倒れぬ『勇者』と、美しい『神子』
魔王が人の世に現れ、早数百年。
人族の未来は、たった一人に託された。
「ここが〝導きの神殿〟……」
黄金の鎧に包まれた美丈夫が、金の髪を風になびかせ呟いた。続くように頷くのは、これもまた美と可憐を具えた魔女と狩人。
彼ら四人こそが、人族の運命を背負いし者達だ。
「……行こう!」
「ええ」
「了解!」
「……」
声を上げた者達の表情に、油断は欠片も無い。眼前の荘厳な遺跡を見付けるまでの道のりを思えば、当然の警戒である。
美丈夫の青年は整った顔を固め、前方を睨んでいる。攻防のバランスに長けた青年は、戦闘の開始と共に突破口を作る、先鋒の役目を担っていた。迅速に敵の注意を惹く為飛び出せば、鎧の装飾が閃光の軌跡となる。正に勇者の如き獅子奮迅の剣士だ。
「右に寄って、左の地面が不自然だよ」
「分かった、有難う」
青年の直ぐ後ろから進行の指示を出したのは、皮鎧に弓矢を担いだ少女。時には地面に伏せて五感を使った技で罠を見抜き、時には誰より早く敵の出現を察知し矢を放つ。
今は危険な場所である為無駄口を叩かないが、そうでない場所ならとても明るく人懐っこい。幼さの残る顔立ちは可愛らしく、厳しい旅に添えられた花のような存在だ。
「ちょっと、あんまり離れ過ぎないでよ!サラマンダーの加護が届かなくなるわよ!」
「す、すまない」
暗闇が苦手らしい彼女は、出で立ちの通り魔法使いである。火属性の上級精霊、サラマンダーと契約を交わしていて、強い火の魔法を使う。出力を調整すれば、光源としての火の玉も召喚可能だ。
此処までの旅路で、少々足元が覚束ない。自称理論派と公言する少女は、よく机に乗せている胸の巨肉を揺らしながらなんとか足を進めていた。疲労を訴えない根性は認めるが、早々に申告しなければもっと大きな問題となるだろう。
魔法の探究と研鑽に意地と誇りを持つ彼女は、可憐な見目とは裏腹に相当な負けず嫌いである。
外見は知性溢れる美少女が、強い魔力を感じ光源を前方に投げた。
「あったわ、これが……伝説の門」
「〝審判の扉〟、か」
遺跡内部を探索し約二時間、それは在った。
向かい合うよう左右に一人ずつ羽の生えた女性が描かれている、巨大な門。閉じられた状態でこそ完成する中央の太陽には、膝を抱えた天使の姿が。
この門の絵が人族の歴史とどれだけ密接に関係しているのか、絵に込められた意味が人族を救う鍵となるのか、分かる者はいない。
しかしこの門の向こうに在るだろう存在を求めて、青年は幾度と死地を乗り越えて来たのだ。
たっぷり数拍の間を使って、扉を眺める。青年が仲間の顔を見渡せば、視線に合わせ神妙に頷く少女が二人。
そして。
「守りは任せたよ」
「……」
前二人と同じく頷けば、青年も満足そうに頷き返す。少女二人は何故か眉を寄せるが、ずっと彼らの後方を守っていた重装備の戦士は、無言の圧力を無言で流した。
青年が扉に手を掛ければ、緊張は一気に高まる。絵が割かれていくに連れて、眼球を刺す白い光が現れた。
視界の麻痺を防ぐ為瞼を閉じるが、手足の先まで警戒は張り巡らせている。少しでも異変を感じれば、最適解を選び動けるように。瞼越しの光が薄れていく。
天の使いが、降臨した。
「こ、れは……!?」
「うわあああ!」
「……なんて……美しい」
「……」
高い天井に白い石柱の並ぶ広間、その先に安置された結晶の内部に、青年の目的が眠っていた。
薄翡翠の石の中、彫刻と見紛う人が目を閉じている。波打つ白金の髪はその身より長く、結晶の輝きを増長させていた。特徴的な長い耳と指を組ませた白い手、神秘の宿る意匠の服に覆われる細長い肢体は、本当に同じ人族かと疑う程の森厳な存在を思わせる。
この結晶に封印されている者こそ、青年が探し求めた存在なのだ。
遂に見付けた存在に青年が足を一歩踏み入れた瞬間、床が怪しく輝いた。
「なに!?」
「皆、気を付けろ!!」
部屋の全てが振動し、光る床からそれは生まれた。
「〝ミノタウロス〟!!?」
三メートルを超える巨躯は、牛の頭部に二足歩行の化物だ。戦士のような鎧すら身に纏い、両手には青年を押し潰せる程の巨大両刃斧。
勇者の行く道を遮るに相応しい、敵である。
――――――ッ―――――――――ァァ!!!!!!!!!!!!
