筋肉
前歯が取れた。ぼろぼろと、抜け落ちていく。
その時、アラームが鳴った。
瞼が開かれ、視界がゆっくりと鮮明になっていく。
すぐに歯を確認すると、夢を見ていた事が分かり、安堵した。
スマホで夢占いのページを開き、検索してみる。
歯が抜け落ちる夢は、現状を抜け出したい気持ちの表れらしい。
占いの類は基本的に信用しないが、これは説得力があるなと、思わず感心した。
出来上がったトーストとコーヒーを置き、テレビを点けると、老夫婦がインタビューを受けていた。小学校から程近い場所で子供食堂を営んでいるらしい。
子供達の喜ぶ顔が生き甲斐。そう話す店主はかなり強面だ。
まさかこの顔の持ち主が、子供食堂を営んでいるとは。まさかこの顔から、〝子供達〟という単語が出てくるとは。
星座占い始まった。出勤までのカウントダウンに溜め息をつきながら、ネクタイを締める。
自分の星座は五位。ラッキーパーソンは、ブラックコーヒー。一人の時間を大事にすると吉。
もうやるべき事は成し遂げたらしい。
そして、星座占いは終わり、番組が切り替わった。
時間が来た。再び、溜め息をつく。
会社に向かって歩きながら、溜め息をつく。
憂鬱だ。足が重い。
「あっ、来間っ!」
背後から声がした。七尾を乗せた自転車が向かって来る。
「うぃーすっ!」
七尾は自転車を降り、それを手で押しながら僕と並んで歩き始めると、「昨日もジムで鍛えまくったぞ」と言いながら力こぶを作った。
また筋肉自慢が始まるのか……。
「ほら、見ろよ」
七尾はワイシャツを捲ると、再び力こぶを作った。
リアクションに困る。
それから、ジムが目の前にあるという理由で決めたマンションから毎日自転車で二時間掛けて通勤しているらしい、筋肉オタクで健康オタクであるこの男の熱弁が始まった。
鬱陶しい。この男の入社時間を避けていたが、鉢合わせてしまい、溜め息が出そうだ。いつもより速く来やがって。
七尾は、日頃のトレーニングのメニューを捲し立てていく。
それは会社に入ってもまだ終わらず、デスクに着くまで続いた。
七尾はいつもの様に、SAⅤASのシェーカーに入ったプロテインを時折飲みながらパソコンを打っている。
ラグビー一筋だったらしい屈強な体は年がら年中、汗臭い。
暑苦しい。存在が暑苦しい。
「来間って筋トレとかしてんの?」
社内の自販機からお茶を取り出していると、ハンドクリップを握る七尾に言われ、「いえ、別に」と返す。
「俺の行ってるジム、滅茶苦茶いいぞ。でも、まぁ、あそこは上級者向けだから、筋トレ始めるんなら違うとこの方がいいかもな」
それから七尾は、頼んでもないのにジムのプレゼンを始めた。
鬱陶しい。暑苦しい。
「筋トレの後には有酸素運動した方がいいぞ。より脂肪が燃焼されやすくなるからな」
筋トレの話は止まらない。
「あと、筋トレすると、エネルギーが枯渇したり、筋線維が損傷したりするけど、適度な期間の休息を摂る事に因って筋肉は、〝超回復〟と言って、休息前より肥大化するわけ」
スイッチが入ってしまったらしい。
「腹筋が二十四時間。上腕二頭筋が四十八時間。背筋が七十二時間。って感じで、時間は部位によって違うから気をつけろよ」
七尾はトイレに向かった。何が、気をつけろよ、だ。
トイレに行く時くらいハンドクリップは置けよ。
「まぁたそんなもん食ってんのか、お前はぁ。駄目だぞ、コンビニのおにぎりはぁ」
コンビニで購入した梅おにぎりを食べていると、一口かじったサラダチキンを持った七尾が近付いて来た。
「そんなんじゃ筋肉つかねぇぞ」
何で僕が筋肉つけたい事前提なんだ。
それから七尾は、日頃の自分の食生活を紹介し始めた。
朝は納豆や青汁といった、健康重視のメニュー。昼はサラダチキンやゆでたまごといった筋肉重視のメニュー。夜は両方の要素を取り入れたメニュー。
それ等をしつこく推奨された。鬱陶しい。暑苦しい。
甚だ、嫌悪感を覚える。