秋桜(コスモス)
医療メーカーに務める中岡優一は、新たな医療機器の開発プロジェクトに携わっていた。
仕事に行き詰まったとき、先輩や同僚、そして家族に支えられていることに優一は改めて気づく。
そんな中、優一は、ふと昔に父に言われたことを思い出した。
私は、誰かの役に立ちたい。
そして、誰かのために生きたい⋯⋯。
「おい、中岡。あのプロジェクトは順調か?」
上司の大塚が、話しかけてきた。
「はい、何とか……」
中岡優一は、パソコンから顔を上げて応えた。
「なんだ。歯切れの悪い返事だな。来週には、進捗状況の報告会議があるんだぞ」
「はい、分かっています、それまでには、何とか」
優一は、力のない返事をした。大塚は、こちらの様子を察してか、そうでないのか、話を続けた。
「お前には期待しているんだ。大変だとは思うが、会議までには、ある程度の結果を出せるようにしておけ。頼んだぞ」
大塚はそう言うと、こちらに背を向け、右手を挙げながら去っていった。
「えらく期待されてるな。期待の若手というわけだな」
大塚の背中を見送る優一の後ろから、声が聞こえた。先輩の瀬戸だった。
「やめてくださいよ、瀬戸さん。こう見えて、プレッシャー感じてるんですから」
「そうか。でも、あの仕事にうるさい大塚部長が、あんなに期待をしているんだ。逆に、堂々としていたら良いんだよ」
瀬戸の話を聞いている優一に、別の人物が話しかけてきた。後輩の西だった。
「そうですよ、中岡さん。中岡さんは、すごいですよ! 僕も、中岡さんみたいに頑張って、みんなに尊敬されたいです!」
「おいおい、そんなに持ち上げないでくれよ。余計に不安になっちゃうだろ」
瀬戸、西、優一の3人は、席が隣同士だった。優一にとっては、何でも話せる、仲の良い同僚だった。
優一は、医療機器メーカー「ホープ&ケア」に勤務している。「ホープ&ケア」は、企業の大きさはそこまでだが、地元に密着しながら、地道に展開している中小企業である。“健康は身近から”という経営理念に優一は共感し、入社を決意した。
優一は、この会社に勤めて、今年で5年めになる。仕事内容にやりがいを感じ、また仲の良い同僚に恵まれ、今に至る。
現在、優一が携わっているプロジェクトは、3ヶ月前から始まった。それは、社内では「サーチライト・プロジェクト」と呼ばれている。「サーチライト」とは、「ホープ&ケア」が現在開発している新型超音波診断装置の名前である。脳からの信号を受信し、その情報を言語化するというものだ。
現在、日本では、脳の機能障害を起こす人々の割合が0,2~0,3%と言われている。その中で、脳による障害により、うまく話せなくなってしまうことがある。それは、失語症、構音障害、その他多岐にわたる。
人と関わり、お互いの意志疎通のサポートができないか。そんな思いが「サーチライト・プロジェクト」の根幹にある。
優一は開発部門に所属し、「サーチライト・プロジェクト」への参加も、自ら志願したものだった。それは、優一の父の影響が大きかった。
優一の父は、厳しかった。優一が幼い頃から、何でも自分で考えるようにしつけられた。今となっては、そのありがたさが分かる。そんな父と、何でも許してくれる優しい母のもとで、優一はすくすくと育った。
父は、優一に決まって言うことがあった。
「おい、優一。お前の人生は、お前だけで歩んできたんじゃないぞ。お前の前から、隣から、後ろから、色んな人が一緒に歩んできてくれたんだ。お前の見えない所でな。いいか。これからは、自分のことだけじゃなく、そんな人たちのことを思って生きなさい。そのことを忘れるんじゃない」
父との思い出の中で、この言葉は、優一の心に深く刻み込まれた。