衝撃波となって青年達を後退らせる咆哮、恐怖とは違う痺れが青年の足を止めさせた。
今までも多くの化物を対峙してきたが、目の前のコレに比べれば赤子に等しい。整った顔を横断する汗が、眉間を過ぎ顎を伝う。
歯を食い縛り気合を入れ直す青年に、斧の影が覆い被さった。
「……ッ」
「すまん!」
金属鎧を胴体ごと切断して余りある斧を弾いたのは、青年の体躯を一回り上回る重戦士。旅ではいつも最後尾に立って奇襲を防ぎ、戦闘時は絶対倒れない戦士である。
全身を金属鎧で守り滅多に話さないので、過去や経歴は全く分からないが、頼れる仲間である事は間違いなかった。
重戦士は牛の化物の前に立ち、タワーシールドを構える。敵の意識と斧の矛先を一手に受け止める姿勢を見て、青年は化物の横へ走り剣を抜いた。
「はああああああ!!!」
手首を狙い、斧を握らせないようにする。しかし刃は全く通らず、むしろ払うように振った腕が青年を吹き飛ばした。
「大丈夫!?」
「ああ、……大丈夫!」
駆け寄った魔女から貰った回復薬を呷り、青年の戦意は再び化物へ向けられる。
風を切る軽い音が、暴風を起こす両刃斧を潜り抜けた。だが化物は僅かに首を傾げて避ける。
「くっ!当たらない……!」
目を狙って矢を放った狩人が、苦々しい表情を浮かべた。
回復薬を届けた魔女は、もう一度重戦士の後ろに回る。魔女も狩人も、そこが最も安全な場所だと知っているからだ。
魔女の周囲に、燃えるような赤光が浮かぶ。
「〈焼き尽くせ 〝ファイヤーストーム〟〉!」
炎の渦が、化物を中心に立ち上った。使用場所を選ぶが、使えれば大半の敵を灰に変えられる灼熱の魔法だ。
それでも、化物の雄叫びは少しも衰えなかった。
「効いてない!?」
「てやあああ!!」
斧の形状を利用した強風が、炎の渦を消し飛ばした。
間髪入れず青年が剣を振る。今度は鎧の隙間に狙いを定め、膝の裏を切った。鮮血が舞うも、数滴に終わる。攻撃の手が緩む処か、視線が重戦士から動く事も無い。
長期戦になる。
覚悟を決めた青年は、剣を強く握り直す。国から授かりし宝剣と、数多の守護が込められた鎧。
形在る期待と形無き想いを胸に、青年は誓い叫んだ。
「俺達は……こんな所で負けられない!!!」
同調して狩人は弓を引き、魔女は杖を掲げる。
「分かってるって!!私達がこの世界を救うんだから!!!」
「当たり前よ!!私こそ世界一の魔法使いだって、証明するわ!!」
力強い呼応で、青年の闘志が全身に巡った。
この仲間達と一緒なら、きっと魔王を倒せる。
世界を救える。
「行くぞ!!」
「よっしゃあああ!!」
「〝ファイヤーランス〟!!」
これが世界を救う最初の戦いだと、青年の心が囁いた。
「……」
二本同時に振り下ろされた両刃斧の重圧に、兜から亀裂音がする。だが重戦士は何も言わず、ひたすら化物の猛攻を弾き続けた。
ただ、盾をかざし続けた。
出現した時と同じ咆哮を上げ、化物はようやく地に伏した。
塵となりこの世から消えていく死体を見ながら、満身創痍の仲間を見渡す。よく生きていたと、自分と仲間を称賛した。
狩人はとっくに矢を使い果たした弓と刃毀れした短剣を放り投げ、地面に転がっている。魔女は杖を支えに立とうとしているが、直ぐに膝を着き諦めた。
二人共汗を流し肩で息をしているが、負傷の類は一切見当たらない。
最初から最後まで化物の凶器乱舞を防ぎ仲間を守りきった、重戦士の功績である。
重戦士はこの中で最も傷付き、しかし体幹に揺らぎは欠片も無かった。鎧は所々に罅が入り、端の方は崩れている部分もある。長方形の大きな盾は、上半分が殆ど砕け消えていた。
それでも青年達が化物を削り切るまで耐え抜き、見事役目を全うしたのだ。
改めて礼を言いたいが、先ずはこの激闘に勝利しなければならなかった、最大の目的を果たす事が先決である。
「……やっと、ここまで来た」
あれだけの奮戦を超えても刃毀れ一つ無い剣を鞘に納め、青年は結晶の前に立った。
