師匠
アラームが鳴った。スマホを手に取り、その音楽を止める。時刻は七時十分だった。
入社初日の緊張から解放された疲労が体にこびりついているものの、瞬間移動をした事が気になり、なかなか寝付く事が出来なかった。
八時になり、番組が切り替わった。
これが家を出る時間の合図である事は今までと変わりないが、今までの様な憂鬱は、不思議な程に一切ないらしい。
瞬間移動をした衝撃がそれをかき消している故なのだろうか。それとも、あの会社にはもう行く必要がない事を改めて実感した故なのだろうか。
本当に自分は、瞬間移動をしたのか……。
その疑問が頭にこびりついたまま、家を出る。
ビルに着いた。今日で、二日目。
ダイヤル錠に番号を入力し、開いていく自動ドアに向かって思わず息を吐く。
「あら、来間さん、おはようございます」
「おはよう、汰駆郎君」
「おはようございます」
事務室で、参田と釣井が既に各々のパソコンで作業をしていた。
それから、始業時間の九時になると、釣井は、「じゃあ、ラジオ体操やろっか」と、立ち上がった。
「あっ、もう九時ですね。そうだ、来間さんに言ってませんでしたっけ? 我々は、毎朝ラジオ体操をやってるんです。普段ラジオ体操やる習慣なんてないんじゃないですか?」
「えっ、あっ、はい」
「ところで、唯武樹君は待たなくていいのかい?」
「いいよ、あいつは。どうせまた朝まで吞んで潰れてんでしょ。昨日も言ったのに。てか、どうせ来てもやんないでしょ。じゃあ、始めるよー。あ~た~らし~いあ~さが来たっ!」
釣井のパソコンからラジオ体操の音楽と音声が流れ、二人はそれ等に合わせて体を動かす。
自分もやらなくてはならないのか……。
重い腰を上げ、二人に倣う。
昨日会ったばかりの人物とラジオ体操をする羞恥心を、何とか乗り越えていき、何とかクライマックスの深呼吸を終えた。
やっと終わった。
「じゃあ次、第二行くよー」
マジか……。第二もやるのか……。
その時、事務所のドアが開くと、渡仲が来た。
「うぃーすっ!」
「あっ、来た。しかもちゃんと玄関から。ドクロTシャツとダメージジーンズは相変わらずだけど」
「おはよう、唯武樹君」
「うぃっす」
「あんた、もっと速く来なさいよ、遅刻だよ。あと、スーツ着て来なさいって言ってるでしょ」
「ほんの二、三分遅れただけだし、スーツじゃなくたって何の支障もねぇだろ」
「何言ってんの、五分前行動とスーツ着用は会社勤めの基本でしょ」
釣井はそう言いながらラジオ体操第二を再生させた。
「ほら、あんたもやるよ」
釣井はぴょんぴょん跳びながら言った。
「いいよ、俺は」
その二人のやり取りが数回繰り返されるが、渡仲は立ち上がろうとしない。
やらない奴がいると尚更恥ずかしい。
自分だって出来る事ならやりたくない。
ようやくラジオ体操が終わり、思わず安堵の息をつく。
毎朝こんな思いをしなくてはならないのか……。
何故、この会社はこんなルーティンがあるんだ……。
「唯武樹」
「ん?」
釣井に呼ばれた渡仲は顔を上げる。
「あんたを汰駆郎君専属指導係に任命する」
「へ?」
「汰駆郎君にテレポーテーションを教えるの。汰駆郎君が完全にテレポーテーションを習得するまで」
「おお、いいね、スーちゃん。ナイスアイディアッ!」
参田は両手の親指を立てる。
「今日から午前中は屋上でテレポーテーションの訓練やって、午後は事務仕事。いいね?」
「それって手当出んの?」
「指導に手当が出る訳ないでしょ」
「えぇ? 出るだろ、普通」
「出ぇまぁせぇんっ。仕事は先輩が教えるもんでしょ」
「何だよ、その理論」
「いや、当たり前だから」
「大体、お前が教えればいいじゃねぇか」
「アタシは仕事速いから駄目なの。こんなおっきい穴を開ける訳に行かないでしょ。ね、先生?」
参田はくすっと笑う。
「そうだねぇ。唯武樹君、適任だと思うよ。やってくれない?」
「ほら、先生だって言ってるでしょ。早く訓練始めて下さい、師匠」
これからこいつの弟子になるのか……。
「師匠かぁ……。俺、師匠かぁ……」
渡仲は師〝師匠〟という肩書きが気に入ったのか呟くと、立ち上がりながら、「よし、着いて来い、弟子ぃっ!」と大声を出した。
「おっ、やる気出したぁ」
釣井は笑みを浮かべ、参田は「行ってらっしゃーい」と手を振る。