風紀
寝起きの手で何とかスマホを掴み、電源を入れる。
嘘だろ、おい……。反射的に飛び起きた。
見間違いを疑ったが、そうではなかった。
急いで髭を剃り、スーツに着替える。
そして、玄関を出て、握り締めたままのスマホの画面に目をやりながら、バス停へと急ぐ。自分はもう、全力疾走が辛い年齢に差し掛かっているらしい事を痛感する。
あと二分……。乗れるのか……。間に合うのか……。
「ちょっと! もう五十五分じゃない!」
五月はやはりいちゃもんをつけてきた。
それから、ネクタイがズレていると指摘され、身だしなみは社会人の基本というテーマにシフトした。
五分前に入社する様では遅いと主張する上に、そのくせ、朝から数分間の説教を喰らわすお前の方がズレている。
ホントに口うるさい女だ。
毎年、新入社員がこの女の餌食になっているが、大半がいちゃもんだ。
八年という勤務期間の中で掴んだ傾向に因ってしばらく対策する事が出来ていたが、久し振りにいちゃもんを、しかも朝からつけられ、苛立ちを覚える。
少しだけ腹の出た男性社員にダイエットしろと言ったり、オーソドックスな茶髪の女性社員に髪色が明る過ぎると言ったり、指で隠せる程少しの顎鬚を蓄えた男性社員に暑苦しいから剃れと言ったり、ナチュラルメイクの女性社員に化粧が濃過ぎると言ったり、五月はいつも、振り撒く様にいちゃもんをつけている。
被害に遭った社員は皆、不服を隠した表情だ。
そんな五月は陰で〝風紀委員気取り〟と呼ばれ、嫌われている。
おかっぱ頭に丸眼鏡という、絵に描いた様な風紀委員スタイルに因って、尚更鬱陶しさが加わっている気がする。
彼女は全くと言っていい程、自分のプライベートを語らない故、ミステリアスな存在だが、どうやらバツ3らしいという話を聞いた事がある。
バツイチは性格の不一致などが考えられるが、バツ3となると、性格に相当な難があるか、相手を見極める力が著しく乏しいかのどちらかであるという説を、僕は唱えている。
五月は、絶対に前者だと思う。
カレーヌードルを啜っていると、五月は立ち上がり、僕に鋭い眼差しを向けたまま近付いてくる。何か言われる……。
「ちょっと、来間君」
五月は僕のデスクのすぐ傍で止まった。
「ヌーハラよ、ヌーハラ」
「ヌーハラ?」
「そう、ヌーハラ。ヌードルハラスメント。啜る音がおっきいの!」
いや、普通だろ。絶対普通だろ。全然普通だろ。どう考えても普通の音量だろ。
「あと、スメハラよ」
「スメハラ?」
「そう、スメハラ。スメルハラスメント。カレーの匂いが強いの! 気を付けて!」
五月は自分のデスクに戻っていった。
言う程匂いは充満していないし、どっちにしろ、他の社員も全員食事中だからいいのではないだろうか。
今までに何度も会社でカレーヌードルを食べているが、何故、今になって突っ掛かりだしたのだろう。
大体、お前だって何回かカレー喰ってるだろ。
カレー味がスメハラなら本物のカレーはもっとスメハラじゃないか。
理不尽だ。理不尽過ぎる。
甚だ、嫌悪感を覚える。