背後では荒い息を繰り返す狩人と魔女が、喜びに頬を緩めている。
重戦士は相変わらず無言で、仁王立ちのまま経緯を見届けていた。
青年は結晶に手を当て、記憶を掘り返す。伝説の通りなら、導きの巫女の封印を解けるのはこの世で一人だけだ。
どんな試練にも耐える肉体と、どんな苦難にも折れぬ精神を併せ持った者。
幼少期から血反吐を吐く努力を重ね、ついに国から選ばれるに至った。
人族最強である実績と自負を以って、青年は先祖より伝わる呪文を唱える。
「神の代弁者にして人族の未来を守る者よ、目覚めろ!我こそ其方が求める戦士なり!」
結晶が光輝く。
床にも光が広がり、また化物が現れるのかと二人の少女は身を強張らせた。重戦士は盾を地面から離し、臨戦態勢をとる。
しかし青年には、目の前の結晶しか見えていなかった。分かったからだ。
自分が起こす者こそ、人族の希望であると。
脳裏に蘇るは、家族や多くの友。献身的に青年を支え続けてくれた両親に、自分を憧れてくれる弟。才能に驕るなと語り教えてくれた剣の師、同じ人を師と仰いだ好敵手たち。
多くの出会いと絆が、青年を導き此処まで辿り着かせたのだ。
確信する希望の現界に、笑いが止まらなかった。
美しい未来が、きっと待っている。
結晶から生えた棘が、青年の胴体を引き裂いた。
「………………え?」
声は静かに、まだ光り続ける床に消えた。何故地面に倒れているか、判断が追い付かない。
激戦で体温が上昇した体に、冷たい床が心地よかった。寝転がっていた狩人の気持ちがよく分かる。
急速に暗いベールの掛かる視界が、地面に落ちた髪を捉えた。
「なるほど、お前が勇者か」
青年は永遠の眠りについた。
日頃の鍛錬と経験が実を結び、咄嗟の防御態勢が重戦士を救う。この場で息をしているのは、自分とその男だけだった。
「まさか己で起動呪文を唱えず、配下にやらせるとはな。合理的だが少々俗習に欠ける。次からは控える事だ、勇者には清廉さも必要だろう」
結晶から滑るように降りた天の使いは、人とは思えぬ美しい顔で話し始めた。
美麗も行き過ぎれば命の色を無くす、生物として存在する事実が受け入れられない。理解出来る言葉を話してはいるが、鼓膜を素通りして現実感が得られなかった。
しかもその女神に匹敵する造形の口から低音が零れ、数秒前まで信じていた性別がひっくり返ったのだ。口下手も加われば、返事が出来ないのも仕方がなかった。
「先程の魔物は私の家来でな、名を〝カローバ〟という。試練として配置し戦わせたのだが、何故あれ程の愚者共を配下にしたのだ?理解に苦しむ。起動呪文を唱えた剣士は、剣士と呼ぶのも憚られる技巧の拙さだ。確かにカローバの肉は硬いが、それでもあれだけ斬り付けて与えた損傷は精々全体の二割にも満たない。しかも何故一々声を上げて斬り掛かる?後少し剣の技術が有りほんの僅かでも深く傷を与えていたら、声を上げた瞬間に潰されていただろう。いくら勇者が注意を惹いていても、あれでは無駄に終わるところだったぞ」
床から生えた複数の棘から足を抜き、損傷度合いを確認する。急所の防御は間に合ったが、全ては防げなかった。化物との戦闘が鎧の耐久力を奪っていなければ分からなかったが、それも言い訳である。
肉体そのものの防御は間に合ったので、総合では中傷に抑えられた。歩行も痛覚を我慢すれば、問題無いだろう。
棘が深く食い込んでしまい、無理矢理抜けば崩壊しそうな盾を見る。長年愛用した相棒だったが、これだけ使い尽くされれば本望だろう。一撫でし、盾に別れを告げる。
首を回せば、最初に目に入ったのは無残な少女達の遺体だった。
「狩人など注意を一手に受けていた勇者の背後から狙撃だと、馬鹿なのか?視界を独占している勇者の後ろに居て、その姿が見えない訳が無かろう。明らかに目を狙う弓兵の矢を避ける事など、新兵でも出来るわ。せめて柱の陰に身を隠して弓を引けば、多少は効果が見込めたというのに。しかし本来狩人は軽歩兵。誰よりも動き回り、適切な位置から戦闘の補佐をするのが役目である。動きながら矢を射て急所を穿ち、初めて戦闘で弓兵が生きる道も生まれよう。弓の腕も、凡庸としか評価出来ぬ」
