神風
「じゃあ先生、乾杯の音頭を」
それぞれの手元にジョッキが置かれ、釣井に促された参田は、「うん、そうだね」と返事し、緑茶のジョッキを持った。
「それでは、来間さんの入社を祝して!」
「乾ぱーい!」
ジョッキを突き出す二人に倣う。
「ぷはーっ!」
ビールを一気に半分程吞んだ釣井はそのジョッキを勢い良くテーブルに置く。
「よろしくね、汰駆郎君」
「よろしくお願い致します」
「今朝はホント、ごめんなさいね」
「いえいえ」
「まぁ、吞もう、吞もう。今日は汰駆郎君の歓迎会なんだからっ!」
釣井は僕の肩を叩きながらそう言うと、ビールを再び一気吞みし、数センチを残してテーブルに置いた。
何なんだ、その切り替えの早さは。加害者側が〝まぁ〟とか言うなよ。
レモンサワーに口をつける。
やはり酒は、初対面とではなく、頑張ったご褒美として一人で吞みたい。
イケる口か問われ、吞めると思わず答えてしまった事を悔いる。
それから、釣井が注文した焼き鳥の盛り合わせとシーザーサラダが運ばれてきた。
「仲間が増えてホント良かったね、先生」
サラダを取り分けながらそう言った釣井に参田は、「いやぁ、本当だねぇ」と返す。
その時、唐揚げと枝豆が運ばれると、釣井は残りのビールを吞み干し、店員にそのジョッキを渡しながらおかわりを注文した。
「先生もたまにお酒吞んでみれば?」
「ううん、吞めないよ」
「知ってる。ちょっと言ってみただけ。先生ってさ、吞んでた時期とかもないの?」
「うん、若い頃からお酒はてんで駄目。一滴も吞めないの」
参田はそう言って緑茶を飲む。
「ふーん、お酒吞めないなんて人生六割損してるよ? ね? 汰駆郎君」
急にパスが来た。
「あはっ、でも私は、子供達が笑顔になってくれればそれでいいんです」
「昔から変わらないなぁ、先生は」
「あはっ、髪はこんなに白くなっちゃったけどね」
「髪は初めて会った時にはもう既に結構白かったでしょ」
「あはっ、そうだったっけか」
「うん、あの時ってまだ五十とかでしょ?」
「そうだね、そのくらいだと思う」
「早過ぎだよ、五十って」
「そう、かなぁ」
「うん、早過ぎ、早過ぎ」
「そうなのかぁ」
「アタシ、白髪の相場が分かんなかったからさぁ、ずっとそういうもんだと思ってたもん」
「あはっ、そうだよね」
参田は他のメニューを摘まみながら、それぞれを絶賛していく。
遠慮なく食べて下さいという彼に従い、お通しの冷奴に手をつける。
客を出迎える様に水槽を泳ぐ数種類の魚。あちこちに飾られた竹や水墨画。店内を包むオルゴール音。橋を模した廊下。黒く塗られた木の壁が囲う掘りごたつの個室。
〝神風〟というこの店はどことなく地味で小汚い印象を受ける外観の割に、内装は想定していたよりもマシだった。
「あいつ今頃、女の子と盛り上がってんのかな。フラれてたりして」
カクテキとカルパッチョと共にテーブルに置かれた二杯目のビールを一気に半分程吞んだ釣井は言った。
「あはっ、唯武樹君も来れば良かったのにねぇ」
「ホント空気読めないよね、あいつ。ごめんね、汰駆郎君」
「あっ、いえ」
釣井はそれから、「何であいつって、あんなにチャラくなっちゃったんだろうね。昔はあんなに可愛かったのにさ」と呟くと、ぽんじりを手に取った。
「あはっ、子供は恥ずかしがり屋さんだったね」
「そうそう、いっつも一人で飛行機のおもちゃで遊んでたよね」
「そうだ、唯武樹君は飛行機のおもちゃが好きだったねぇ」
「新しい子が入って来た時はずっとアタシの後ろに隠れてたし」
「そうそう、よくスーちゃんの後ろに隠れてたね」
参田は笑いながら言うと、カクテキを口に運び、どうぞ遠慮なくと、再び僕に勧める。
「よく泣いてたしね」
「そうだねぇ、唯武樹君はよく泣いてたねぇ」
「ちょっとからかわれただけですぐ泣いてたよね」
「あはっ、スーちゃんがいつも庇ってくれてたね」
「えっ、そうだっけ?」
「うん、よく怒ってたよ、スーちゃん。唯武樹君はよくスーちゃんに泣きながら抱き着いてたし」
「あっ、そうそう、それは覚えてる。カラスに襲われた時とかね」
「ああ、あったねぇ」
二人が盛り上がり、アウェーな状況が続く中、遂に水炊きが到着した。
これから初対面と鍋つつかなくてはならないのか……。
二十時過ぎ。
歓迎される側の人間が終始置いてきぼりで、歓迎会とは名ばかりの時間がようやく終わった。
「汰駆郎君って何で来たの?」
「JRです」
「あっ、そうなんだぁ、アタシの家、あれなんだぁ」
釣井は駅の目の前に建つマンションを指して言った。
「では、お二人共、お気を付けて」
会釈して横断歩道を渡り、ビルとアパートの隙間に停められたママチャリに乗った参田は、再び会釈してその場を後にした。
「いやぁ、ホント良かったよ、汰駆郎君が来てくれて!」
釣井と駅に向かっていると、肩をばしっと叩かれた。
「最初さ、十二年くらい前に先生が会社立ち上げて、アタシを誘ってくれて二人でやってて、その後あいつも中学卒業したタイミングで来て、それからずっと三人だけだったの。まぁ、そりゃ、こんな胡散臭い会社で働きたい人なんかなかなかいないよねぇ。テレポーテーション出来る人もすごく珍しいみたいだし」
そう言った釣井は、参田に対する愚痴を始めた。
一人暮らしを始める際、引っ越し作業を手伝いに来てくれたが、最初にタンスを持ち上げようとした瞬間にぎっくり腰をやらかしたため、僅か数分で動けなくなった事。
誕生日ケーキを用意してくれたが、一ヶ月遅れだった事。
終業時間に大雨が降り出した時、貸してくれた傘が壊れていた事。
矢継ぎ早にそれ等が出てくる。
「マンション、すごくいい感じでしょ?」
目と鼻の先になったマンションを改めて指した釣井に、「え、まぁ、はい」と答える。
「来る?」
「いえ」
「吞み直す?」
「いえ」
「いいお酒いっぱいあるよ?」
「結構です」
「アタシ、インテリアに凝ってて、中もおしゃれだよ?」
「結構です」
何故、それで食いつくと思ったのだろう。おしゃれだったら何なのだろう。
「ホントにいいの?」
「はい」
「ホントに?」
「はい」
「じゃあ、今度また誘うね」
引き延ばされた。ちゃんと断ったのに引き延ばされた。
それから「じゃあ、また明日」と手を振ってマンションに去っていく釣井に、会釈で返す。
初日が終わった。
体から解放された緊張が、疲労に変わっていく。
ようやく、初日が終わった。
いや、それより、自分は瞬間移動したのか……。