芝浦倉庫1
9
柏本がふり向く。入ってきた小男が後ろ手に通用口のドアを閉めた。中折れ帽に黒革のジャケット。下はTシャツだ。胸元にはシルヴァーの下品なアクセサリーがジャラジャラと揺れていた。ロッカー気取りといったところか。
「こ、来ない? 良子様が来ないってどういうことだ? ぼくは良子様から呼ばれたんだ!」
我儘なガキそっくりの怒声が倉庫の広い空間に響き渡る。
「うるせえ、キイキイ騒ぐな。毎晩毎晩」
黒革が歩き出した。柏本に近づく。
「今日はどうしてやろうか、耳か? 口か? それとも目にしてやろうか、ああ?」
柏本の顔が蒼くなった。夢から覚めたように、まじまじと黒革の顔を見る。
「お、おまえは、葉柴……」
「ようやく正気付いたな」
「そ、そうだ。ぼくは毎晩ここで……」
「そういうこった。さぁ、かかって来いよ。ナイトとしてのトレーニング、模擬戦をはじめようぜ」
「い、いやだ。ぼくはそんな野蛮なことをするような身分じゃない。そんなことは筋肉バカにやらせればいい……」
柏本が後ずさる。
「残念だったな、出来損ない。おまえはその筋肉バカにもなれなかった実験台だからな。おまえ、良子様に触れても貰えなかったんだって? かわいそうになぁ。インジェクションだけじゃな。本物のフュシスをもらえる資格がなかったってわけだ」
「な、なんだって? お、おまえは良子様に何をしてもらったんだ?」
「俺? 俺はちゃんとしたナイトにしてもらったんだよ。手厚くな」
柏本の顔が変わっていく。先ほどまでの怯えた顔に、嫉妬と羨望と恨みが複雑に入り混じっていく。そして、最後に憎しみにひきつった顔が現れた。自分より下の人間が優遇されるのは許さないという怒りが怯えを上回ったのだ。
「そ、そんなことがあるか、おまえみたいなチンピラカメラマンが、俺より価値があるなんて、そんなことがあるか」
「試してみろよ。俺に勝てたら良子様も相手にしてくれるかもよ」
「うるさい!」
葉柴の侮蔑に柏本が激昂した。子どものように柏本は両手を伸ばし掴み掛る。
葉柴がすばやくガードをあげた。脇を締めないムエタイガードだ。そこに柏本の腕が伸びる。
だが、柏本の手は葉柴に届かなかった。狙いすました葉柴の前蹴りが柏本の下腹に減り込んだのだ。
爆発するように跳ねあがり、浮かび上がった柏本の躰が俯せにコンクリート床に叩きつけられる。
「おらおら、何度言ったら判るんだぁ? ちゃんとガードしないとダメだろうが。そんなことじゃ、良子様に相手にしてもらえねぇぞ、出来損ない」
葉柴が倒れている柏本の脇腹を蹴り上げた。柏本が上を向く。
「おら、マシアスになるからにはな、きちんと戦えなけりゃならないって、阿部様にも言われたろうが」
手を伸ばし、葉柴が柏本の胸倉をつかんだ。反対の手で柏本の鼻先を殴りつける。曲がっていた鼻の先がつぶれた。一気に鮮血が噴き出す。葉柴はその血を見て笑顔を浮かべた。楽しそうにさらに拳を叩きつける。柏本のトレーナーも葉柴のTシャツもみるみる血に染まる。
「なんだぁ。今日はすぐに血が止まんねぇな。もうそろそろ切れんじゃないのぉ? まがいもんの人工フュシスの力がさぁ」
葉柴がさらに柏本を殴りつけた。柏本の肌が変色し、腫れあがっていく。
「あがっ」
最初の腹部の激痛に声も出なくなっていた柏本が初めて声を出した。同時に何か白いものが口から飛び出す。歯だ。滅多打ちにされて折れた奥歯が口から飛び出したのだ。
「いい顔になったじゃないか。ああ?」
飛び出したものを見た葉柴が悪魔の笑みを浮かべた。
「そうだ、それいいな。お前の前歯全部折ってやる。そしたら、おまえは歯抜けのじじいだ。おまえみたいな、実力もないのに威張る、無能の出来損ないにぴったりの顔になるぜ」
「いやだ、いや、いやです」
「うっせ」
葉柴が柏本を突き飛ばす。よろよろと柏本は尻餅をつき、臀でいざって何とか逃げようとする。恐怖に葉柴に背を向けることができない。
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