マツダ2
「絢、葉柴のトレースは?」
「それが」
絢がめずらしく言い澱む。
「それが見失ってしまって。葉柴はIRシステムを潜り抜ける方法を知ってるみたいね」
「了解」
優貴はそう言うと絢にもうひとつ頼みごとをする。これで報酬はパアだ。逆に請求が来る。
13
「そんなことしてどうするの? 美術品強盗でもするつもり?」
「あ、それもいいな。CIAは買い取ってくれっかな?」
「ダメよ。非合法の儲けには興味ないのうちは」
「ちぇっ」
優貴は下唇を突き出して通話を切った。
「傷は大丈夫かい」
「大丈夫さ、ミラーしなくてもこれぐらいなら」
優貴は背中の痛熱を押し殺して口角を上げた。やせ我慢は男の美学だ。
「う~ん」
莉愛が心配を押さえて正面を見る。
「葉柴って、手越と一緒だ」
「ああ」
手越はイザベラで出会ったビジネスマンだ。韓国のアイドル・グループと知り合いだとか、大手自動車会社のコンサルティングをしているとか言って、莉愛を口説こうとした男だった。まぁ、全部ウソなのだが。
「みんな、ウソをついてないと生きていけないんだな」
「そうさ、自分を大きく見せて、周りから尊敬を集めないと生きていけない」
「大きく見せないで、正面の自分を大きくすればいいのに」
「それじゃ、足りないのさ」
「足りない?」
「そう。どうしたって自分より大きな人間はいるからな。正面の自分じゃ負ける。だから足りない。そうなると、正面の自分を見るのが辛くなる」
莉愛が優貴をじっと見た。
「でも、優貴は自分を正面から見る。辛くないの?」
「辛いよ、辛くてよく夜泣きしてる」
「莫迦……」
「まぁ、本当は人の評価を二の次と思ってるからだろうな。おれのことはおれが評価する」
莉愛が目を大きく開いて優貴を見た。次の瞬間、笑顔になる。
「優貴、それ、名言」
「だろ」
優貴は悪びれず答えた。
確かに自分を自分で評価するなら、正面の自分を見なきゃならない。それは、辛いかもしれないが、周囲の評価に振り回されない分だけ毅い。そして、もし周囲からも評価されれば、それはボーナスと思える。
「それに自分を偽ると自分が濁るしな」
「濁る?」
「濁ると、やりたいからやる、おもしれえ、それだけで儲けものってぱっと思えなくなる。他人の評価のために動いちまう」
優貴は莉愛に感謝して話を続けた。痛みから気を逸らすのを助けるために莉愛はマジバナをふっているのは判っている。
「だから、いろいろ考えなきゃならない。それじゃ、その瞬間を愉しめなくなる。そのうえ、人に評価されるためにいろいろ考えなきゃならない。おれはそんなに頭がよくないからな、そういうのは面倒さ。なら、アホでサル顔の自分を正面から見る方がまだまし」
「うふふ」
莉愛が心底から嬉しそうな笑顔を見せた。蕩けるような笑顔だ。
「やっぱり優貴は毅い。好きだぁ、そういうの」
莉愛が優貴の首根っこに齧りついた。
「お、おいっ」
優貴は慌ててステアリングを押さえた。マツダ2の揺れが止まる。
「ごめんなのだ。でも、嬉しいんだよ、あたし」
素直に莉愛が謝る。
「あのなぁ、莉愛、おれは頭が良くないから、ウソを吐くのが面倒って言ったつもりなんだが。おれの話、聞いてたか?」
優貴は呆れて莉愛に言った。
「うん、聞いてた。あたしは優貴のサインを何一つ見落とさないのです」
莉愛はどこまでも満足気にうなづくと優貴の左腕を二の腕を絡ませて、正面を見た。
優貴が向かったのは上野の東京メトロポリタン美術館だった。身元が割れた葉柴拓也はマシアスの拠点に潜伏するに違いない。だが、その前に自分の作品を観に来るのではないか? 虚栄心が強く、自分を飾るウソを重ねていた男が得た純正の世の中からの高い評価が写真コンテストの内閣総理大臣賞だ。表の世界から去る前にもう一度満足しに来るというのもあり得る話だ。
読みとも呼べない読みだったが、賭けるしかない。優貴は葉柴の後難なんて怖くはない。むしろどう出るか愉しみなぐらいだが、莉愛を狙うというのであれば話は別だ。全力で叩き返すというのがダイヤモンドビルの空中庭園で言った優貴のやりたいことなのだ。
次回のアップは8/13の5PMです。