冗談
アラームが鳴った。
また、憂鬱な朝が来た。
仕事を辞めたい。転職したい。あの地獄から抜け出したい。
そう思っている最中についた〝主任〟という肩書きが、鎖の様に僕を会社に括り付けている。
仕事を辞めたい。転職したい。あの地獄から抜け出したい。
渋々、起き上がる。
テレビを点けると、俳優が覚醒剤所持で捕まった事を女子アナが伝えていた。主演した作品のヒット率が高く、よく見掛けていたイメージだったため、その衝撃で一気に目が覚めた。
それから、天気予報を背中越しに聞きながら朝の支度を始める。
皿とマグカップを洗っていると、スポーツコーナーはメジャーリーガーの快進撃で終わり、芸能ニュースコーナーに切り替わった。
映画の試写会にサプライズで駆けつけた出演者一同が歓声を浴びている様を伝えた女子アナは、覚醒剤所持で捕まった俳優の顔が再び映ると、声色を変えた。
二度聞いても、数十分が経過しても、この衝撃に慣れずにいる。
スーツに着替え終えた時、占いが始まった。
自分の星座は四位らしい。先輩の話を聞くと吉。ラッキーパーソンは、オシャレなカフェ。
順位もアドバイスもどうでもいい故、参考にするつもりは微塵もないが、反射的に耳を傾け
てしまう。
番組が切り替わった。時間が来た。
まだ、火曜日か……。深い溜め息が出る。
「ちゃんくりぃ、ちょっと」
会社に着いて間もなく、三國が僕に手招きをした。立ち上がり、誘導に従って廊下に出る。
この男は部下の事を、男女問わず業界人の呼び方をする。全員、飽きたどころか最初からしらけており、呼ぶ度にスベっているのだ。
「思春期の娘って、ホント難しいよねぇ」
またいつもの様に寝ぐせを側頭部につけた三國は呟く。
「毎日毎日、怒られて大変な訳よ。〝パンツ一丁でリビングうろうろするな〟だの、〝私のアイス食べるな〟だの、〝鍋の時に直箸するな〟だの、もう嫌んなっちゃうよ」
何れも怒られて然るべきじゃないか。大変なのは絶対に娘の方だと思う。
「もうね、女、女、男だからさ、完全にアウェイな訳。娘はカミさんとはよく喋るけど、俺が話し掛けても素っ気ないのよ。カミさんと言い合いになったら娘がすぐカミさんに加勢するし。もうね、小っちゃい頃からママ大好きでアウェイだった訳。どうすれば娘と仲良く出来ると思う?」
知らねぇよ。何で独身の僕に相談するんだよ。娘がいる社員か、女性社員に訊けよ。
大体、何で廊下に連れ出したんだよ。別に皆の前でも出来る話だろ。
「子供ってさ、男女問わずママ大好きだから、女がママだけでもママがアウェイになる事はないんだよねぇ。ママってずるいよね、全体的に。でも、あれだよな、子供ってさ、母親から産まれるから、何か母親といる方が安心すんのかな、本能的に。じゃあ、考えといて」
三國はデスクに戻った。
考えといて? あの男が娘と仲良くなる方法を、という事か。
マジか……。まさか、宿題を課されるとは。
「あっ、ごめん、ヒーコー頂戴、ヒーコー」
三國がそう言うと、女性社員は給湯室に向かった。
コーヒーを〝ヒーコー〟と言うのが全くウケていない事を、いい加減察してほしい。
「店員さん、ウィンナーコーヒー、Mサイズで。ウィンナーっつっても、ウィンナーソーセージ入れたら駄目だよー」
つまんな……。気を遣った失笑が社内に飛び交う。
それから三國のデスクにコーヒーを置いた女性社員は、「センキューベリーマッチョ」という、つまらない決め台詞を放たれ、仕方なく失笑する。
「あっ、ちょっと待って、ちゃんまみ」
「はい」と、女性社員は自分のデスクに戻ろうとした足を止めた。
「俺さ、前にトム・クルーズに会った事があんだよ、生で! でも、よく見たら鏡だったわ、だっはっはっはっ! びっくりしたよ、もう! トム・クルーズの映画観てたら自分に見えちゃって全然話が入ってかねぇんだよ! だっはっはっはっ!」
女性社員は絞り出す様に笑い、自分のデスクに戻った。
つまらないジョークを目の前で浴びせられたその表情は、疲れ切っている様に見える。不憫で仕方ない。
いい加減にしてほしい。いつも自分しかウケていない事に気付いてほしい。
「ちょっと、お花を摘みに行って来るわ。って、女子かってな! だっはっはっはっ!」という言葉を残して廊下に出た三國は席に戻ると、ついでに自販機で購入したらしい午後の紅茶のレモンティーをがぶ飲みした。相変わらず喉越しの音が鼻につく。
「ぷはー! 午後の紅茶を午前中に飲む背徳感、たまんねぇー!」
うるさいな……。
「俺、ピッチングに結構自信あってさぁ、野球選手になってたら今頃アメリカにいたんじゃないかな。そしたら、大谷翔平はバッターに専念してと思うわ。〝ピッチングじゃあいつには敵わない〟っつって。まぁ、俺、野球やった事ねぇけど! だっはっはっはっ!」
三國のジョークを聞かされ、リアクションを半ば強要されている女性社員は、聞いただけで分かる程の引き攣った笑い声を出す。
「ちょっと聞いてよ、ちゃんくりぃ」
給湯室でカップ焼きそばにかやくを入れていると、三國が来た。
「毎日毎日、スカウトされて大変だよ、ホントにぃ。モデルの事務所やらアイドルの事務所やらぁ。うわっ、寝癖ついてんじゃん。もう、言ってよ、ちゃんくりぃ。何、泳がしてくれちゃってんのさぁ」
鏡に映る自分と目が合い、ようやく寝ぐせに気付いた三國は蛇口を捻った。
「まぁ、これは俺のミスでもあるな。ある意味、俺も悪いと言えば悪かったわ。ちゃんくりだけの責任じゃねぇよ。だっはっはっはっ!」
お前だけのせいだろ。突っ込んだ方がいいのだろうかと思ったが、本人が笑った事で完結したためその必要はないらしい。
水で懸命に処置を施すが、患部が完治しそうにない三國は、「もういいや、諦めよう」と、給湯室を出て行った。
一体、何をしにここに来たのだろうか。
「そうだ、ちゃんくりぃ」
カップ焼きそばの容器をゴミ箱に棄てようとする僕の前に三國が立ちはだかった。
「思い付いた? 俺が娘と仲良くする方法」
濁したまま乗り切る予定だった宿題の存在を思い出した。まさか期限が今日までだったとは。
それよりまずはカップ焼きそばの容器を棄てさせてほしい。
「えっと……、娘さん趣味の話とか……」
仕方なくそう言った瞬間、三國は「いやいやいや!」と、勢い良く手を扇いだ。
「何、普通に答えてんの、ちゃんくりぃ。そこはボケないとぉ。大喜利なんだからさぁ。頼むよ、ホントにぃ」
三國は僕の肩に手を置くと、「ちょっと男子トイレ。って、〝男子〟ってつけなくていいだろってな! 当たり前だろってな! だっはっはっはっ!」と言いながら廊下を出た。
甚だ、嫌悪感を覚える。