる理由にはなりません」
「その言葉を聞いて安心したよ」
殿下は机に残された羊皮紙を手に取り、慎重に裏側を眺めた。
「この破損……切り取りではなく“隠して残すため”の破壊だ。誰かが最後の部分だけ守ろうとした痕跡がある」
「やはり、殿下もそう見えますか」
「見える。……そして気になることがある。
この文書には、分家の名だけでなく“血統がまだ生きている”と読み取れる箇所があるはずだ」
私は指が止まった。
昨夜確かに読んだ断片の一つ。
分家は絶えたのではなく――“生き延びている”。
「殿下。……もしその推測が本当なら、誰が?」
「私には一つだけ心当たりがある。
だが、それを証明できるのは、君の修復だけだ」
殿下はそう言って、私をまっすぐ見つめた。
「エリス。君に頼めるか。
――真実を、最後まで読んでくれ」
私はゆっくりと息を吸った。
心拍が静かに速まる。
「はい。最後の文字まで、必ず」
殿下は安堵したように目を伏せた。
その仕草が妙に脆く見えて、胸が痛くなった。
「ありがとう、エリス。君がいてくれて、助かった」
その言葉は甘いものではない。
だが確かに距離を縮める何かだった。
私は筆を握り直し、焦げ跡の縁にそっと触れた。
断片の向こう側に、まだ誰も知らない真実がある。
私は修復士。
この国にとって、私は今や“記録を開く鍵”になってしまった。
そして――
殿下はその鍵を、手放すつもりがない。
それから三日間、私は書庫に籠もり続けた。
朝は羊皮紙の乾燥具合を確認し、昼は欠損部分の補強を進め、夜は焦げ付いた文字を一つずつ拾い上げた。
緊張と集中が途切れず、時間はほとんど実感を残さない。
殿下は毎日一度だけ訪れ、質問も干渉もせず、ただ進行を見守った。
「急がなくていい。君の精度でなければ読めなくなる」
そう言う殿下の声は穏やかで、私を焦らせることはなかった。
逆に、殿下がこうして静かに支えているという事実が、私の集中を支えていた。
だが四日目の昼過ぎ、書庫の扉を叩く音がしたとき、私は嫌な予感を覚えた。
扉を開けたのは、書庫長だった。
「エリス……少し、来なさい」
書庫長の顔は青ざめていた。
私は作業を中断し、工具を布で覆ってから後を追った。
書庫長は廊下を歩きながら、声を潜めて言った。
「宮廷兵が来ている。お前を連れていけとの命令だ」
「私を……連れていく? 何の理由で?」
「“機密文書の不正閲覧”だと」
意味の分からない言葉だった。
そもそも、あの古文書は書庫長を通じて正式に依頼されたものだ。
それを“機密文書”と呼ぶなら、依頼自体が罠だったことになる。
「書庫長。誰が命令を?」
「王太子派の大臣だ。……ルネ・フォールの家と繋がっている」
胸の奥が冷えた。
ルネが関わっている――予想はしていたが、ここまで早いとは思わなかった。
「拒否したら?」
「連行される。お前を守りたいが、私にはどうにもできん」
書庫長は震えていた。
その様子が私の背中を押した。
「……分かりました。行きましょう」
私は深く息を吸い、覚悟を決めた。
だが歩き出してすぐ、背後から別の足音が響いた。
「エリス、こちらへ」
振り返ると、アドリアン殿下がいた。
護衛を連れず、ただ一人。
殿下は書庫長に軽く会釈し、私に近づいてきた。
「君を連れていかせるつもりはない。こっちへ」
「で、殿下……しかし、命令が――」
「命令があるのは知っている。だが、それは“王太子派による越権行為”だ。
私の名前を出せば、彼らも無理はできん」
殿下は私の腕を軽く引き、別の廊下へ導いた。
書庫長は何も言わず、深く頭を下げた。
足音だけが廊下に響く。
殿下は歩きながら短く言った。
「……予想より早かったな」
「殿下は、この事態を想定していたのですね」
「想定というより、確信だ。君が読んだ文字は、彼らにとって致命的なのだろう」
「分家の名……ですか?」
「それだけではない。“生存者”だ」
殿下の声は低く落ち着いていたが、その奥にある緊張は隠せていなかった。
「エリス。君が読んだ断片には、“血筋が続いている”と明記されていたか?」
「はい。……ただ、名までは読めませんでした」
「名は後半にある。そこを読ませたくない者がいる」
私は息を呑んだ。
そのとき、殿下が急に私の腕を強く引いた。
次の瞬間、角を曲がった先から兵士たちが現れた。
「第二王子殿下、そちらの方をお預かりいたします!」
殿下は歩みを止めず、冷静に言った。
「命令書を見せろ。
“書庫係を拘束せよ”という命令が、どの権限のもとに出されたのか」
兵士たちは顔をこわばらせた。
殿下が相手では迂闊に動けない。