頭部が無事なのは奇跡だと思ったが、なんの慰めにもならない。穴と言う穴から血を流し果て、手足は胴体と共に貫かれ肉片と化している。苦しむ間も無かっただろう事だけが、本当の慰めだった。
重戦士は魔女のローブを捲り、物色を始める。遺体を辱める趣味は無い、ただ放置しても意味の無い物を回収したいだけだ。
指先の感触で発見した物を回収。それは魔女が纏めて持ち歩いていた、回復薬である。化物との戦闘で殆ど使用し残りが心配だったが、一つだけ残っていたのだ。化物の攻撃を往なしながら、出来る範囲で回復薬の使用数は確認していたので分かってはいたが、戦闘中の記憶違いは珍しくない。
最後の回復薬を飲む、薬が接触した部分から痛みの緩和が波となって広がった。深い傷一つなら直接掛ける使い方もあるが、傷が複数で直接傷口に掛けられない場合、経口摂取が推奨される。常に全身を鎧で守っている重戦士は、専らこの使用法だ。
「更にあの魔法使い、なんだあの信じられん魔法しか使わん女は!?何故火の魔法なのに効果時間があれほど短い!?効果が薄いと知れば直ぐに魔法を固定し、同じ個所を燃やし続ける位何故やらん!?しかも一度の魔法に掛かる時間は長いし、使った魔法の属性は一つだけ。信じられん!あんな者は魔法使いではない!手品師か何かだ!次に魔法使いを仲間にするなら、私を通せ。二度とあんな児戯に目を汚したくはない!」
歩行可能な状態から、戦闘可能まで体が回復した。本来回復薬は一人に纏めて持たせるより、分散させた方が良い。多めに持たせる一人が居るのは良いが、いざという時自分でも服用するべきである。戦闘は何が起こるか分からないのだから。
全て魔女に持たせる指示をした青年は、結晶の前で胴体を二分されていた。床から生えた棘とは比べ物にならない、太く多い鎗の山。そこに己が居たらどうなっていたか、考えたくもなかった。
転がっている剣を持って行くか逡巡したが、止める。剣は不得意ではないが、得意でもない。青年の言葉が本当なら、売却にも苦労する一品。手間を考えると、放置が妥当だと判断した。
「しかし……あの剣士擬きは何がしたかったのだ。突然笑い出し、魔力の波にも無反応。いくら剣の腕が底辺でも、魔法の起こりは分かっていた筈だ。もし分からなかったのなら、戦いの世界に身を置くべき者ではない。分かっていて何もしなかったのなら、ただの自殺だ。肉壁としてもあの脆さでは数度と使えまい、……本当に何故あのような者を配下にしたのだ、勇者よ」
重戦士は三人に胸中で黙祷を済ませ、踵を返した。
「だが安心しろ、私は奴らの数百倍は役に立つ。あらゆる分野に精通し、魔の方面に関しては神の域に手を掛けていると言っても過言ではない。知識・教養・芸術・武道に、この美貌。私と言う存在がどれ程重要か、言葉にせずとも一目で知れよう。魔王を打ち倒す旅路に、私が一点の不安も作りは……待て、何処へ行く」
化物出現と同時に閉じた扉は、また大きく開いていた。原理は知らないし、興味も無い。
一度立ち止まり、出口までの道筋を思い出す。出来るだけ記憶しているが、最悪壁を破壊して進むつもりだった。階段を下りたのは一度だけなので、そこを超えれば地下ではなくなる。崩落の心配はない。
灯りの無い、暗闇の道へ足を踏み出す。
「待て!おい、待てと言っているだろう!?」
敵意を感じず、腕を掴まれるまで反応が出来なかった。己で把握している以上に、先の戦闘は体力を奪ったようだ。
満を持して振り返る。
ようやく、二人の視線は交わった。
「何処へ行く、勇者。まだ目的地や互いの戦闘能力の確認を終えていない。例えどれだけ力に自信を持とうと、慢心は三流の行いだ。しっかり話をすべきだろう」
「……違う」
「何か言ったか?」
「俺は、勇者ではない」
「……何を言っている?」
「勇者ではない」