そんな父が、優一が高校生の頃に、急に倒れた。くも膜下出血だった。
近くにいた人々の迅速な対応のお陰で、何とか一命をとりとめた。しかし、搬送先の病院の先生からは「高次脳機能障害」の後遺症が残るかもしれないと言われた。
病院の先生の話の通り、父は話がうまくできなくなった。仕事も辞め、病院で寝たきりの生活だった。そして、優一が大学生の時に、父は亡くなった。
気持ちを伝えられないということが、こんなにもつらいとは思わなかった。こんな思いを、今も感じている人々が多くいる。そんな人たちのために、何かできることは無いか。それが優一の素直な気持ちだった。
優一は、時計を見た。夜の8時を回ったところだった。
「ふぅ、もうこんな時間か。そろそろ帰るか」
優一はそう言うと、デスクを片付け、帰り支度を始めた。
「おう、帰るのか。いつも遅くまで、ご苦労さんだな」
隣の瀬戸が言った。
「お疲れ様です。瀬戸さんは、まだ残るんですか」
「いや、俺ももう出るよ。明日の外回りの準備もしたし。それに、毎日こう遅いんじゃ、家族にも申し訳ないしな」
「そうですね」
「そう言えば、中岡。お前のところの優人くん、いくつになったんだ」
「3つです」
「そうか、もう3つになったのか。1番かわいい時じゃないか。奥さんの見歩さんも育児を頑張ってるんだから、家族に感謝して、大切にしろよ」
「はい、ありがとうございます」
その後、優一と瀬戸は一緒に会社を出て、最寄り駅で解散した。
「ただいま」
「あ、あなた。おかえりなさい。いつもお疲れ様。どう、仕事の方は?」
「ああ。それが、今ちょっと行き詰まっててさ」
優一は、スーツを脱ぎながら応えた。妻の見歩は、優一のスーツを受け取った。
「そう、色々と大変なのね。ちょっと待っててね。今からご飯の準備をするから」
見歩はそう言うと、台所の方へ向かった。
優一は、リビングのダイニングテーブルに腰を掛けた。すると、向こうの部屋から、父ちゃんと呼ぶ声が聞こえてきた。息子の優人だった。夫婦の会話が聞こえてきたのだろう。目をこすりながら、優一の方に近寄ってきた。
「優人か。起きたのか」
パパと言う優人を、優一は抱っこした。そして、口をいっぱいに膨らませ、唇をとがらせた。優人は、この顔をすると、いつも笑ってくれる。
優人と戯れていると、見歩がリビングに戻ってきた。手に持ったお盆には、缶ビールとグラス、そして料理がのっていた。親子丼だった。
「いつも済まない。見歩に色々と任せっきりで」
「良いのよ。今は、私も生活を楽しめているから。疲れたときは、私もあなたに正直に言うし」
「そう思ってくれていて、嬉しいよ」
優一は、抱っこしていた優人を下ろした。優人は、今度は見歩の所へ向かい、抱っこしてもらっていた。
「あなたの方こそ、大丈夫? 毎日遅くまで働いて、体調は大丈夫なの?」
「あぁ、今は大丈夫。見歩のお陰で、何とか出来ているよ」
「若い時から、すぐ無理しちゃうんだから」
見歩は、呆れながら、それでいて心配そうな顔で優一を見つめた。
「何ていうか……、放っておけないんだよな」
「言うと思った。でも、それがあなたの良いところよ」
見歩は、微笑んでいた。
「体に気を付けてね」
つけてね。優人が見歩の真似をして言った。優一と見歩は、顔を見合わせて笑った。
「……ありがとう」
優一は、そう応えた。空のグラスに映った自分の顔を眺めていた。
翌日、優一は瀬戸と、ある病院を訪れた。
その病院は、優一の勤めている「ホープ&ケア」の医療機器を使用していた。
応接室に案内された優一と瀬戸は、静かにソファに座っていた。扉をノックする音が聞こえ、白衣を着た男性が1人、部屋に入ってきた。名札に八木と書かれていた。
