東京メトロポリタン美術館3
葉柴の鉤爪はまんまと優貴の胸倉を掴んでいた。動きが封じられる。
歓喜に葉柴の顔が燃え上がった。
これが葉柴の狙いだった。
葉柴は俊敏な優貴を拘束する万に一つの機会を狙っていたのだ。動けなくしてしまえば、フュシスで強化された膨大な筋力を使った拳や膝を叩き込める。柏本のように顔が変形するまで殴り続けてやる。
葉柴の拳が引かれた。動かない的なら大振りしたって当たる。
『くらえや』
振り回し気味の拳が優貴の顔に飛ぶ。マシアスの乾坤一擲の拳だ。一撃で頭蓋骨が粉砕される。
16
優貴の天才が発動した。
左腕が廻旋し、肘で葉柴のつかんだ手をはらうと、左脚が引かれた。葉柴の左拳が鼻先を掠める。それを掻い潜って伸びた右腕が葉柴の黒革のジャケットの襟を掴んだ。腕をたたむ。前掛かりになっている葉柴の懐に飛び込んだ。腰を落とし、反転、腰を突き上げる。一瞬で、葉柴の躰が宙に舞った。
優貴は右手を放さなかった。葉柴とともに頭から一回転すると、床に落ちる葉柴に全体重を預けた。悪いが受け身はとらせない。
げほっ
葉柴が声にならない声をあげた。自重に優貴の体重を受けて胸郭が潰れたのだ。圧力とショックで息ができず、動けなくなる。
優貴は起き上がると、葉柴を俯せにして、膝に足を入れて関節を極めた。これで葉柴は抵抗できない。
僅かに残った肺腑の酸素を使って葉柴が藻掻く。本当にいい根性だ。だが、一度極まった関節技は解けるものではない。
「くそが、くそが! ぶっ殺してやる!」
藻掻くうちに息が吸えたのか、葉柴が優貴を罵倒した。拘束から逃れようと躰を捩じらせて暴れる。だが、動くたびに走る痛みに葉柴の動きは次第に止まっていく。
「放せ、放しやがれ。クズ野郎が」
無酸素運動のラッシュの反動で、荒い息を吐き、一気に噴き出してきた汗にまみれながらも、葉柴は罵倒し続けた。
「いい運動だったな? 葉柴」
もういい加減大人しくなったタイミングで優貴は葉柴に声をかけた。
「くそっ、ぶっ殺してやる。俺の邪魔をするやつは全員敵だ。ぶっ壊して殺してやる」
床に額を押し付け、拳を叩きつけて葉柴が答える。言葉と態度は元気だが、動きはとれない。空元気だ。
優貴は膝で押さえつけた葉柴の太ももの上でバランスを取りながら、目の前の「夏空」を見上げた。
「そう物騒なこと言うなよ。葉柴」
優貴が葉柴に目線を戻す。
「こんないい写真を撮れる奴の言うことじゃないぜ」
「はあっ」
突然の言葉に葉柴の首が後ろを向いた。おいおい、首がねじ切れるぞ。
葉柴の眸に優貴の静かな肯定の笑みが映った。にやけた忌々(いまいま)しいおっさんの顔はない。
「いい写真だな」
葉柴の視線を優貴の黒瞳が吸い込む。
「な、なんだ、てめえ……」
葉柴の中の圧力が減じた。
「突然、そんなこと言いやがって」
葉柴が前を向く。
「あ、あんた本当にそう思ってくれてるのか?」
葉柴の声に真っ直ぐさが戻る。
「本当に? おれは思ってることを言ってるだけさ。夏の暑さとさわやかさの両方が伝わって来るいい写真じゃないか。うちの相方なんて、サイダーみたいだって言ってたぜ」
「……」
圧力が今度は急激に落ちた。葉柴の躰から力が抜けていく。
「そ、そうか、そう思ってくれるのか。そう思わせることが出来たのか、おれは」
同じ言葉を繰り返す。次第に言葉が湿っていく。前を向いていた葉柴が床に額をつけた。肩が震える。
優貴は極めていた足を外した。葉柴の横に片膝で座る。
もう葉柴が莉愛を狙うことはないのは判っていた。
「どうして、こんなことになった?」
胡坐をかいて頭を落とした葉柴に優貴が尋ねた。
優貴は立てた膝に肘を乗せている。となりには莉愛が横坐りしてた。
「そ、それは、あいつが、柏本が私をウソつき呼ばわりしたためです」
頭を落としたまま葉柴が答える。
「見ての通り私の写真の腕は相当なものです。ですが、それだけでは食べてはいけません。なので、来る者は拒まずでウェブや会社広報、撮影の依頼なら何でも引き受けていました」
葉柴の顔が上がり、自分の作品「夏空」を見上げた。
「そんな状況を何度か脱したかった。それで、コンテストに出品して、大賞を獲ることを狙ってたんです」
優貴が頷く。
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