久し振りに喉を震わせたが、予想より声に乱れは無かった。
十分伝言能力を果たした声に安堵し、重戦士は再度暗闇に足を進めようとする。掴まれた手が離れない。
「いや、お前は勇者だ。精神を叩くカローバの咆哮に耐え、数時間にも及ぶ怒涛の攻勢から生還した。最後の私の魔法にも見事対応し、立ち上がったのだ。そんなお前が勇者ではなく、誰が勇者だと言うのだ!?」
「彼だ」
「は!?」
質問に答えたので、今度こそ足を進める。此処に重戦士の目的はもう無いのだ。
重戦士は青年と狩人と魔法使いに雇われただけの、案内人である。
在中する街の人材派遣会社に青年達が依頼し、要望に適うとして重戦士が呼び出された。普段から狩りなどで活動している街近辺の探索と、戦闘時の壁役を頼みたいという依頼だ。その依頼主の目的が、伝説の『巫女』捜索である。
それも依頼人が死亡し、重戦士の依頼失敗という形で幕を閉じた。残念な結果だが、重戦士の力不足が招いたこと。どんな結果であっても依頼が終了したのなら、此処に留まる理由は無い。
しかし三歩と進まぬうちに、強く腕を掴まれ引き留められた。
「仮に!仮に貴様の言葉が真実だとしよう!」
「本当だ」
「真実だとして!!……アレは私が与えた試練を超えられなかった、故に偽物である。本物は生還したただ一人、つまり!お前こそが!世界を救う勇者なのだ!」
「勇者ではない」
「何故だ!?何故世界最高峰の名誉を否定する!?」
細く整えられていた瞼が開き、結晶の色を練り固めた翡翠の眼球を晒す。驚愕を露わにする麗人は、白磁の肌に血色を取り戻していた。本当に生きているのだと再認識する。
生命を感じる言動を始めた麗人は、素材不明なローブの上から自分の胸を叩いた。
「私は古来より人族の未来を導く一族の長にして、並ぶ者無き魔法の使い手である!いずれ訪れると予言された魔王の再来に対抗すべく、究極封印魔法を習得した『神子』が時を超える眠りについたのだ!そして予言を代々受け継ぐ一族に魔王の再来に合わせ、私を起こすように伝承を残した!伝承には明確に勇者の条件を記している!……どんな試練にも耐える肉体と、どんな苦難にも折れぬ精神を併せ持った者こそが、世界の希望を守る勇者となろう、と。私という世界の希望を守れるだけの強靭な肉体が何よりも重要だと、伝承に残していた。ならば私の魔法に耐え生き残ったお前こそ、勇者足り得る!お前にしか、世界を救えぬのだぞ!?」
「どうでもいい」
どれだけ美しい顔で正論を叫ばれようと、重戦士の心には細波一つ起きなかった。
人族の世界が魔王の侵攻で傷付き、滅びに瀕しているのは確かだ。現在の人族の人口が侵攻以前に比べ、十分の一にまで減少しているという話も聞いていた。
この遺跡に着くまでの道のりで、勇者を自称する青年からも話を聞いている。是非世界を救う為力を貸してほしいと、何度も勧誘されていた。連れの少女二人は不満気だったが、反対はしていない。三人の技量では、壁役無しでの旅は厳しいと分かっていたのだろう。
しかしその全てを、重戦士は拒否した。
今の暮らしを捨てる気は、一切無かったのだ。
世界が救われようと滅びようと、どうでもよかった。
「世界の存亡に、興味は無い」
「な……何を言っている!!?世界が滅びればお前も、お前の近しい者も一人残らず殺されるのだぞ!?本当に理解しているのか!?待て!!去ろうとするな!!」
何時までも放れない手を振り払い、帰路に着く。神子と名乗る麗人は、必死に後を付いて来た。
背丈にさほど差は無いが、神子の衣服はとにかく裾が長い。歩幅を制限されているなら、早歩きになるのも仕方が無かった。
一度通った道とはいえ大声を上げるのは止めてほしいが、あまり喋りたくない重戦士は無言で歩みを進める。
兜から亀裂が広がる音。既にかなりの損傷具合で、その上歩行による振動で傷が深まりつつあった。頭部を守る重要な防具だが、戦闘中に割れるよりは無い状態での立ち回りを意識して進むべきである。