「八木さん。このたびは、ありがとうございます」
「いえいえ、瀬戸さん。こちらこそ、よくお越しくださいました」
「さて、いかがでしょうか。弊社の医療機器のご感想は」
「そうですね。患者様や職員からは、便利だという声は聞いています」
「それは、ありがとうございます」
「ただね……。申し上げにくいのですが、やはり費用がね。私どもの経営費用では、今後も貴社の機器を利活用させていただくには、少し厳しいのが現状です」
八木という男は、少し険しい顔をした。
「とても良い商品ではあると思います。しかし、正直なところ、本院に今後もずっと置いておくには、ちょっと難しいかなと」
「そうですか……、わかりました。私たちの方で、費用については、検討させていただきます。正直なご意見、ありがとうございます。何かありましたら、ご遠慮なくお申し付けください」
瀬戸が、深々と頭を下げた。それに倣って、優一も頭を下げた。
「すみません、ご期待に添えなくて。こちらこそ、今後とも宜しくお願いします」
優一が顔を上げると、八木も、頭を下げていた。
病院を出ると、陽が翳っていた。駅に向かう道中、2人は黙っていた。途中、小さな公園に差し掛かった。
「ちょっと、休憩しようか」
瀬戸が話しかけてきた。
近くの自動販売機で缶コーヒーを2つ買い、公園にあるベンチに2人並んで腰かけた。
向こう側に花壇が見えた。秋桜の花が咲いている。
「難しいな」
不意に、瀬戸が話し始めた。優一は、初めは何のことを言っているのか分からなかった。
「人を助けるって、難しいな。自分の思いだけじゃ、どうにもならないことだってあるんだよな」
「そうですね……」
瀬戸は、缶コーヒーを一口飲んだ。優一は、黙って隣に座っていた。
思っているだけじゃ、どうにもならないこともある、か。
「瀬戸さん……」
優一が、おもむろに口を開いた。
「瀬戸さんは、どうしてこの仕事を選んだんですか」
「なんだよ、急に。改まった質問なんかして」
「いや、すみません。ちょっと気になっちゃって」
「そうだな……」
瀬戸は、向こうを見つめていた。花壇の秋桜が、風に揺れていた。
「“誰かのためになりたい”って思ったからかな」
「“誰かのため”……、ですか」
「ああ、そうだ。昔、俺が中学生だった頃、兄が交通事故にあってな。車椅子生活になったんだよ。それから、家族全員でサポートしながら暮らしてるんだよ」
優一の知らない話だった。
「車椅子の生活って、思っていたものよりも大変なんだよ。本人はもとより、周りの人も、こんなに大変だとは思わなかったよ」
優一は、黙って話を聞いていた。
「だからかな……。同じ境遇の人に、何かしら出来ることがないかな、と思ったんだ。だから、今この仕事に就いてる」
瀬戸は、まっすぐ前を向いていた。
「そうだったんですね……」
優一は、また黙った。瀬戸は、こちらの様子を察してか、優一に話しかけた。
「中岡、お前もそうだろ。深くは聞かないけど、何か思いがあって、この仕事をしてるんだろ」
「はい、そうです」
「そうか……。大塚部長も、西も、きっと一緒だろう。おそらく、みんな同じなんだろうな」
そう言うと、瀬戸は一呼吸おいた。
「誰かの役に立ちたい、誰かのために生きたい……。そういうのを、真心っていうんだよ」
真心、か……。優一は、胸の奥で何か温かいものを感じた。
「お前が今、関わってる「サーチライト・プロジェクト」。あれ、頑張れよ。応援してるからな」
ありがとうございます。優一は、そう瀬戸に言った。
優一は空を見上げた。遠くの空が、少しずつ夕日に染まり始めていた。
お読みくださり、ありがとうございます。
ご感想等ありましたら、よろしくお願いします。