「……我らは大臣より、書庫の調査命令を――」
「“調査”と“拘束”は違う。
私が連れていく。以上だ」
殿下の声は静かで、だが誰より強かった。
兵士たちは道を開けるしかなかった。
私たちは王城の奥へと進み、殿下が普段使う研究室に入った。
扉を閉めると、殿下は深く息を吐いた。
「……危なかった。エリス、大丈夫か」
「はい。殿下のおかげで」
「君を守るためではない。国家の安定のためだ」
殿下はそう言ったが、その目は明らかに私を気にかけていた。
「殿下。私が読んだのは、まだ断片だけです。でも、それだけでこんな――」
「十分だ。君が読んだという事実だけで、王太子派は君を排除しようとする。
“真実を知る者”を処分する。それが彼らの手段だ」
殿下は机に置かれた地図を広げ、羊皮紙の層ごとに指で辿った。
「彼らは、百年前に絶えたとされる分家の血筋が“今も宮廷内にいる”ことを恐れている。
もし証拠が出れば、王太子の正当性が疑われるからだ」
「……つまり、分家の生存者は、殿下が心当たりを持っている“その人物”ですか?」
殿下はしばらく黙り、そしてゆっくり頷いた。
「エリス。君が読んだ断片をもとに、私も数年前から調べていた。
――結論から言うと、その人物は……君が知っている人だ」
「私が……?」
誰だろう。
王家の血筋が続いているというなら、宮廷に関わる者なのだろうか。
「まだ名は言えない。証拠が必要だ。
だが、もう一つ確認すべきことがある」
殿下は机の引き出しから、昨夜私が修復したばかりの断片を取り出した。
「この文字。“血統”の後に続く単語を読めたか?」
「いいえ。焦げ跡が深すぎて、まだ……」
「そこには“隠遁”と書かれている。
分家は絶えたわけではなく、“隠された”のだ」
私はその言葉の意味を反芻した。
隠遁――誰かが、血筋を守るために隠した。
「殿下。それを隠したのは誰なのでしょうか」
「百年前の王弟家だ。
そして……おそらく最後に残ったのは一人だけ。
――その人物が、写しを残して逃げた」
「では、あの破損は……」
「“守るために破壊された”のだ。
読める場所だけ残し、他は燃やされた。
危険を知りながら、後世へ繋いだ者がいる」
私は指先が震えた。
目の前の断片が、ただの古文書ではなくなった。
「殿下……もしその写しが残っているとしたら、どこに?」
「地下庫だ。王家の歴史が封じられた場所。
だが、そこには王太子派の監視がある。
君一人では行けない」
殿下の視線が、強く私を捉えた。
「だから――私が同行する」
その言葉は、淡々としていた。
だが私の胸に、深く響いた。
「殿下が……危険です」
「危険なのは君だ。私は君を利用しているわけではない。
君が読んだ記録は、この国を揺るがす。
そして君は、それを放棄しない。
だから、私が守らなければならない」
私は殿下の言葉に胸が熱くなった。
「殿下……ありがとうございます」
「礼はいらない。だが、覚悟してくれ」
殿下は机の鍵束を取り、私に一つ渡した。
「今夜、地下庫へ行く。
――真実の写しを取りに」
私の指先はその鍵を強く握った。
たった一つの鍵が、国の運命を決める。
殿下と私が、今夜その扉を開く。
そして――
誰かが私たちを止めようとしている。
夜の城は静まり返っていた。
外灯の光が石畳に落ち、廊下の影を細長く伸ばしている。
私はマントの襟を握り、アドリアン殿下と共に裏階段を下りていた。
「ここから先は、王家の許可がなければ入れない。だが、私は第二王子だ。鍵は持っている」
殿下は静かにそう言い、重い鉄扉の前で立ち止まった。
鍵を差し込む音が響き、扉がわずかに軋んだ。
内部から流れ出す空気には、古い石の匂いと紙の乾いた香りが混ざっていた。
「ここが地下庫……」
「この国の歴史の心臓部だ。改ざんされた記録も、隠された真実もすべてここにある」
殿下が灯した明かりが棚を照らし、無数の文書が影を揺らした。
私たちはその間を慎重に進んだ。
「写しは一番奥だ。急ごう」
殿下が歩を速めたその瞬間、金属が擦れる短い音が聞こえた。
殿下が私の腕を引き、前に出る。
「エリス、後ろに」
棚の影から一人の男が現れた。
松明の光が照らした顔を見て、私は息を飲んだ。
「……ルネ?」
近衛騎士の礼装姿のルネ・フォールが、剣の柄を握りしめていた。
表情は苦しげで、怒りとも悲しみともつかない歪みだった。
「エリス……悪かった。でも、俺はもう戻れない。命令を無視したら家が潰れるんだ」
「ルネ。剣を下げて。私はあなたに何もしないわ」
「……どうしてだ。お前は巻き込まれただけだろうが」