丁度前方に魔女が落ち掛けていた落とし穴を見付ける、そこに放り捨てようと淵で立ち止まった。
内部で留め金を外し、特殊な安全装置を外す。どんな強い攻撃が直撃しようと、外れてしまわないように特別な仕掛けが施されているのだ。それは全身の鎧に適用されていた。
数日ぶりに兜を外し、深い息が零れる。
赤黒い血が舞った。
「……ま……まさか……」
乾いた血のような色の毛先が四方に跳ね、こびり付いた癖は手櫛程度ではどうにもならない。特に直そうともせず、包帯に隠された右目を指で触った。ズレはない。
炎の核を埋めた色の瞳は微動だにしない、薄黒い隈は疲労でもなんでもなく普段通りだ。
目尻と眉の鋭さも、個の芽生えと共に受け入れている。
これも長い付き合いだったと微かに湧いた名残を切り捨て、兜を罠である穴に投げ捨てた。闇に投じられた兜はたっぷり十を数え、やっと遠くで甲高く鳴いて見せる。
ついでに他の修復不可能な防具は無いかと、脚部の装甲から確認する事にした。
「おまえ……女だったのか!!?」
他の部位は修復が可能だと分かり、安心して歩みを再開した。これだけ体に合った防具を揃えるのは大変である、特に重戦士は性別に反して体が大きい。この体格のおかげで戦えているとも言えるが、特注でなければ最大の防御能力を発揮するのは難しかった。
最低限の修繕費だけで済むと知り、帰宅の足取りが早まる。
背後でまた足音が荒ぶろうと、どうでもよかった。
「ま、待てと何度言えば分かる!?お前、女の身で私の魔法を耐えたのか!?ただの人族の女にそんな芸当が……まさか混血か!?魔物か何かの血が混ざっているのか!?だがお前の体から闇の気配は無いぞ、まさか私のような中性な顔立ちなのか!?おい!聞いているのか勇者!!?」
「勇者ではない」
「ええい!そこしか聞こえんのか貴様!?」
階段を登り、街に戻れる時は近い。遺跡を出た後には、背後で今も何かをがなり散らす麗人を離さなければならなかった。
本当に青年の言っていた神子なのかと、疑問が湧く。神より知性と魔法の才を授かったと言われる神子だが、何度勇者ではないと告げても聞き入れない事が不思議だった。知能の低い重戦士の言葉を伝説の神子が理解出来ないなど、魔王を殺せるより在り得ないのだから。
暫し思考の波を立て、答えに辿り着く。
突然止まった重戦士の背中に、神子がぶつかる。
顔を抑えているが、どうでもよかった。
「ぐぅぉおおおぉ……き、さまぁ……、創造神様の生き写しと囃された私の顔を……!?」
「アイソーション」
「は、何を……」
「俺は、アイソーション」
勇者ではないとしか告げず、では誰かを伝えていなかった事に思い至ったのだ。
重戦士は翡翠を直視し、己の呼び名を伝えた。これで間違われないだろう。
「……アイ……愛と名に含まれているのか……。良い名だな」
思いのほか強い反応を示したが、本名ではない。重戦士はそれを伝える気は無いし、会話は苦手である。
どうせ遺跡を脱出するまでの付き合いなのだ、個人を区別できればそれでいい。
数度目になる歩みの再開に、神子は無言で付いて行く。
脱出後には黙っていた分を返上する程喚き散らすのだが、まだ後の話しである。
これから世界を救う旅が始まる、訳ではない。
アイソーションと鎧の名前を名乗った重戦士は、己の住む街に戻りそこで一生を終える。神子が役割を果たしたかどうかは、重戦士が寿命を全うした事実だけで十分な証明となるだろう。
世界を救う旅はなされなかったが、体の大きな女戦士の傍を生涯離れなかった麗人の逸話は残っている。
不倒の騎士と美しい魔法使いの伝説は、永く数多の吟遊詩人に歌い語られた。
魔王の歌は無く、暗黒時代がどのように終わったのか、知る者は誰もいない。
騎士と魔法使いの人相や性別ですら、真実は何も歌に刻まれなかったのだ。
しかし二人の人生がどのように世界を変えたとしても、変わらない事実が一つだけ在る。
世界を救えるのはやはり、『勇者』と『神子』だけなのだ。
閲覧有難う御座いました。