殿下が静かな声で言った。
「フォール。お前がここにいる理由は分かる。だが、その命令の本当の目的を理解しているのか」
「分かってます……殿下が危険だからだ。殿下が“正当性を揺るがす存在”だから……!」
「違う。君が利用されているだけだ。
王太子派は、自分たちの立場を守るために君を動かしている。
分家の生存者が明らかになれば困るのは、君ではなく彼らだ」
ルネは目を見開き、剣先を揺らした。
「殿下は……都合よく言っているだけだ!」
「君が信じたくないだけだ。
命令に従えば家が守られると思っているが、君が倒れれば彼らはまた別の者を使うだけだ」
沈黙の中で、ルネの手が震えた。
私は殿下の背越しに一歩前へ出た。
「ルネ。
あなたは私の仕事を一度も否定しなかった。
宮廷修復士の役目を誇りだと言ってくれた。
だからこそ……こんな命令であなたが壊れていくのを見たくない」
「……エリス」
ルネの顔が揺らぎ、迷いが浮かんだ。
殿下が静かに告げる。
「剣を置け。フォール。
君が敵になる必要はない」
短い沈黙のあと、ルネは剣を握り直し、そして力なく下ろした。
「……俺は……何を守ればいい……?」
「君自身が決めればいい。命令ではなく」
ルネは目を伏せ、道を開けた。
私は小さく微笑み、彼に言った。
「ありがとう、ルネ。あなたが下がってくれたおかげで進めるわ」
「……気をつけろ。大臣は本気でお前を消す気だ」
その言葉を背に、私は殿下と共に奥へ向かった。
地下庫の最深部には、一つだけ異なる木箱が置かれていた。
殿下が蓋を開け、中から薄い冊子を取り出した。
「写しだ。百年前、最後の王弟家が残した記録だ」
私は羊皮紙に触れた。
保存状態は悪くない。焦げ跡はあるが、文字は十分読める。
「殿下……開いても?」
「頼む。君の手で開いてくれ」
私は深く頷き、写しを開いた。
最初に目に入った文字が、私を縫いつけた。
“生存者、アドリアン”
視界が揺れ、呼吸が止まる。
殿下は私の反応を静かに受け止めていた。
「……そうだ。
百年前の王弟家の血筋は絶えていない。
私がその末裔だ」
「殿下が……分家の……」
「私は現王家の正統ではない。
王弟家の血を引く者として、影のように扱われてきた。
父上は知らず、大臣たちだけが知っていた」
殿下は写しの文字を指でなぞり、低い声で続けた。
「王太子派は、私が“王位継承の正統性を奪う存在”になると恐れている。
だから、君が真実に触れたと知り、焦り始めた」
私は震える声を抑えた。
「殿下が私を守ろうとしたのは……」
「国を守るためだ。
そして――」
殿下は私の手に触れた。
その指先は温かく、静かに震えていた。
「君自身を守るためだ」
私の胸が強く脈打った。
殿下の声には嘘がなかった。
「エリス。君がいなければ、この写しは誰にも開けなかった。
君の技術と眼が、この国を救った」
「殿下……私はただ、職能を――」
「君が職能を貫いたから、たどり着けた真実だ。
だから……」
殿下は私の手を包み、まっすぐな視線を向けた。
「エリス・マルタン。
私と共に歩んでほしい。
真実を守り、国を支える役割を……私と共に担ってほしい」
求婚だった。
驚くほど静かで、そして誠実な。
「……殿下……私は……」
「君の答えは急がなくていい。
だが一つだけ言わせてくれ」
殿下は手を離さず、優しく微笑んだ。
「君を必要としているのは国だけではない。
私もだ。
私は……君に惹かれている」
胸が熱くなり、涙が滲みそうになった。
私は迷いなく答えた。
「……はい。
殿下と共に歩みたい。
私が選んだ記録の道が殿下へ続いていたのなら……私は迷いません」
殿下はゆっくりと息を吐き、安堵のような微笑みを浮かべた。
「ありがとう、エリス。
本当に……ありがとう」
私は写しを胸に抱き、殿下と共に地下庫を後にした。
その瞬間、国の歴史は静かに書き換わり始めた。
後日、写しは正式に保管され、王太子派の大臣たちは処分された。
殿下の血筋が公にされることはなかったが、国王には全てが伝えられた。
殿下の言葉で、断罪ではなく“記録の修正”として扱われた。
そして、私は書庫の前で殿下と向き合った。
「エリス。これからも、隣で記録を守ってくれ」
「もちろんです。……アドリアン」
アドリアンは静かに微笑み、私の手を取った。
その瞬間、私の人生は新しい頁へと進んだ。
私は誓った。
聖典修復士として。
そして彼の隣に立つ者として。
真実を守り続けると。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




